1 / 45
序章
しおりを挟む
鳴島シイカは、自分の十七才の夏休みは、もっとずっと平凡か、それ以下のものになると思っていた。
少なくとも、血まみれの柴犬を抱えて、通学路から少し離れた町を走るようなことがあるとは思っていなかった。
「クツナさん!」
そう叫んで――大声など出すのも、それまで滅多にあることではなかったが――、シイカはさっき自分が出てきたばかりの一軒家に、騒々しく駆け戻る。アルバイト先でもあるその粗末な平屋の木造家屋は、店舗にも事務所にも見えないが、確かにシイカの職場ではあった。
玄関に上がると、奥の方から、真っ白な着物姿の若い男が出てきた。少し長めの髪は漆黒だが、瞳が灰色がかった独特の薄い色をしている。
「鳴島、帰ったんじゃなかったのか。僕は洋服に今着替えようと……その犬は? 事故か?」
「駅へ歩いてたら、私の目の前ではねられたんです、そこの路地で。クツナさん、治してあげてもらえませんか」
「施術室へ運べ」
シイカは傍らの、板張りの八畳間に飛び込み、中央にある木製の作業台に柴犬を乗せた。台の面積は大人が余裕で寝転がれるくらいはある。
一度緩めた帯を絞め直した男が、八畳間に入ってくる。作業台の他には机が置いてあるくらいの殺風景な部屋の中で、男の灰色がかった目が犬を見下ろした。
「首輪がないな。野良犬か」
「すみません。私のアルバイト代から引いてください」
「そんな心配をしてるんじゃない」
男が苦笑した。
「それに、クツナさんさっきまで仕事だったのに、また指を……」
「ケガの程度によっては、応急処置をして病院に連れて行くか。僕だって、獣医みたいにはいかないからな。治癒そのものは、患者――患畜か――の生命力次第だし」
男が、横たえられた柴犬の体の上に手をかざす。すると、青白い光が柔らかく犬の体を包み始めた。まるで幼虫を守る繭のように、光は穏やかに厚みを増していく。
「鳴島こそ、指は平気か? また糸を何本か持ってもらえると助かる」
男の口調には抑揚がないが、生命を見つめる目には温かさがある。
「はい。少し痛いですけど、少しくらい大丈夫です」
「しびれ出したら、すぐに言えよ」
男の指が、光の繭をほぐし始めた。そして、光る糸を五本ほど取り出し、シイカに渡す。
それを受け取ったシイカの指先に、刺すような痛みが走った。指には傷ひとつついていないが、この糸に触れただけで、歯を食い縛るほど強い痛みが走る。
しかし、これから施術のために男が味わう痛みはこんなものではない。そのことを知るシイカは、眉ひとつ動かさずに糸を保持する。
男の指が、繭の内外でせわしなく動き出した。シイカは見ているだけで震えてくる。彼には今、手首から先が剥がれるような激痛が起きているはずだ。
「私、もう何本か持てます」
「いや、このまま行ける。……鳴島、繭の持ち方がうまくなったな。やりやすい。少々の止血ならできるようになったしな」
男の手は、無数の糸を伸ばし、結び、切り離してまた結ぶ。光の繭が見えない普通の人間からは、ありもしない操り人形を繰くっているようにでも見えるだろう。
そうしている間にも犬の出血は止まり、痛々しく開いていた傷が緩やかに治癒の兆候を見せていた。
シイカは注意深く男の手技を見守りながら、頭の片隅で思う。
さっき首輪について触れたのは、本当に、治療費のことを考えていたのではない。
――きっと犬を治した後、この家で飼ってやれるかどうかに思いを巡らせていたのだ、この人は。
少なくとも、血まみれの柴犬を抱えて、通学路から少し離れた町を走るようなことがあるとは思っていなかった。
「クツナさん!」
そう叫んで――大声など出すのも、それまで滅多にあることではなかったが――、シイカはさっき自分が出てきたばかりの一軒家に、騒々しく駆け戻る。アルバイト先でもあるその粗末な平屋の木造家屋は、店舗にも事務所にも見えないが、確かにシイカの職場ではあった。
玄関に上がると、奥の方から、真っ白な着物姿の若い男が出てきた。少し長めの髪は漆黒だが、瞳が灰色がかった独特の薄い色をしている。
「鳴島、帰ったんじゃなかったのか。僕は洋服に今着替えようと……その犬は? 事故か?」
「駅へ歩いてたら、私の目の前ではねられたんです、そこの路地で。クツナさん、治してあげてもらえませんか」
「施術室へ運べ」
シイカは傍らの、板張りの八畳間に飛び込み、中央にある木製の作業台に柴犬を乗せた。台の面積は大人が余裕で寝転がれるくらいはある。
一度緩めた帯を絞め直した男が、八畳間に入ってくる。作業台の他には机が置いてあるくらいの殺風景な部屋の中で、男の灰色がかった目が犬を見下ろした。
「首輪がないな。野良犬か」
「すみません。私のアルバイト代から引いてください」
「そんな心配をしてるんじゃない」
男が苦笑した。
「それに、クツナさんさっきまで仕事だったのに、また指を……」
「ケガの程度によっては、応急処置をして病院に連れて行くか。僕だって、獣医みたいにはいかないからな。治癒そのものは、患者――患畜か――の生命力次第だし」
男が、横たえられた柴犬の体の上に手をかざす。すると、青白い光が柔らかく犬の体を包み始めた。まるで幼虫を守る繭のように、光は穏やかに厚みを増していく。
「鳴島こそ、指は平気か? また糸を何本か持ってもらえると助かる」
男の口調には抑揚がないが、生命を見つめる目には温かさがある。
「はい。少し痛いですけど、少しくらい大丈夫です」
「しびれ出したら、すぐに言えよ」
男の指が、光の繭をほぐし始めた。そして、光る糸を五本ほど取り出し、シイカに渡す。
それを受け取ったシイカの指先に、刺すような痛みが走った。指には傷ひとつついていないが、この糸に触れただけで、歯を食い縛るほど強い痛みが走る。
しかし、これから施術のために男が味わう痛みはこんなものではない。そのことを知るシイカは、眉ひとつ動かさずに糸を保持する。
男の指が、繭の内外でせわしなく動き出した。シイカは見ているだけで震えてくる。彼には今、手首から先が剥がれるような激痛が起きているはずだ。
「私、もう何本か持てます」
「いや、このまま行ける。……鳴島、繭の持ち方がうまくなったな。やりやすい。少々の止血ならできるようになったしな」
男の手は、無数の糸を伸ばし、結び、切り離してまた結ぶ。光の繭が見えない普通の人間からは、ありもしない操り人形を繰くっているようにでも見えるだろう。
そうしている間にも犬の出血は止まり、痛々しく開いていた傷が緩やかに治癒の兆候を見せていた。
シイカは注意深く男の手技を見守りながら、頭の片隅で思う。
さっき首輪について触れたのは、本当に、治療費のことを考えていたのではない。
――きっと犬を治した後、この家で飼ってやれるかどうかに思いを巡らせていたのだ、この人は。
0
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる