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空気を震わせることのない絶叫と妹
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僕は少しだけ面食らってから、釣られて笑顔になる。
「でもそれなら、僕の指も渡した方がいいですよね」
「あ、え、うーん、ちょっと練習がいるから、すぐにはやめといた方がいいよ。それに、二人で一つ共有してれば充分でしょ」
そう言う先輩の目が、ふっと曇る。
「もしかして……かなりしんどいですか?」
やはり、指をちぎるという行為は、パンをちぎるようにはいくまい。
「……何度か、ゴースト状態で気絶したかな……」
「何で隠れてそんなことやってるんです!?」
「ちょっと意地になったとこはあるかな! これくらいやり遂げなきゃ女の名折れみたいな!」
「こんなところで先輩の女性性を掛ける意味は全くないと思いますが!?」
とにかくこの日は、先輩には病院での治療をせずに帰ってもらうことにした。
別れの時、水葉先輩が「バイバイ」と言うと、僕の手の中の指がわずかに左右に揺れた。
うちに帰り、元はミントキャンディか何かが入っていた、小さな四角い空き缶に、切ったハンカチをベッド代わりにして先輩の指を入れる。
しばらくは微動だにせず、機能が停止してしまったのかと心配していたら、先輩が水葉世界から動かしているのか、缶の中でひょこひょこと動いた。
僕は夜明けまで、動いたり止まったりする指をずっと見ていた。
部屋の中に朝日が差し込んでくると、指は透明度を増し、やがて空気に溶けるように消えた。
でも、見えなくなっても、確かにそこにあるのだと感じる。
やがて窓の外では人が気配がし、階下では母さんが起き出して出かける支度をする音が聞こえてきた。
僕が、最も後ろめたく、部屋の中で居心地の悪さを味わう時間。
けれど、何も入っていない蓋の開いた缶を眺めていると、今朝は全然滅入らないで済んだ。
それにしても、見方によっては、まるで僕の部屋の中で先輩に見張られているかのようだ。
先輩が怒るような悪いことは、この指の前ではできないな、と思った。
「奏、起きてる?」と母さんが呼ぶ声が、階段の下から響いてきた。
「起きてる」
「明日お母さん、朝早いからね。夜も遅いから、どこかで食べてくるよ」
「分かった」
年の瀬が近づくと、母さんの遠出や出張が増えるのは、毎年のことだった。
登校しないまま、二学期の終わりは、徐々に近づいている。
一度部屋に戻って、やはり一度トイレに行こうと思い、すぐにドアを開けた。すると、右手にある部屋から出てきた咲千花と鉢合わせた。
「あ」
と、咲千花が気まずそうに、腕で軽く顔を隠す。
目元が腫れ、頬に涙の跡があった。これを見られたくなくて、僕が部屋に入ったのを見計らって出てきたのだろう。
「……咲千花。何か飲むか?」
「ううん、平気、ありがと。部屋のティッシュなくなったから、取りに行くね」
鼻をすすりながら、咲千花が階下へ向かう。普段はあまり変わりなく見えても、こうして、一人で部屋で泣いていることは、よくあるようだった。
胸が、鋭い爪で絞りあげられるように痛む。
僕の妹は、なぜこんな思いをしているのだろう。僕はともかく、咲千花は何とか持ち直して欲しい。
母さんは咲千花の中学校と相談を何度かしたようだけど、進展はない。僕に何かできることはないか聞いても、その度に、余計に咲千花を追い詰めることになるから大人に任せておけと言われて黙るしかなかった。
確かに、不登校の兄がしゃしゃり出て、何かが改善されることというのはあまりないかもしれない。何かしら、悪化するものはありそうだけど。
その時、階段の途中で、僕に背を向けたまま、咲千花がぴたりと降りる足を止めた。
どうかしたのかと首をかしげると、咲千花は、振り返らないまま告げてきた。
「……お兄ちゃん」
「うん?」
「あたし、学校に行けなくなってごめんね」
それだけ言うと、咲千花は再びたんたんと一階へ降りていった。
僕は部屋のドアを開けると、ベッドにうつ伏せに飛び乗った。枕を顔に当て、大きな声で吠える。
身を切るような悔しさと、燃えるような怒りで、体がばらばらになってしまいそうだった。
「でもそれなら、僕の指も渡した方がいいですよね」
「あ、え、うーん、ちょっと練習がいるから、すぐにはやめといた方がいいよ。それに、二人で一つ共有してれば充分でしょ」
そう言う先輩の目が、ふっと曇る。
「もしかして……かなりしんどいですか?」
やはり、指をちぎるという行為は、パンをちぎるようにはいくまい。
「……何度か、ゴースト状態で気絶したかな……」
「何で隠れてそんなことやってるんです!?」
「ちょっと意地になったとこはあるかな! これくらいやり遂げなきゃ女の名折れみたいな!」
「こんなところで先輩の女性性を掛ける意味は全くないと思いますが!?」
とにかくこの日は、先輩には病院での治療をせずに帰ってもらうことにした。
別れの時、水葉先輩が「バイバイ」と言うと、僕の手の中の指がわずかに左右に揺れた。
うちに帰り、元はミントキャンディか何かが入っていた、小さな四角い空き缶に、切ったハンカチをベッド代わりにして先輩の指を入れる。
しばらくは微動だにせず、機能が停止してしまったのかと心配していたら、先輩が水葉世界から動かしているのか、缶の中でひょこひょこと動いた。
僕は夜明けまで、動いたり止まったりする指をずっと見ていた。
部屋の中に朝日が差し込んでくると、指は透明度を増し、やがて空気に溶けるように消えた。
でも、見えなくなっても、確かにそこにあるのだと感じる。
やがて窓の外では人が気配がし、階下では母さんが起き出して出かける支度をする音が聞こえてきた。
僕が、最も後ろめたく、部屋の中で居心地の悪さを味わう時間。
けれど、何も入っていない蓋の開いた缶を眺めていると、今朝は全然滅入らないで済んだ。
それにしても、見方によっては、まるで僕の部屋の中で先輩に見張られているかのようだ。
先輩が怒るような悪いことは、この指の前ではできないな、と思った。
「奏、起きてる?」と母さんが呼ぶ声が、階段の下から響いてきた。
「起きてる」
「明日お母さん、朝早いからね。夜も遅いから、どこかで食べてくるよ」
「分かった」
年の瀬が近づくと、母さんの遠出や出張が増えるのは、毎年のことだった。
登校しないまま、二学期の終わりは、徐々に近づいている。
一度部屋に戻って、やはり一度トイレに行こうと思い、すぐにドアを開けた。すると、右手にある部屋から出てきた咲千花と鉢合わせた。
「あ」
と、咲千花が気まずそうに、腕で軽く顔を隠す。
目元が腫れ、頬に涙の跡があった。これを見られたくなくて、僕が部屋に入ったのを見計らって出てきたのだろう。
「……咲千花。何か飲むか?」
「ううん、平気、ありがと。部屋のティッシュなくなったから、取りに行くね」
鼻をすすりながら、咲千花が階下へ向かう。普段はあまり変わりなく見えても、こうして、一人で部屋で泣いていることは、よくあるようだった。
胸が、鋭い爪で絞りあげられるように痛む。
僕の妹は、なぜこんな思いをしているのだろう。僕はともかく、咲千花は何とか持ち直して欲しい。
母さんは咲千花の中学校と相談を何度かしたようだけど、進展はない。僕に何かできることはないか聞いても、その度に、余計に咲千花を追い詰めることになるから大人に任せておけと言われて黙るしかなかった。
確かに、不登校の兄がしゃしゃり出て、何かが改善されることというのはあまりないかもしれない。何かしら、悪化するものはありそうだけど。
その時、階段の途中で、僕に背を向けたまま、咲千花がぴたりと降りる足を止めた。
どうかしたのかと首をかしげると、咲千花は、振り返らないまま告げてきた。
「……お兄ちゃん」
「うん?」
「あたし、学校に行けなくなってごめんね」
それだけ言うと、咲千花は再びたんたんと一階へ降りていった。
僕は部屋のドアを開けると、ベッドにうつ伏せに飛び乗った。枕を顔に当て、大きな声で吠える。
身を切るような悔しさと、燃えるような怒りで、体がばらばらになってしまいそうだった。
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