王子の溺愛癖を、私はまだ知らない。

Wataru

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行かなかった後悔

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夜の王宮は、音が少なかった。

 灯りの落ちた回廊を歩きながら、エリナは何度も足を止めそうになる。
 けれど、そのたびに、前を向いた。

(……今日は、行かない)

 そう決めたはずだった。

 昨日、あんなことを言われたから。
 ――お願いが言えたら、部屋に入って待っていてもいい。

 あれは、許しではない。
 条件だ。

 それが分かっているからこそ、
 今日は、行ってはいけない気がした。

 なのに。

 気づけば、ここに来ていた。

 王子の私室の前。

 扉は、閉まっている。
 中からは、何の気配も伝わってこない。

(……まだ、起きてるのかな)

 考えてしまった瞬間、
 胸の奥が、ひくりと痛んだ。

 呼ばれていない。
 お願いも、言えていない。

 ここに立つ理由は、ない。

(……帰ろう)

 そう思って、踵を返そうとする。

 けれど、足が動かない。

 昨日、この扉の向こうで目を覚ました。
 あの静かな声。
 朝の光。

 拒まれなかった記憶が、
 今になって、胸を締めつける。

(……期待、してる)

 自分でも分かるほど、はっきりと。

 もし。
 もし、この扉が開いたら。

 何も言えなくても、
 何もされなくても。

 ただ、そこにいてくれたら――

(……だめ)

 慌てて、首を振る。

 それは、昨日言われたことと、違う。
 待つだけじゃ、駄目だ。

 欲しいなら、口にしろ。

 その言葉が、今も胸に残っている。

(……言えないくせに)

 情けなくて、苦しくて、
 思わず胸元を押さえた。

 息が、少し浅い。

 このまま立っていたら、
 昨日と同じことを繰り返してしまう。

 だから。

 エリナは、ゆっくりとその場を離れた。

 振り返らなかった。
 振り返ったら、戻ってしまう。



 自室に戻っても、眠れなかった。

 寝台に横になっても、
 目を閉じるたびに、あの扉が浮かぶ。

 静かな廊下。
 閉じた扉。
 向こう側にいるはずの人。

(……今、何をしているんだろう)

 考えてはいけないことを、
 考えてしまう。

 もし、扉を叩いていたら。
 もし、一言でも言えていたら。

 結果は、違ったのだろうか。

(……やっぱり)

 胸の奥が、ぎゅっと痛む。

(……行けば、よかった)

 昨日は、眠ってしまった。
 今日は、何も言わずに帰ってきた。

 どちらも、自分で選んだはずなのに。

 選んだ結果が、
 こんなにも苦しいなんて思わなかった。

(……ばか)

 小さく呟いて、顔を伏せる。

 何もされていない。
 何も起きていない。

 それなのに、
 胸がこんなに苦しい。

 期待してはいけないと分かっているのに、
 期待しなかった自分を、今は責めている。

(……明日は)

 考えた瞬間、胸が跳ねた。

 明日は、どうするのか。

 行かない?
 それとも――

(……言えるかな)

 お願い。

 たった一言なのに、
 まだ、喉の奥で引っかかっている言葉。

 眠れないまま、
 エリナは何度も寝返りを打った。

 静かな夜が、
 いつまでも終わらない気がして。

 そして気づいてしまう。

 今日、何も起きなかったことが、
 こんなにも苦しいのは――

 もう、自分が「待つ側」では
 いられなくなっているからだと。
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