27 / 51
第27話 第七章 シバカタロウ 1
しおりを挟む
小さい頃から、シバカタさんの家の夫婦喧嘩と言えば、近所でも有名だった。
こんなに喧嘩ばかりしてなぜ離婚しないのだろう、といつも不思議に思い、居心地の悪い家から早く出て行くことばかり考えていた。体だけは頑健な方がいいだろうと空手を習ったが、高校に進学すると、それもやめてアルバイトを始めた。
同級生の殿音に、人数合わせのためにどうしてもと泣きつかれて文芸部になんて入ったが、アルバイトの無い日に部室で適当にくっちゃべる以上のことをするつもりもなく、結局一年に一冊も本など開かなかった。
アルバイト先に選んだのは、自分の家から目と鼻の先の本屋だった。文芸部になんぞ入ったのは、今思えばその影響もあったのかもしれない。
本を扱うというイメージとは裏腹に、本屋というのは体力仕事がやたら多かったので、意外に性に合っていた。
そこの店長の娘が、よく日曜日に裏方仕事を手伝っていた。他に、店長以外では男の正社員が二人いたが、皆やる気があって気持ちのいい職場だった。
店長の娘は綾花といい、その時二十六歳で、本業は中学校の教師らしかった。俺はちょうど、彼女の生徒達と同じくらいの年恰好だったこともあって、すぐに綾花と打ち解けた。
綾花は、黒く長い髪が印象的な、大人しそうな美人だった。だが、他の男二人は全く綾花を口説こうとしなかった。俺はそれを、大人が職場でつける分別というものだろうと、勝手に推量していた。
数週間も経つと、綾花の方から俺に何くれとちょっかいを出してくるようになった。年上の美人に遊ばれるのは、正直悪い気はしなかった。くすぐったいような、気恥ずかしいような、そんな人間関係は初めてだった。。
綾花はよく、不必要に体を俺に接触させて来た。指先で俺の脇腹をつついたり、頭をなでたり、運んでいる荷物を受け渡す時に指先をつままれたりといった他愛も無いことばかりだったけど、俺の方は結構ドキドキした。綾化はそんな俺を見て、意地悪そうに笑っていた。他の人間にそんなことをされたら不愉快で仕方なかったろうに、綾花とだけは、そんな戯れが楽しかった。
綾花は俺に気があるのだろうか、と思うことも何度かあったが、女慣れしていない思春期の小僧の勘違いだと、自分に言い聞かせた。
ある日曜日、昼休みに店の裏へ行ったら、綾花がひどく辛そうな顔で、店の壁にもたれていた。
その表情を見ていたら、心臓が早鐘を打った。他人の顔つきひとつで、こんなに心が乱れたことは無い。
「綾花さん」
「あ、……シバ君。やだなあ、変な顔してたでしょ、私」
「具合悪いんすか? 今日は人手も足りてるし、店はもういいですよ。あんまり副業しちゃまずいでしょ」
「いっちょ前に言うようになったねえ。お給料なんか、お父さんからもらってませんよーだ」
彼女は仕事に戻ろうとしたが、俺は店長に相談して、綾花には帰ってもらった。
その日はアルバイトが終わった後にゲームセンターへ寄ったので、帰りが夜の九時近くなってしまった。裏道を通って家へ帰ろうとしていたら、暗がりから聞き覚えのある声がした。
「もう、あんなメールしないで。ううん、連絡して来ないで下さい」
裏通りから更にもう一本入った、物陰からだ。その声を、俺が聴き逃すわけが無かった。少し迷ったが、声をかける。
「綾花さんすか。こんなとこで、暗いし危ないですよ」
暗がりから、息を飲む気配が、二人分伝わって来た。
僅かな街灯の明かりが、綾花と、もう一人の男の姿をおぼろげに浮かび上がらせた。これといった特徴の無い、中年然とした体つきの、冴えなさそうな男だった。
「シバ君……? シバ君なの?」
「隣にいるの、友達っすか?」
「違うよ、……違う。もう、帰るの。シバ君、そこまで一緒に帰ろう」
綾花さんは、小走りで俺の方に来た。そこへ、後ろから男が告げる。
「綾花、待て」
けれど綾花さんは首をぶんぶん横に振り、俺の腕にしがみついた。
「なあ、結婚しよう! メールで言った通りだ、もう準備は進んでる」
ぎし、と俺の体に触れている彼女の体が強張った。
「嘘、……」
「もう疑うな。全て上手く行く。だから――」
綾花は顔を伏せながら、背中を向けたまま男に叫んだ。
「あなたが最後に私に何て言ったか、……覚えてるの?」
「僕ももうこの歳だ、子供が欲しかったんだ。でも、君と離れてみて分かった。君に、僕の家族になって欲しい」
その言葉を聞いて、綾花が弾かれたように顔を上げた。瞳が、小刻みに震えている。綾花が、揺れている。
「綾花さん。何の話だか知らねえけど、今決めねえ方が良いんじゃねえの」
「ううん、……いいの。何度も、何度も間違えて来たから、もういいのよ。帰ろう」
そして綾花は男の方へ振り返り、
「あんまり、馬鹿にしないで。さよなら。今度こそ、本当に」
と言って、俺の手を取って歩き出した。
「おい――」
男が、声だけで追いかけて来た。
「おい、綾花。随分若い男だな。でもいくら種が若くったってな、お前じゃ駄目だって分かってるだろう」
綾花が、顔色を失って振り向いた。
「や、め……」
「なあ君、知ってるのか。その女は、子宮が無いんだ。二十歳そこそこで、癌と一緒に取っ払ったんだよ」
頭に血が上り、男の方へ駆け出そうとする俺を、綾花が腕をつかんで止めた。男は、悲鳴を上げて逃げて行った。
こんなに喧嘩ばかりしてなぜ離婚しないのだろう、といつも不思議に思い、居心地の悪い家から早く出て行くことばかり考えていた。体だけは頑健な方がいいだろうと空手を習ったが、高校に進学すると、それもやめてアルバイトを始めた。
同級生の殿音に、人数合わせのためにどうしてもと泣きつかれて文芸部になんて入ったが、アルバイトの無い日に部室で適当にくっちゃべる以上のことをするつもりもなく、結局一年に一冊も本など開かなかった。
アルバイト先に選んだのは、自分の家から目と鼻の先の本屋だった。文芸部になんぞ入ったのは、今思えばその影響もあったのかもしれない。
本を扱うというイメージとは裏腹に、本屋というのは体力仕事がやたら多かったので、意外に性に合っていた。
そこの店長の娘が、よく日曜日に裏方仕事を手伝っていた。他に、店長以外では男の正社員が二人いたが、皆やる気があって気持ちのいい職場だった。
店長の娘は綾花といい、その時二十六歳で、本業は中学校の教師らしかった。俺はちょうど、彼女の生徒達と同じくらいの年恰好だったこともあって、すぐに綾花と打ち解けた。
綾花は、黒く長い髪が印象的な、大人しそうな美人だった。だが、他の男二人は全く綾花を口説こうとしなかった。俺はそれを、大人が職場でつける分別というものだろうと、勝手に推量していた。
数週間も経つと、綾花の方から俺に何くれとちょっかいを出してくるようになった。年上の美人に遊ばれるのは、正直悪い気はしなかった。くすぐったいような、気恥ずかしいような、そんな人間関係は初めてだった。。
綾花はよく、不必要に体を俺に接触させて来た。指先で俺の脇腹をつついたり、頭をなでたり、運んでいる荷物を受け渡す時に指先をつままれたりといった他愛も無いことばかりだったけど、俺の方は結構ドキドキした。綾化はそんな俺を見て、意地悪そうに笑っていた。他の人間にそんなことをされたら不愉快で仕方なかったろうに、綾花とだけは、そんな戯れが楽しかった。
綾花は俺に気があるのだろうか、と思うことも何度かあったが、女慣れしていない思春期の小僧の勘違いだと、自分に言い聞かせた。
ある日曜日、昼休みに店の裏へ行ったら、綾花がひどく辛そうな顔で、店の壁にもたれていた。
その表情を見ていたら、心臓が早鐘を打った。他人の顔つきひとつで、こんなに心が乱れたことは無い。
「綾花さん」
「あ、……シバ君。やだなあ、変な顔してたでしょ、私」
「具合悪いんすか? 今日は人手も足りてるし、店はもういいですよ。あんまり副業しちゃまずいでしょ」
「いっちょ前に言うようになったねえ。お給料なんか、お父さんからもらってませんよーだ」
彼女は仕事に戻ろうとしたが、俺は店長に相談して、綾花には帰ってもらった。
その日はアルバイトが終わった後にゲームセンターへ寄ったので、帰りが夜の九時近くなってしまった。裏道を通って家へ帰ろうとしていたら、暗がりから聞き覚えのある声がした。
