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第31話 第七章 人の叫び
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何とか蟲を引き剥がした私は無我夢中で、すぐ手元にあったダクトカバーをつかんで外し、一坂の方へ押し付けた。
ガキン――と音を立てて、一坂が突き出した包丁はカバーの格子で止まり、私には届かない。既に思考能力は無いらしく、一坂はただ無理矢理に包丁を押し込んで来た。
顔中から蟲の粒を噴き出しながら、一坂が獣のような声を上げてにじり寄る。このままではいずれ、力任せに押し切られてしまうのは明らかだった。
カバーを外したのでぽっかりと空いた天井の穴から、私は廊下へ飛び降りた。着地すると、膝に激痛が走る。とても走れない。
一坂も、私を追って飛び降りて来た。生き残るチャンスは、もうその瞬間にしか残っていなかった。
私は一坂が着地する寸前、その手の包丁の横腹を思い切り平手で叩いた。制服の袖を伸ばして手のひらを覆っておいたお陰で、私の手は無傷で済んだ。
包丁が一坂の手から離れて廊下を転がる。私は素早くそれを拾い上げ、一坂に突きつけた。
一坂は、怯まない。素手になっても、歯を剥き出して飛びかかって来る。その直線的な動きに合わせて、私は包丁をまっすぐに突き出した。
一坂を、刺す。そうしなければ、こっちが殺される。
殺人タイプに感染した一坂は、もう一坂ではない。蟲の操り人形であって、ただの殺人鬼だ。だから、刺せる。刺せるはずだ。
胸中で、叫ぶようにそう自分に言い聞かせても、駄目だった。刃先が一坂に届く寸前、私の手からは力が抜けた。死ぬのも、殺すのも、嫌だった。
そうでなくても、刺せるはずがない。私なんかが、自分が生きるために人を死なせて良いはずがない。子供の頃から思っていたのだ、私なんていつ死んだって構わないと。
一坂の両手が、私の両肩をつかむ。恐ろしく強い力で。
どうする。どうする。何ができる。私なんかに、何が……
「エリヤ」
名前を呼ばれて、私はすぐ目の前の一坂の顔を見た。そのまなじりには、緑の粒が湧いている。けれど、
「エリヤ、どうして一人なんだ。僕は、……ああ。そうか――そうか」
その声には、混乱を含みながらも、理性があった。眼窩からはみ出た眼球ははそのままだったけど、雰囲気はさっきまでとはまるで違う。
「一坂、正気なの?」
「いや、……多分、ほんの一時だ。もう体の中にまで、蟲が入ってる。もう数分もしたら、……僕はいよいよ僕じゃなくなるだろうな……」
私はふるふると、首を横に振った。
「一坂から出た蟲に触って、私にもようやく分かった。全部……」
「そうだ。ごめん、油断していて、蟲を仕掛けられても避けられなかった。いいかい、先輩はもう、目的を達成してる。けれど蟲達は別だ。君を逃がさないだろう。君を助けたいけど、……僕にはもう、できない」
一坂が呻いて、えづいた。メリメリと音を立てて、その顔に走った筋が更に多く、太くなって行く。
「一坂!」
一坂の指が、震えながら、スクールシャツの胸ポケットから携帯端末を取り出した。
「何でこれを持ったのか、……覚えてない。ただ、この光を追っていけばエリヤ達に会える気がして、ここま来たんだ。ごめんね、怖かっただろう」
そう言って、一坂は私の手から包丁を取り戻す。私は指に力が入らなくて、抵抗せずに、されるに任せた。
「エリヤ、逃げるんだ。夜明けまで、逃げ延びるんだ。それしか無い。蟲が、先輩を守ってる。近づけやしないから、どうにもならない。悔しいな、……悔しい。もう駄目なんだ、僕は。なら、自分の始末は自分でつける。殺人鬼になるなんて真っ平だ。いいね、逃げ、るん、だ、よ」
一坂が私を、廊下の奥へと強く押した。その瞬間その顔から蟲という蟲が溢れ、一坂の体が緑色の炎に包まれたように輝く。
「振り返るな! 行って!」
私は、一坂に背を向けて駆け出した。後ろから、一坂の声が響く。
「見ろ! 僕はエリヤを殺さない! 僕は失敗して、これから死ぬけど、エリヤは生きるぞ! 僕はもう、誰が何を企んだって、誰も傷つけない! 僕は僕だ! これが僕!」
言葉の最後は、哄笑に変わって廊下中に響いた。階段にたどり着いた私が道を折れた時、その笑い声が止まる。
つい、一坂の方を見た。暗がりの中で、噴き上げるような緑光に包まれたシルエットが、自分の胸に包丁を突き立てていた。
