平衡ゴーストジュブナイル――この手紙を君が読むとき、私はこの世界にいないけれど

クナリ

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catastrophe 2

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 僕は顔を上げた。
 廃工場の敷地の中へ滑り込み、朽ちかけた建物の物陰に身を隠す。
 空を見た。明るさを増してきているけれど、完全な夜明けまではまだ数分はかかるはずだ。
 その場にうずくまり、これまで飽きるほど繰り返してきた精神集中を、脳内で構成する。
 並行世界は、平衡したがる。
 それなら、水葉世界でもきっと同じように起きている事故現場に僕のゴーストを送れば、治療ができるはずだ。向こうの人たちを治せば、五月女世界の人たちの容態もきっと改善する。
 目を閉じて、精神が肉体から遊離するイメージを展開した。
 でも、だめだった。
 激し過ぎる鼓動と、乱れきった精神のせいで、全然集中が進まない。一刻を争うというのに、そう思えば思うほど、頭の中が混乱していく。
 この僕に与えられた能力を、今使わなくてどうする。ここで何もできなければ、最悪の場合、一生後悔することになるのに。
 知らないうちに、唇を噛んでいたようで、口元から血が数滴地面に落ちた。目じりからも熱い透明な液体がこぼれる。
 それに気づいた時、救急車のサイレンが聞こえた。
 だめだった。
 あとはもう、病院に任せるしかない。
 僕はふらふらと、廃工場を出た。
 何台かの救急車と消防車が殺到して、中から人が出てくる。
 そしてバスの中から、傷ついた人たちを運び出した。幸い何かの下敷きになっているような人はいなくて、搬出作業は速やかに進んでいるようだった。
 三人、四人、と救出される人たちを、僕はただ、歩道に立ち尽くして見ていた。
 七人目、だったと思う。
 見慣れた灰色のスーツに身を包んだ、血まみれの母さんが、ストレッチャーに乗せられた。
 母さん、と叫んで、歩み寄ろうと思った。
 でもそうするには、あまりに、母さんの体は、黒っぽい赤色にまみれ過ぎていた。その体はぴくりともしない。
 そんな。
 そんなわけがない。何か、何かができるはずだ。僕はゴーストを使える。傷を治せる。普通の人間にはできないことができるんだ。僕の目の前で、僕の家族が、怪我で死んでしまうなんてことがあるはずがない。
 そうだ、僕は傷が治せる。

 ただし――
 水葉世界で――ならば。

 それじゃ。それじゃ……だめだ。
 がくりと、膝から力が抜けた。
 待て。
 待てよ。
 水葉世界。
 水葉先輩。
 そうだよ、水葉先輩に頼めばいい。
 僕は、家への道を駆け出した。
 僕の部屋には、先輩の指がある。それで合図を送り、今すぐ先輩に来てもらう。
 もう救急車が出てしまうだろうが、恐らく行き先はいつもの市立病院だ。死んでさえいなければ、治せる。先輩にはフィードバックが起きるだろう。それは申し訳ない、申し訳ないけれど……
 ふと、走りながら、僕は空を見上げた。
 今まさに太陽が、街を直に照らし出そうとしている。
 夜が開ける。
 もう間に合わない。家に着く頃には、曙光が差し込んでくるだろう。
 水葉先輩に連絡を取り、事情を伝え、病院へ向かう頃には、もうゴーストは出せなくなっている。
 ぷつんと切れそうになる心の糸を、必死でつなぎ止めた。
 足掻け。
 少しでも可能性の高い、取るべき選択肢を探し出せ。
 その時、一つだけ、思いついたことがあった。
 上手くいくかどうかは分からない。でも、たった一つでも光明が見えたなら、やるしかない。
 僕は再び、廃工場の建物の影に走り込んだ。
 目を閉じ、深く集中する。
 腹を決めたせいか、さっきよりも、遥かに速やかにゴーストの感覚がつかめた。頭蓋骨の内側から、形なき自分を捉え、頭の上に引き出していく。
 意識が別世界に飛ぶ寸前。
 僕は、ゴーストを、全力でこの世界にとどまらせた。
 強烈な引力に導かれて飛び立とうとするもう一人の僕を、無理やり、母さんの乗せられた救急車の方へ送り出す。
 今まさに走り出そうとした車体の中へ滑り込んだゴーストは、応急処置をされた母さんの頭にそっと触れた。
 治す。その一心で、手のひらに力を込めた。
 けれど、その瞬間、違和感に襲われた。
 何だ、これは。
 傷の感覚が――見つからない。
 どこをどう治していいのか分からない。こんなことは初めてだった。
 頭だけではなく、胴体や手足の状態も確認する。けれど、治すべき傷は、一つも見当たらなかった。
 無傷のはずがない。確かに大量に出血していた。なのになぜ、治せる傷がないんだ?
 母さんの、頬に触れてみた。
 ひやりとする。
 あれ。
 確かに今は冬だけど、人の頬というのは、こんなに冷たかったっけ。
 自分の、思考と感情が、分離していくのを感じた。
 思考は冷静に、今目の前で、僕の家族に何が起きているのか――起きてしまったのかを認めていく。
 それとは反対に、感情は、声にならない叫びをあげようとしていた。
 こんなことがあっていいはずがない。
 父さんがいなくなり、母さんは女手一つで僕らを育ててくれた。
 その子供二人が不登校になって、どんな思いをしていただろう。
 自分の子供たちは何も悪くない。一時窮地を脱するのは、恥ずかしいことではない。そう思っていても、辛くないわけがなかった。
 これからだった。僕と咲千花が回復し、今までの苦労が報われる程度の家族の幸せが、母さんにもたらされるのはこれからだったはずだ。
 なのに、人の命というのは、こんなにも甲斐なく終わってしまう。
 ゴーストが膝をついた。
 別世界へと連れ去られる引力に抵抗する気力が失われ、意識が飛びそうになる。
 もういい。
 ここにいても、もう意味はない。
 救急車が動き出す気配がした。
 母さん――
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