「もう、あんなメールしないで。ううん、連絡して来ないで下さい」
裏通りから更にもう一本入った、物陰からだ。その声を、俺が聴き逃すわけが無かった。少し迷ったが、声をかける。
「綾花さんすか。こんなとこで、暗いし危ないですよ」
暗がりから、息を飲む気配が、二人分伝わって来た。
僅かな街灯の明かりが、綾花と、もう一人の男の姿をおぼろげに浮かび上がらせた。これといった特徴の無い、中年然とした体つきの、冴えなさそうな男だった。
「シバ君……? シバ君なの?」
「隣にいるの、友達っすか?」
「違うよ、……違う。もう、帰るの。シバ君、そこまで一緒に帰ろう」
綾花さんは、小走りで俺の方に来た。そこへ、後ろから男が告げる。
「綾花、待て」
けれど綾花さんは首をぶんぶん横に振り、俺の腕にしがみついた。
「なあ、結婚しよう! メールで言った通りだ、もう準備は進んでる」
ぎし、と俺の体に触れている彼女の体が強張った。
「嘘、……」
「もう疑うな。全て上手く行く。だから――」
綾花は顔を伏せながら、背中を向けたまま男に叫んだ。
「あなたが最後に私に何て言ったか、……覚えてるの?」
「僕ももうこの歳だ、子供が欲しかったんだ。でも、君と離れてみて分かった。君に、僕の家族になって欲しい」
その言葉を聞いて、綾花が弾かれたように顔を上げた。瞳が、小刻みに震えている。綾花が、揺れている。
「綾花さん。何の話だか知らねえけど、今決めねえ方が良いんじゃねえの」
「ううん、……いいの。何度も、何度も間違えて来たから、もういいのよ。帰ろう」
そして綾花は男の方へ振り返り、
「あんまり、馬鹿にしないで。さよなら。今度こそ、本当に」
と言って、俺の手を取って歩き出した。
「おい――」
男が、声だけで追いかけて来た。
「おい、綾花。随分若い男だな。でもいくら種が若くったってな、お前じゃ駄目だって分かってるだろう」
綾花が、顔色を失って振り向いた。
「や、め……」
「なあ君、知ってるのか。その女は、子宮が無いんだ。二十歳そこそこで、癌と一緒に取っ払ったんだよ」
頭に血が上り、男の方へ駆け出そうとする俺を、綾花が腕をつかんで止めた。男は、悲鳴を上げて逃げて行った。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
【完結】知られてはいけない
ひなこ
ホラー
中学一年の女子・遠野莉々亜(とおの・りりあ)は、黒い封筒を開けたせいで仮想空間の学校へ閉じ込められる。
他にも中一から中三の男女十五人が同じように誘拐されて、現実世界に帰る一人になるために戦わなければならない。
登録させられた「あなたの大切なものは?」を、互いにバトルで当てあって相手の票を集めるデスゲーム。
勝ち残りと友情を天秤にかけて、ゲームは進んでいく。
一つ年上の男子・加川準(かがわ・じゅん)は敵か味方か?莉々亜は果たして、元の世界へ帰ることができるのか?
心理戦が飛び交う、四日間の戦いの物語。
(第二回きずな児童書大賞で奨励賞を受賞しました)
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
罪悪と愛情
暦海
恋愛
地元の家電メーカー・天の香具山に勤務する20代後半の男性・古城真織は幼い頃に両親を亡くし、それ以降は父方の祖父母に預けられ日々を過ごしてきた。
だけど、祖父母は両親の残した遺産を目当てに真織を引き取ったに過ぎず、真織のことは最低限の衣食を与えるだけでそれ以外は基本的に放置。祖父母が自身を疎ましく思っていることを知っていた真織は、高校卒業と共に就職し祖父母の元を離れる。業務上などの必要なやり取り以外では基本的に人と関わらないので友人のような存在もいない真織だったが、どうしてかそんな彼に積極的に接する後輩が一人。その後輩とは、頗る優秀かつ息を呑むほどの美少女である降宮蒔乃で――
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる