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君が辛いなら辛いでいいんだよ
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十二月に入ると、僕は相変わらず学校には行かないままだったが、妹の咲千花の不登校も長引いているのが気にかかってきた。
自分のことを棚に上げて、とは思うものの、咲千花は元々友人が多い性格だったし、特に本人に問題があるとは思えない。
中学二年生という多感な時期に今のような状態に追い込まれていることが、なお不憫だった。
僕は未だに、咲千花の不登校の原因を知らない。身内からそれを聞き出されることが、どうしようもなく辛いこともあると知っていたからだった。
「何だか心ここに在らずかなと思っていたら、そういうことだったんだ」
「本当は、妹の了承もなく人に言うことじゃないんですけど」
糸のように細い三日月がかかっている十二月の空は、このところ急に冬らしく澄み始めた。
「しつこく聞き出した私が悪いよ」
今僕たちがいるのは、五月女世界の病院前だった。
時刻は二十時。
ひと仕事を終えた先輩は既に病棟を後にして、いつものベンチに僕と並んで座っていた。「治療」を終えた直後は、いつもそうなるように、質量がないはずのゴーストが頼りない足取りでよたよたと戻ってきて、どさりと――音はしなかったが――ベンチに腰掛け、大儀そうにしていた。
既に、辺りには虫の声がなることはまばらになっていた。
代わりに、褐色や紅に色づいた落ち葉が、風に揉まれてかさかさと音を立てながら道の上を滑っていく。スポットライトのように街灯が落とした光の円の中に、現れては去っていくいくつもの葉は、確実に季節が過ぎ去っていることを僕に教えた。
高校一年生の夏は、ほとんど家の中で過ごした。そして、秋も過ぎ去ろうとしている。
ゴーストがなければ、いや、あったところで僕の行為を見てくれている水葉先輩がいなければ、今頃どんな心地で過ごしていただろう。
それが――今の咲千花だ。
「僕はいまだに、妹が登校拒否になった理由を知らないんです」
「ゴーストが昼間でも出せれば、学校に潜入すれば水葉世界ででも何かヒントが見つかるかもしれないけど、夜じゃね……」
「多分、水葉世界の咲千花も学校に行けなくなっているとは思います。そちらの僕もそうでしたから。その原因も、似たようなものだと思うので、確かに昼間に何とか学校に行きたいですね……歯がゆいです」
「私は、下級生のところにはなかなか顔出しづらいけど、それとなーく探れたら探ってみるよ」
僕は苦笑した。
「それを、さりげなくは無理だと思いますよ。先輩に手間をかけさせるつもりじゃないんです、何か……せめて二学期が終わる前には、解決させるか、そうでなくても糸口はつかみたいんですけどね。第一先輩、やっぱりここのところずっと、調子が悪そうですよ。ゴーストが負担になってるんじゃないですか?」
「えー、そう? 親とかからは、むしろゴーストを出した後に会うと顔色がいいって言われるんだけど」
「それを嘘だとは言いませんけどね。一昨日も結局、僕だけで病院に行ったじゃないですか」
最近、先輩の体調が優れないように見えたので、水葉世界ではあまり実体で外を歩かないようにしてもらっていた。
僕が病院から戻ってくると、先輩の家の前で数分程度、挨拶するのと大差ないような会話をして終わりにしている。
その分、五月女世界では話し込むことが多かった。僕の場合はゴーストを出すことで体に負担がかかっている覚えはなかったけれど、先輩も同じとは限らない。
「ですから、尚更僕からは先輩に頼みごとなんてできません。ご自愛ください」
「うーん。でも、私は、一定以上にはよくならないんだよね」
あまりにもそっけない口調で言われたので、最初は、意味がよく分からなかった。
先輩の、最近は前よりも更に鮮明に見えつつあるゴーストを見つめたら、目が合った。その気になれば、もっと近づいたなら、まつ毛の一本一本を数えられそうだった。
「……先輩?」
「あんまりずっと心配させ続けてしまうと悪いから、今言っておくね。あ、でも、そんなに深刻なことじゃないから。不治の病とかじゃないし」
病気。
考えもしていなかった。それくらい、水葉先輩は、僕といる時はいつも朗らかだった。辛く苦しい病人を治す側の人であって、自分自身が病理を患っている側にいるなどとは、思いもしなかった。
「一体、何の……」
「五月女くんは、エイズって知ってる?」
肉体の殻ではなく、魂の頬を叩かれたような気がした。
頭の中を、中途半端な知識が駆け巡る。
絶句している僕に、先輩が慌てて両手をぱたぱたと横に振る。
「ち、違う違う。本当に、知ってるかどうか聞いただけ。あれって、免疫不全の病気なんだよね。健康体ならかからないような病気にかかったり、重症化しないような病気で重態になったり。私はエイズではないんだけど、症状が似てるの。免疫不全、というやつ」
「免疫、不全……」
オウム返しに、それだけ口に出す。
「子供の頃からだから、慣れたものではあるんだよ。薬を続けてれば、日常生活を送ることはできるし」
「……生まれつきなんですか?」
「そうだね。もっと重篤になる人もいるそうだから、とりあえずは私は、恵まれた方だって言えるのかもしれない。健康なら手に入る自由が、無条件に制限されてる辛さっていうのは、だから少しだけ分かるんだよね」
それで、怪我人よりも病人を治す方に意識が向いていたのか、と勝手に納得する。
「五月女くんが、自分の意志でもないのに登校できずにいるのも、そういう理由で頭にきちゃうわけ」
「そんな……僕の体は健康ですよ。先輩とは、状況が……僕なんて全然、」
「おやめ」
半分おどけた口調で、水葉先輩は僕の唇の前に、人差し指をぴっと立てた。
「君が辛いなら辛いでいいんだよ。人と比べて、自分の苦しさをないことになんてしなくていい。だいたい私は、腫れ物に触るような扱いをされるほど重病人ってわけじゃないんだから」
「……先輩」
「ん?」
「僕は、先輩に、何かをしてあげたいんですが」
「え、何、急に」
「急にではありません。いつも思ってます。でも、何をあげたらいいのかも、その方法も分からないんです。人生の経験値が低過ぎて。もっと幅広い知識と、豊かな交流経験があればよかったんですが」
「いや、そんな都合のいい経験もそうそう詰めないと思うから、気にしなくていいんだけど……」
先輩は、頬をかきながら、気持ちだけで充分だけどな、と地面に向かって呟いた。
「私がいつか大怪我したら、治してくれるっていうのでどう?」
「そんなの、頼まなくても当たり前じゃないですか。だめですよ。……あ」
あることが思い当たった僕を見て、なぜか、先輩は苦い顔をした。
「僕のゴーストがあるじゃないですか! 僕が、先輩の病気を治しますよ。いや、少なくとも改善させてみせます」
暗い夜の中で、目の前が急に明るくなった気がした。
しかしそれとは対照的に、水葉先輩の表情は沈んでいる。
「……先輩?」
「そう言うと思ったよ。五月女くんが、私の病気のことを知ったら。でもだめ」
「どうして」
十二月に入ると、僕は相変わらず学校には行かないままだったが、妹の咲千花の不登校も長引いているのが気にかかってきた。
自分のことを棚に上げて、とは思うものの、咲千花は元々友人が多い性格だったし、特に本人に問題があるとは思えない。
中学二年生という多感な時期に今のような状態に追い込まれていることが、なお不憫だった。
僕は未だに、咲千花の不登校の原因を知らない。身内からそれを聞き出されることが、どうしようもなく辛いこともあると知っていたからだった。
「何だか心ここに在らずかなと思っていたら、そういうことだったんだ」
「本当は、妹の了承もなく人に言うことじゃないんですけど」
糸のように細い三日月がかかっている十二月の空は、このところ急に冬らしく澄み始めた。
「しつこく聞き出した私が悪いよ」
今僕たちがいるのは、五月女世界の病院前だった。
時刻は二十時。
ひと仕事を終えた先輩は既に病棟を後にして、いつものベンチに僕と並んで座っていた。「治療」を終えた直後は、いつもそうなるように、質量がないはずのゴーストが頼りない足取りでよたよたと戻ってきて、どさりと――音はしなかったが――ベンチに腰掛け、大儀そうにしていた。
既に、辺りには虫の声がなることはまばらになっていた。
代わりに、褐色や紅に色づいた落ち葉が、風に揉まれてかさかさと音を立てながら道の上を滑っていく。スポットライトのように街灯が落とした光の円の中に、現れては去っていくいくつもの葉は、確実に季節が過ぎ去っていることを僕に教えた。
高校一年生の夏は、ほとんど家の中で過ごした。そして、秋も過ぎ去ろうとしている。
ゴーストがなければ、いや、あったところで僕の行為を見てくれている水葉先輩がいなければ、今頃どんな心地で過ごしていただろう。
それが――今の咲千花だ。
「僕はいまだに、妹が登校拒否になった理由を知らないんです」
「ゴーストが昼間でも出せれば、学校に潜入すれば水葉世界ででも何かヒントが見つかるかもしれないけど、夜じゃね……」
「多分、水葉世界の咲千花も学校に行けなくなっているとは思います。そちらの僕もそうでしたから。その原因も、似たようなものだと思うので、確かに昼間に何とか学校に行きたいですね……歯がゆいです」
