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第三章 5
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結局、クツナが茎川教師と打ち合わせをして日取りを決め、シイカが欧華橋高校の生徒に扮して潜入することになった。
茎川の依頼があった翌日の月曜日には、クツナは女子用の制服をひと揃い茎川から借り受け、井村橋駅で待ち合わせたシイカに渡した。
「明日の火曜日、行けるか?」
「行けなくはないですけど、既にとても神経にこたえてます」
「別に他校の生徒だってことがばれたところで、そんなに大した問題になるとは思わんが。あまり辛いようならやめるか」
「いえ、やります。……やれるところまでは、ですけど」
「理想を言うと、それなりに尾幌エツという生徒と仲良くなって欲しい。茎川氏とも相談したが、施術場所は今回、欧華橋高校の生徒指導室にしようと思う。そこに茎川氏と、助手の君と、僕が一時だけ潜入する。そうすれば、短時間で済ませられるだろう」
シイカは自信なさげに、制服の入った紙袋をもて余して、両手で持ち変える。
「どうして仲良くなってるといいんです?」
「気心の知れている人間がいた方が、繭が柔らかくなる」
「私、いまだに自分の学校でも、友達って言えるほどの友達がいないんですが。それは、前よりはずっとましですけど。人と仲良くなるなんて……私には一番厳しい試練かもしれません。深海魚に空を飛んでみろって言ってるようなものではないかと」
「いや……そんな寂しいこと言うなよ」
クツナと別れて、シイカは電車に乗った。自宅の最寄り駅に着き、母と弟に紙袋を見とがめられたら何と説明しようかと考えながら、夜道を歩く。
すると、目の前に人影がひとつ差した。街灯の明かりを受けて、やや長身の男性が立っている。
「今晩は」
「……どなたですか」
シイカは、男――青年の灰色の目を奪われながら、いぶかしんでそう言う。
「君、毎回反応が同じだな。警戒する時の動作も。当たり前か」
余裕のある苦笑を浮かべて、青年は近づいてくる。
「どれ、繭を見せて」
「何を――」
警戒するシイカの繭が、しかし青年の手でたやすく取り出され、糸の状態に解されていく。
「君はいちいちうるさいね。何、高校生の恋愛処理? 本当に下らない仕事だな」
「あ、あなたは、繭を」
「もうそのやり取りは飽きたよ、何回目だと思ってるんだ。でもそうだな、君もクツナの母親のことを聞いたみたいだし、いいこと教えてあげる。あいつのこと、もっと知りたいだろ?」
シイカは、こともなげに自分の繭を好きにいじっている見知らぬ男への恐怖で固まり、何も言えないでいる。何回目、とは。この青年は何を言っているのか――……
「いいかい。覚えておきな。クツナはその時、母親を生き返らせようとしたんじゃない」
シイカは目を見開いた。その瞳を覗き込んでくる青年の瞳は、薄く灰色がかっている。
「な、……に、を」
「そもそも、クツナの母親の死は、自殺ではない」
さらにぼそぼそと、彼の言葉は続く。
「放して!」
青年は、シイカと会話をする気はまるでないのは明らかだった。シイカは体を掴まれているわけではなかったが、繭の束をその手に持たれていると、内蔵を直接掴まれているようで、どうしても強く抵抗できない。その感覚には覚えがあったが、青年と会った記憶がシイカにはない。
混乱の中で、シイカは必死で青年を突き飛ばそうとした。しかしその手を捕らえられ、逆に左の頬を平手で叩かれる。
「あっ!」
「だから、うるさい」
崩れ落ちるシイカを見下ろしながら、青年はさもつまらないもののように繭の糸をぞんざいにいじり回した。
「あまり強い印象を残すと、記憶を直しにくくなるんだけど、君のは実に加工が楽だね。孤立癖のある子供なんて、本当にどうにでもできる。特に、自分は一人で生きていくのが当たり前だと思ってるような、思い上がった勘違いをしてる奴は」
最後に一部をちぎり取り、青年は繭の塊ををシイカへ放った。それはシイカのの体を包んでいる繭の本体に吸収され、同一化する。
そして、青年はその場から去った。
「え?」
対照的に、シイカは混乱の局地にいた。家に帰る途中の道で、なぜかへたりこんでいる。頬が痛い。でも、何が起きたのか全く分からない。
頭の中に、声が響いていた。
――クツナはその時、母親を生き返らせようとしていたんじゃない。
――そもそも、クツナの母親の死は、厳密には、自殺ではない。
「誰……? 何の声、これ?」
声には聞き覚えがない。しかし、幻聴ではない。確かに肉声で、この耳で聞いたはずの声だ。
それに、内容もおかしい。母親を生き返らせようとしていたと、他ならないクツナ自身がそう言っていたではないか。
――僕は知っているんだ。クツナのことなら、何でも。僕だけが。
「どうして? 何が起きてるの?」
思わず、両腕で自分の体を抱く。我が身を包む繭に、目を凝らしてみた。ひどく動揺して、頼りなく震えている。
クツナに会いたい。助けて欲しい。しかし、少しずつシイカのことを評価してくれてきているらしい今、おかしなことを言い出す煩わしい子供だと思われたくなかった。
そして、家と学校には、シイカがこんなことを相談できる相手はまだ誰もいなかった。
茎川の依頼があった翌日の月曜日には、クツナは女子用の制服をひと揃い茎川から借り受け、井村橋駅で待ち合わせたシイカに渡した。
「明日の火曜日、行けるか?」
「行けなくはないですけど、既にとても神経にこたえてます」
「別に他校の生徒だってことがばれたところで、そんなに大した問題になるとは思わんが。あまり辛いようならやめるか」
「いえ、やります。……やれるところまでは、ですけど」
「理想を言うと、それなりに尾幌エツという生徒と仲良くなって欲しい。茎川氏とも相談したが、施術場所は今回、欧華橋高校の生徒指導室にしようと思う。そこに茎川氏と、助手の君と、僕が一時だけ潜入する。そうすれば、短時間で済ませられるだろう」
シイカは自信なさげに、制服の入った紙袋をもて余して、両手で持ち変える。
「どうして仲良くなってるといいんです?」
「気心の知れている人間がいた方が、繭が柔らかくなる」
「私、いまだに自分の学校でも、友達って言えるほどの友達がいないんですが。それは、前よりはずっとましですけど。人と仲良くなるなんて……私には一番厳しい試練かもしれません。深海魚に空を飛んでみろって言ってるようなものではないかと」
「いや……そんな寂しいこと言うなよ」
クツナと別れて、シイカは電車に乗った。自宅の最寄り駅に着き、母と弟に紙袋を見とがめられたら何と説明しようかと考えながら、夜道を歩く。
すると、目の前に人影がひとつ差した。街灯の明かりを受けて、やや長身の男性が立っている。
「今晩は」
「……どなたですか」
シイカは、男――青年の灰色の目を奪われながら、いぶかしんでそう言う。
「君、毎回反応が同じだな。警戒する時の動作も。当たり前か」
余裕のある苦笑を浮かべて、青年は近づいてくる。
「どれ、繭を見せて」
「何を――」
警戒するシイカの繭が、しかし青年の手でたやすく取り出され、糸の状態に解されていく。
「君はいちいちうるさいね。何、高校生の恋愛処理? 本当に下らない仕事だな」
「あ、あなたは、繭を」
「もうそのやり取りは飽きたよ、何回目だと思ってるんだ。でもそうだな、君もクツナの母親のことを聞いたみたいだし、いいこと教えてあげる。あいつのこと、もっと知りたいだろ?」
シイカは、こともなげに自分の繭を好きにいじっている見知らぬ男への恐怖で固まり、何も言えないでいる。何回目、とは。この青年は何を言っているのか――……
「いいかい。覚えておきな。クツナはその時、母親を生き返らせようとしたんじゃない」
シイカは目を見開いた。その瞳を覗き込んでくる青年の瞳は、薄く灰色がかっている。
「な、……に、を」
「そもそも、クツナの母親の死は、自殺ではない」
さらにぼそぼそと、彼の言葉は続く。
「放して!」
青年は、シイカと会話をする気はまるでないのは明らかだった。シイカは体を掴まれているわけではなかったが、繭の束をその手に持たれていると、内蔵を直接掴まれているようで、どうしても強く抵抗できない。その感覚には覚えがあったが、青年と会った記憶がシイカにはない。
混乱の中で、シイカは必死で青年を突き飛ばそうとした。しかしその手を捕らえられ、逆に左の頬を平手で叩かれる。
「あっ!」
「だから、うるさい」
崩れ落ちるシイカを見下ろしながら、青年はさもつまらないもののように繭の糸をぞんざいにいじり回した。
「あまり強い印象を残すと、記憶を直しにくくなるんだけど、君のは実に加工が楽だね。孤立癖のある子供なんて、本当にどうにでもできる。特に、自分は一人で生きていくのが当たり前だと思ってるような、思い上がった勘違いをしてる奴は」
最後に一部をちぎり取り、青年は繭の塊ををシイカへ放った。それはシイカのの体を包んでいる繭の本体に吸収され、同一化する。
そして、青年はその場から去った。
「え?」
対照的に、シイカは混乱の局地にいた。家に帰る途中の道で、なぜかへたりこんでいる。頬が痛い。でも、何が起きたのか全く分からない。
頭の中に、声が響いていた。
――クツナはその時、母親を生き返らせようとしていたんじゃない。
――そもそも、クツナの母親の死は、厳密には、自殺ではない。
「誰……? 何の声、これ?」
声には聞き覚えがない。しかし、幻聴ではない。確かに肉声で、この耳で聞いたはずの声だ。
それに、内容もおかしい。母親を生き返らせようとしていたと、他ならないクツナ自身がそう言っていたではないか。
――僕は知っているんだ。クツナのことなら、何でも。僕だけが。
「どうして? 何が起きてるの?」
思わず、両腕で自分の体を抱く。我が身を包む繭に、目を凝らしてみた。ひどく動揺して、頼りなく震えている。
クツナに会いたい。助けて欲しい。しかし、少しずつシイカのことを評価してくれてきているらしい今、おかしなことを言い出す煩わしい子供だと思われたくなかった。
そして、家と学校には、シイカがこんなことを相談できる相手はまだ誰もいなかった。
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