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第三章 13
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エツが、ゆっくりと目を開けた。
「尾幌先輩……」
エツの目が茎川をとらえる。その視線には先程までの、傷だらけの翼で飛ぶ鳥のような危うさや、激しさはなかった。
「御格子さん、シイカちゃん……それに……」
エツの目尻から、また涙がこぼれた。あまりにも静かに。
「先生。私、……失恋、したんですね」
茎川に向けられる好意は、変わりがない。しかし、そこには明らかな区切りがあった。
欲しい。でも、手には入らない。それを理屈だけではなく、感情でも理解していた。
「悲しいです。それに、すごく寂しい……」
「尾幌」
「先生、好きでした。本当に、好きだったんです。私、辛かったけど、でも、それだけじゃなかった。楽になりたくて、好きになったんじゃありません」
「分かってるよ。分かってるに、決まってる」
クツナが、エツから離れた。シイカに目配せしてから、茎川の方を向く。
「僕にできるのは、ここまでです」
「ええ。ありがとう、ございました」
茎川が深く腰を折った。何も言えないシイカを伴って、クツナが生徒指導室のドアへ向かう。
ふと、シイカとエツの目が合った。その途端、シイカの胸に、棘だらけの風船が膨らんだような痛みが走った。
自分はやはり、取り返しのつかないことが起きたのを、傍観していたのではないのか。たとえエツや茎川が望み、クツナが施術に踏み切ったとしても、反対するべきではなかったのか。もう少し考えましょうと、訴えるべきではなかったか。
エツが、楽になったようには見えない。罪悪感と後悔が押し寄せる。シイカはクツナを押し退けて、エツの方へ踏み出した。
「尾幌先輩、私、やっぱり、先輩を」
「シイカちゃん、ありがとうね」
そう言われて、シイカの頭の動きが止まった。赤く腫れかけた目で、エツがシイカを見つめている。
「そんな、……こと、……私、なんかは……」
「本当に、これでよかったのよ。でもごめんね、今だけは、先生と二人にさせて」
窓から差し込む夕日が、立っている教師と座った生徒を照らしている。
ぎこちなくたたらを踏むようにして、シイカは生徒指導室から出た。クツナもそれに続いてから、ドアを閉める。
「行くぞ」
「……はい」
二人分の足音が遠ざかっていく。
エツは、口を開いた。目の前の教師に、何かを話して、何かを伝えたい。でも、一番伝えたかったことはもう伝えて、そして、結論が出されてしまっている。
これから何を言ったところで、それは、既に残骸になってしまった夢の思い出をなぞるだけに過ぎない。御格子クツナのしたことは、つまり、それをエツにどうしようもなく分からせる作業だったと言ってもよかった。
開けた唇からは何も出てこず、代わりにエツの目からは涙がまた流れた。それが悲しくて、かろうじて言葉を絞り出す。
「先生」
「うん」
「まだ、行かないで、ください」
「うん」
「そこに座ってください」
「うん」
茎川はエツの斜め向かいのソファに腰かけた。
二人の視線が合わさる。終わったはずの想い。夢の残骸。それがどうして――こんなにも痛い。
「私、もう先生に求めることなんて、何もないはずなんですけど」
「うん」
「話したいことは……たくさんあるような気がするんです」
「どんな話でも聞くよ。いくらでも」
黄昏の光線はさらに傾いて、茎川を横から照らしている。この教師にはこの色が最も似合うと、エツはいつも思っていた。あの、狭く薄暗い科学準備室で、何度も、何度も。
「先生は、私のことを信じすぎですよ」
困ったように笑うその教師の顔が、特に好きだった。
「私のことを見てください」
「こう?」
「今日は、ずっとここにいてください」
「うん」
「ずっとって、私がいいって言うまで、ずっとですよ」
「分かった」
「部活、続けてもいいですか」
「もちろん」
「変な感じになりますよ」
「そうだね」
「トワノも巻き込んで、とても変な感じになりますよ」
「それも、そうだね」
「今だけ、下の名前で呼んでもいいですか」
「うん」
「アキヒロ」
「うん」
「アキヒロ」
段々と、声にならなくなっていく。
「下の名前で、呼んで、ください」
「エツ」
――何が悪い。
夢の残骸をなぞって、何が悪い。
叶わない夢を夢に見て、何が悪いというのか。
時間が止まってしまえばいいと、科学準備室で、何度も願った。子供っぽいと思いながら、繰り返し切望した。
でもそれはきっと、今日ここが最後なのだ。
時間は止まらない。夕日は傾いていく。
けれど、過ぎ去ったものは、なかったものと同じではない。それだけは、エツは、嗚咽の中で確かに分かっていた。
闇に変わる寸前の空の色が、今だけは、エツと茎川を同じ色に染め上げていた。
「尾幌先輩……」
エツの目が茎川をとらえる。その視線には先程までの、傷だらけの翼で飛ぶ鳥のような危うさや、激しさはなかった。
「御格子さん、シイカちゃん……それに……」
エツの目尻から、また涙がこぼれた。あまりにも静かに。
「先生。私、……失恋、したんですね」
茎川に向けられる好意は、変わりがない。しかし、そこには明らかな区切りがあった。
欲しい。でも、手には入らない。それを理屈だけではなく、感情でも理解していた。
「悲しいです。それに、すごく寂しい……」
「尾幌」
「先生、好きでした。本当に、好きだったんです。私、辛かったけど、でも、それだけじゃなかった。楽になりたくて、好きになったんじゃありません」
「分かってるよ。分かってるに、決まってる」
クツナが、エツから離れた。シイカに目配せしてから、茎川の方を向く。
「僕にできるのは、ここまでです」
「ええ。ありがとう、ございました」
茎川が深く腰を折った。何も言えないシイカを伴って、クツナが生徒指導室のドアへ向かう。
ふと、シイカとエツの目が合った。その途端、シイカの胸に、棘だらけの風船が膨らんだような痛みが走った。
自分はやはり、取り返しのつかないことが起きたのを、傍観していたのではないのか。たとえエツや茎川が望み、クツナが施術に踏み切ったとしても、反対するべきではなかったのか。もう少し考えましょうと、訴えるべきではなかったか。
エツが、楽になったようには見えない。罪悪感と後悔が押し寄せる。シイカはクツナを押し退けて、エツの方へ踏み出した。
「尾幌先輩、私、やっぱり、先輩を」
「シイカちゃん、ありがとうね」
そう言われて、シイカの頭の動きが止まった。赤く腫れかけた目で、エツがシイカを見つめている。
「そんな、……こと、……私、なんかは……」
「本当に、これでよかったのよ。でもごめんね、今だけは、先生と二人にさせて」
窓から差し込む夕日が、立っている教師と座った生徒を照らしている。
ぎこちなくたたらを踏むようにして、シイカは生徒指導室から出た。クツナもそれに続いてから、ドアを閉める。
「行くぞ」
「……はい」
二人分の足音が遠ざかっていく。
エツは、口を開いた。目の前の教師に、何かを話して、何かを伝えたい。でも、一番伝えたかったことはもう伝えて、そして、結論が出されてしまっている。
これから何を言ったところで、それは、既に残骸になってしまった夢の思い出をなぞるだけに過ぎない。御格子クツナのしたことは、つまり、それをエツにどうしようもなく分からせる作業だったと言ってもよかった。
開けた唇からは何も出てこず、代わりにエツの目からは涙がまた流れた。それが悲しくて、かろうじて言葉を絞り出す。
「先生」
「うん」
「まだ、行かないで、ください」
「うん」
「そこに座ってください」
「うん」
茎川はエツの斜め向かいのソファに腰かけた。
二人の視線が合わさる。終わったはずの想い。夢の残骸。それがどうして――こんなにも痛い。
「私、もう先生に求めることなんて、何もないはずなんですけど」
「うん」
「話したいことは……たくさんあるような気がするんです」
「どんな話でも聞くよ。いくらでも」
黄昏の光線はさらに傾いて、茎川を横から照らしている。この教師にはこの色が最も似合うと、エツはいつも思っていた。あの、狭く薄暗い科学準備室で、何度も、何度も。
「先生は、私のことを信じすぎですよ」
困ったように笑うその教師の顔が、特に好きだった。
「私のことを見てください」
「こう?」
「今日は、ずっとここにいてください」
「うん」
「ずっとって、私がいいって言うまで、ずっとですよ」
「分かった」
「部活、続けてもいいですか」
「もちろん」
「変な感じになりますよ」
「そうだね」
「トワノも巻き込んで、とても変な感じになりますよ」
「それも、そうだね」
「今だけ、下の名前で呼んでもいいですか」
「うん」
「アキヒロ」
「うん」
「アキヒロ」
段々と、声にならなくなっていく。
「下の名前で、呼んで、ください」
「エツ」
――何が悪い。
夢の残骸をなぞって、何が悪い。
叶わない夢を夢に見て、何が悪いというのか。
時間が止まってしまえばいいと、科学準備室で、何度も願った。子供っぽいと思いながら、繰り返し切望した。
でもそれはきっと、今日ここが最後なのだ。
時間は止まらない。夕日は傾いていく。
けれど、過ぎ去ったものは、なかったものと同じではない。それだけは、エツは、嗚咽の中で確かに分かっていた。
闇に変わる寸前の空の色が、今だけは、エツと茎川を同じ色に染め上げていた。
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