「私は、下級生のところにはなかなか顔出しづらいけど、それとなーく探れたら探ってみるよ」
僕は苦笑した。
「それを、さりげなくは無理だと思いますよ。先輩に手間をかけさせるつもりじゃないんです、何か……せめて二学期が終わる前には、解決させるか、そうでなくても糸口はつかみたいんですけどね。第一先輩、やっぱりここのところずっと、調子が悪そうですよ。ゴーストが負担になってるんじゃないですか?」
「えー、そう? 親とかからは、むしろゴーストを出した後に会うと顔色がいいって言われるんだけど」
「それを嘘だとは言いませんけどね。一昨日も結局、僕だけで病院に行ったじゃないですか」
最近、先輩の体調が優れないように見えたので、水葉世界ではあまり実体で外を歩かないようにしてもらっていた。
僕が病院から戻ってくると、先輩の家の前で数分程度、挨拶するのと大差ないような会話をして終わりにしている。
その分、五月女世界では話し込むことが多かった。僕の場合はゴーストを出すことで体に負担がかかっている覚えはなかったけれど、先輩も同じとは限らない。
「ですから、尚更僕からは先輩に頼みごとなんてできません。ご自愛ください」
「うーん。でも、私は、一定以上にはよくならないんだよね」
あまりにもそっけない口調で言われたので、最初は、意味がよく分からなかった。
先輩の、最近は前よりも更に鮮明に見えつつあるゴーストを見つめたら、目が合った。その気になれば、もっと近づいたなら、まつ毛の一本一本を数えられそうだった。
「……先輩?」
「あんまりずっと心配させ続けてしまうと悪いから、今言っておくね。あ、でも、そんなに深刻なことじゃないから。不治の病とかじゃないし」
病気。
考えもしていなかった。それくらい、水葉先輩は、僕といる時はいつも朗らかだった。辛く苦しい病人を治す側の人であって、自分自身が病理を患っている側にいるなどとは、思いもしなかった。
「一体、何の……」
「五月女くんは、エイズって知ってる?」
肉体の殻ではなく、魂の頬を叩かれたような気がした。
頭の中を、中途半端な知識が駆け巡る。
絶句している僕に、先輩が慌てて両手をぱたぱたと横に振る。
「ち、違う違う。本当に、知ってるかどうか聞いただけ。あれって、免疫不全の病気なんだよね。健康体ならかからないような病気にかかったり、重症化しないような病気で重態になったり。私はエイズではないんだけど、症状が似てるの。免疫不全、というやつ」
「免疫、不全……」
オウム返しに、それだけ口に出す。
「子供の頃からだから、慣れたものではあるんだよ。薬を続けてれば、日常生活を送ることはできるし」
「……生まれつきなんですか?」
「そうだね。もっと重篤になる人もいるそうだから、とりあえずは私は、恵まれた方だって言えるのかもしれない。健康なら手に入る自由が、無条件に制限されてる辛さっていうのは、だから少しだけ分かるんだよね」
それで、怪我人よりも病人を治す方に意識が向いていたのか、と勝手に納得する。
「五月女くんが、自分の意志でもないのに登校できずにいるのも、そういう理由で頭にきちゃうわけ」
「そんな……僕の体は健康ですよ。先輩とは、状況が……僕なんて全然、」
「おやめ」
半分おどけた口調で、水葉先輩は僕の唇の前に、人差し指をぴっと立てた。
「君が辛いなら辛いでいいんだよ。人と比べて、自分の苦しさをないことになんてしなくていい。だいたい私は、腫れ物に触るような扱いをされるほど重病人ってわけじゃないんだから」
「……先輩」
「ん?」
「僕は、先輩に、何かをしてあげたいんですが」
「え、何、急に」
「急にではありません。いつも思ってます。でも、何をあげたらいいのかも、その方法も分からないんです。人生の経験値が低過ぎて。もっと幅広い知識と、豊かな交流経験があればよかったんですが」
「いや、そんな都合のいい経験もそうそう詰めないと思うから、気にしなくていいんだけど……」
先輩は、頬をかきながら、気持ちだけで充分だけどな、と地面に向かって呟いた。
「私がいつか大怪我したら、治してくれるっていうのでどう?」
「そんなの、頼まなくても当たり前じゃないですか。だめですよ。……あ」
あることが思い当たった僕を見て、なぜか、先輩は苦い顔をした。
「僕のゴーストがあるじゃないですか! 僕が、先輩の病気を治しますよ。いや、少なくとも改善させてみせます」
暗い夜の中で、目の前が急に明るくなった気がした。
しかしそれとは対照的に、水葉先輩の表情は沈んでいる。
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