棘を編む繭

クナリ

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第四章 2

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 クツナの存在は、シイカの中で確実に大きくなってきている。少しでもクツナの役に立ちたいし、繭使いの負担を和らげてあげたいと思う。しかし、それを言葉で直に表現するのはあまりに難しかった。
「今日は僕も、ちょっと電車に乗る用があるんだ。約束は夜だが、多少早く出ても問題ないからな」
「クツナさんて、友達がいるんですか」
 半眼になるクツナを見て、シイカは自分の表現のまずさに気づく。これだから会話というのは困りものだ、と胸中で泣いた。
「あの、そういう意味ではないので」
「他のどういう意味にとれるのか甚だ疑問だが、まあいい。一応、約束している相手は友達だぞ。れっきとした」
 クツナの声に若干の棘は感じたが、そうこうしているうちに二人は伊村橋駅に着いた。
「ん?」
 クツナが何かに気づいて改札を注視した。そこには、一人の女性が立っている。目が合うなり、その女はつかつかとクツナに近寄ってきた。
「久しぶり、クツナくん」
「ああ、久しぶり。なんだよ、こんな時間にこんなところまで来て。十九時に天内で待ち合わせじゃなかったのか」
 突然のことにたじろぐシイカだったが、それよりも驚いたのは、クツナの声と眼差しの優しさだった。
 仕事柄、クツナは繭使いのヒアリングの時は努めて穏やかな態度でいるし、仕事の前後でシイカに威圧的な態度をとったことなどない。
 しかし今のクツナの態度は、そのどちらの時とも明らかに違った。
 ほんの一言二言に、陽だまりの中でぬるんだ水をすくい上げるような、穏やかさと慈しみが満ちている。
 女は、クツナと同年齢程度に見える。目は吊り気味だが、きつい印象はない。ややブラウンのかかった黒い髪が、肩甲骨の辺りまで伸びていた。シックな濃いグレーのトップスに、アイボリーホワイトのスカートがよく似合っている。
 細かい細工のついた赤い鞄を見て、もしかしてこれが差し色というやつだろうか……とシイカは思った。
 全体的に大人っぽく、自分には到底選べない、そして着こなせない服装だった。
「夫と離れて自由時間てこの頃あまりなかったから、つい開放的になってしまって。この街も、けっこう変わったのね」
「それは変わるさ。なんだって変わるだろう」
「その言い方、クツナ君ぽいね」
 くすくすと笑う女性は、屈託なくも、成人としての落ち着きを漂わせていた。クツナの横に立つ姿が、似合い過ぎるほど似合う。
「夫は夜には合流できるから。それまで、予約したお店の近くで何か飲んでいようよ」
「そうだな。ところで、こっちのこの子だが」
 二人が急にシイカの方を見た。不意のことに、シイカの鼓動が強く脈打つ。
「僕を手伝ってくれてる、鳴島シイカだ。鳴島、こっちは季岬キリ。僕の、古い友人だ」
 既婚者の友人。当然ながら、クツナには自分がまだ知らない私生活がたくさんあるのだと、シイカは改めて思う。
「鳴島さんね、初めまして。手伝うっていうと、お仕事を?」
「そうだ。塾のアルバイトだな」
 え、と顔を上げたシイカにクツナが目配せし、それを見たシイカは話を合わせた。
「そうなんです。ク……御格子先生には、いつも色々、教えていただいていて」
 ややつっかえながらも、なんとかそれくらいは言える。

