王子の溺愛癖を、私はまだ知らない。

Wataru

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言えなかった

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 部屋に戻っても、しばらくエリナは動けなかった。

 扉を閉め、背中を預ける。
 ゆっくり息を吐いてから、ようやく足に力が戻った。

(……何も、されなかった)

 問い詰められたわけでもない。
 責められたわけでもない。
 声を荒げられることすら、なかった。

 それなのに。

 胸の奥が、落ち着かない。

 椅子に腰を下ろし、両手で顔を覆う。
 瞼を閉じると、あの執務室が浮かんだ。

 整いすぎた空間。
 穏やかな声。
 そして――

「君は、よく夜に出かけるらしいな?」

 あの一言。

(……気づいていたのかな)

 街で出会った人のこと。
 外套のこと。
 自分が、誰に会いに行っていたのか。

 直接言われたわけじゃない。
 名前も、確証も、何ひとつ。

 それでも。

 あの問いかけは、
 まるで“知っている前提”で置かれたもののように思えた。

(だって……)

 言いかけて、やめた言葉。

 ――だって、それはあなたに会うために。

 口にしてはいけない。
 言ってしまえば、もう戻れない気がした。

 それなのに。

 王子は、何も追及しなかった。

「それだけで十分だ」

 あの穏やかな笑顔。

 咎めるでもなく、
 許すでもなく、
 ただ、受け止めるような声音。

 もし、あのとき――
 言っていたら、どうなっていたのだろう。

 だって……
 その先を、頭の中でなぞってみる。

 「俺も会いたかった」
 なんて。

 そんな言葉を、あの人が返してくれるだろうか。

 すぐに、首を振る。

——そんなはず、ない。

 王子様は、そういうことを言う人じゃない。

 優しく見えただけで、
期待していい理由なんて、どこにもない。

 それでも。

 ほんの一瞬、
 そう言ってもらえたらいいのに、と思ってしまった自分が
 胸の奥に残っていた。

(……言わなくて、よかった)

 そう思おうとするほど、
 その言葉は、喉の奥で静かに疼いた。

(……ずるい)

 小さく、そう思う。

 逃げ道を残したまま、
 踏み込むかどうかを、自分に委ねてくる。

 それなのに――

(……ほっと、した)

 自覚した瞬間、胸がきゅっと縮こまった。

 問い詰められなくて、よかった。
 決定的な言葉を向けられなくて、よかった。

 そう思ってしまった自分が、怖い。

(終わらなくて……よかった、なんて)

 そんなふうに考えるのは、
 あまりにも都合がよすぎる。

 エリナは、首を振った。

 王子は、王子だ。
 妃候補である自分に、丁寧に接しただけ。

 それ以上でも、それ以下でもない。

(……そう、だよね)

 言い聞かせるように、胸の中で繰り返す。

 それでも。

 「今日は、それでいい」

 あの言葉が、何度も蘇る。

 ――今日は。

 まるで、
 続きを当然のように用意されているみたいで。

 寝台に腰を下ろし、天井を見上げる。

 静かな部屋。
 何も起きていない夜。

 なのに。

 心だけが、
 ゆっくりと、どこかへ運ばれている気がした。

(……私は、どうしたいんだろう)

 答えは出ない。

 ただ一つ分かるのは、
 あの呼び出しで、何かが“始まってしまった”ということ。

 優しかった。
 何もされなかった。
 それなのに、確かに――近づいてしまった。

 エリナは、そっと目を閉じた。

 檻は、まだ見えない。
 扉も、閉まっていない。

 それでも。

 自分が、もう入口に立っていることだけは――
 否定できなかった。
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