それは夜煌蟲の仕業ではなく、自分の意志で。
その体がぐらりと傾いて倒れる前に、私は階段を駆け下りた。
鼻の奥と、頭が痛い。
いつの間にか、私の口からは絶え間なく嗚咽が漏れていた。学校の冷えた空気の中で、濡れた目元だけが熱い。雫は頬を伝って冷え、空気と同じ温度になって、宙に舞った。
ガキン――と音を立てて、一坂が突き出した包丁はカバーの格子で止まり、私には届かない。既に思考能力は無いらしく、一坂はただ無理矢理に包丁を押し込んで来た。
顔中から蟲の粒を噴き出しながら、一坂が獣のような声を上げてにじり寄る。このままではいずれ、力任せに押し切られてしまうのは明らかだった。
カバーを外したのでぽっかりと空いた天井の穴から、私は廊下へ飛び降りた。着地すると、膝に激痛が走る。とても走れない。
一坂も、私を追って飛び降りて来た。生き残るチャンスは、もうその瞬間にしか残っていなかった。
私は一坂が着地する寸前、その手の包丁の横腹を思い切り平手で叩いた。制服の袖を伸ばして手のひらを覆っておいたお陰で、私の手は無傷で済んだ。
包丁が一坂の手から離れて廊下を転がる。私は素早くそれを拾い上げ、一坂に突きつけた。
一坂は、怯まない。素手になっても、歯を剥き出して飛びかかって来る。その直線的な動きに合わせて、私は包丁をまっすぐに突き出した。
一坂を、刺す。そうしなければ、こっちが殺される。
殺人タイプに感染した一坂は、もう一坂ではない。蟲の操り人形であって、ただの殺人鬼だ。だから、刺せる。刺せるはずだ。
胸中で、叫ぶようにそう自分に言い聞かせても、駄目だった。刃先が一坂に届く寸前、私の手からは力が抜けた。死ぬのも、殺すのも、嫌だった。
そうでなくても、刺せるはずがない。私なんかが、自分が生きるために人を死なせて良いはずがない。子供の頃から思っていたのだ、私なんていつ死んだって構わないと。
一坂の両手が、私の両肩をつかむ。恐ろしく強い力で。
どうする。どうする。何ができる。私なんかに、何が……
「エリヤ」
名前を呼ばれて、私はすぐ目の前の一坂の顔を見た。そのまなじりには、緑の粒が湧いている。けれど、
「エリヤ、どうして一人なんだ。僕は、……ああ。そうか――そうか」
その声には、混乱を含みながらも、理性があった。眼窩からはみ出た眼球ははそのままだったけど、雰囲気はさっきまでとはまるで違う。
「一坂、正気なの?」
「いや、……多分、ほんの一時だ。もう体の中にまで、蟲が入ってる。もう数分もしたら、……僕はいよいよ僕じゃなくなるだろうな……」
私はふるふると、首を横に振った。
「一坂から出た蟲に触って、私にもようやく分かった。全部……」
「そうだ。ごめん、油断していて、蟲を仕掛けられても避けられなかった。いいかい、先輩はもう、目的を達成してる。けれど蟲達は別だ。君を逃がさないだろう。君を助けたいけど、……僕にはもう、できない」
一坂が呻いて、えづいた。メリメリと音を立てて、その顔に走った筋が更に多く、太くなって行く。
「一坂!」
一坂の指が、震えながら、スクールシャツの胸ポケットから携帯端末を取り出した。
「何でこれを持ったのか、……覚えてない。ただ、この光を追っていけばエリヤ達に会える気がして、ここま来たんだ。ごめんね、怖かっただろう」
そう言って、一坂は私の手から包丁を取り戻す。私は指に力が入らなくて、抵抗せずに、されるに任せた。
「エリヤ、逃げるんだ。夜明けまで、逃げ延びるんだ。それしか無い。蟲が、先輩を守ってる。近づけやしないから、どうにもならない。悔しいな、……悔しい。もう駄目なんだ、僕は。なら、自分の始末は自分でつける。殺人鬼になるなんて真っ平だ。いいね、逃げ、るん、だ、よ」
一坂が私を、廊下の奥へと強く押した。その瞬間その顔から蟲という蟲が溢れ、一坂の体が緑色の炎に包まれたように輝く。
「振り返るな! 行って!」
私は、一坂に背を向けて駆け出した。後ろから、一坂の声が響く。
「見ろ! 僕はエリヤを殺さない! 僕は失敗して、これから死ぬけど、エリヤは生きるぞ! 僕はもう、誰が何を企んだって、誰も傷つけない! 僕は僕だ! これが僕!」
言葉の最後は、哄笑に変わって廊下中に響いた。階段にたどり着いた私が道を折れた時、その笑い声が止まる。
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