「電車は、鳴島とは反対方向になるな」
「は、はい。それじゃ、御格子先生、また」
 クツナとキリが背を向け、改札へ歩き出す。
「あの、御格子先生」
「ん? どうした」
 呼び止められて戻ってきたクツナに、シイカは小声で聞いた。
「季岬さんが、クツナさんの言ってた、異性の親友ですか」
 シイカにすれば、ちょっと聞いてみたかっただけだった。
 しかし、クツナが、わずかに息を飲んだ。
 あれ、とシイカが思うのと同時に、クツナが答える。
「そうだ。僕などよりもずっと立派な、尊敬できる人間だ」
「そう、なんですね」
 クツナがまた背を向け、改札の向こうへ消える。気にかけるように何度か振り向いてくれたのは嬉しかったが、シイカの胸には空虚感が広がっていた。
 このまま家に帰るのが、なんとなく嫌だった。まだ日は高い。シイカは、電車に乗るのは後にして、久々にこの辺りを歩き回ってみることにした。登下校の際の、散歩という名の徘徊をやめてからというもの、運動不足なのかどうも体のキレが今ひとつの気がしていたので、ちょうどいい。
 歩き出しながら、シイカはさっきの二人のことを考えていた。あの季岬キリという人物は、以前クツナから聞いていた人物像と随分違う。確か、向こう見ず、無鉄砲……そんな言い方をしていたはずだ。本当に同一人物なのだろうか。
 あてもなく歩いているので、見覚えのない道から道へと進んでしまう。やがて、クツナの家とは別の地区の住宅街に入った。
 やおら、一組の男女のもめる声が聞こえた。
「急に殊勝になったって、それで今までやったことが消えるわけじゃないんですからね!」
「分かった、分かってる。悪かったと思ってるんだよ」
 シイカは塀の角に身を隠し、二人を見る。男の方の声には聞き覚えがあった。顔を見て確認する。吉津だ。
 吉津を怒鳴りつけているのは、痩せている吉津よりもやや体格のいい中年の女だった。
吉津は少し腰を曲げ、頭を下げた格好をしている。
「うちはね、防犯カメラだって買ったんです。あなたが何をするか分からないから、怖くって」
「家に何かしたことなんてねえだろう……」
「怖いものは怖いんです。家族のない人には理解できないんだわ。こっちにはあなたと違って、守るものもあるんですから」
 一応敬語ではあるが、女の言い分はかなり威圧的で、聞いているだけのシイカも気分が悪くなる。しかし、吉津は怒り出すでもなく女の言葉を聞いていた。少なくとも、すぐに激昂し出すようには見えない。
「吉津さん、我慢できてるんだ……」
「ただそれが、いいことと言えるのかな」
「えっ!?」
 いきなり背後から語りかけられ、シイカは飛び上がった。振り向くと、一人の男が立っている。灰色の目。灰色の、長い髪。見覚えがある――気がする。しかし、誰なのかは分からない。
 シイカの悲鳴を聞いた吉津たちがこっちを向いた。慌てて隠れるシイカをよそに、灰色の髪の男はつかつかと二人に歩み寄っていく。

「屑みたいな飛び方をする鳥から、助けてくれと言われた時。クツナなら、その羽を治してやろうとするんだろうな」
「……なんだ、あんた?」
 いぶかる吉津の胸の辺りに、男――真乃アルト――が手を伸ばした。シイカは、アルトが吉津の繭をつまんだのに気づく。
「僕なら羽ごともいであげる。少なくとも周りには面倒をかけずに済む」
 アルトの両手が空中で踊った。クツナのそれとは違う、繭の持ち主のことを一切顧みない、速いが暴力的な手技。
 吉津がぺたんと尻餅をつく。アルトは、後ずさりする女の繭も捕まえ、同じように繭を繰った。女もその場に座り込んでしまう。
 二人の様子は異様だった。落ち着いたというよりも、完全に気が抜けてしまったようで、口を半開きにして中空を眺めている。
 シイカには、その状態に見覚えがあった。どこで見たのだったか。
 ――そうだ。これは、ついこの間――
「知ってるみたいだね。そう。僕の父親と同じにしてやっただけ」
「ち、父親? じゃああの家の……」
 クツナとともに訪れたある夫婦の家。車椅子に乗った男性。今の吉津たちは、その様子とそっくりだった。
「この二人は父よりもっとずっと軽症だから、もうちょっとすれば、勝手に立ち直るよ。
ただ一時、大人しくさせただけだからね。まあ、完全に元通りとはいかないけど。ねえ、こっちに来なよ。鳴島シイカさん」
 そう言われても、シイカの足は震えて動かなかった。何が起きて、あの二人はどうなってしまったのか、この人物があの老人のような男性の息子とはどういうことなのか、頭はすっかり混乱してしまっている。
 それを見て、アルトの方からシイカの前に来た。
「今日はちょっと、見たくもない顔を見たからね、気分が悪いんだ」
「あなたは……」
「それはもう飽きたと言ったろう。君も少し、僕の意地悪に協力してくれ。それ以上のことは君には何もできないだろうし。あいつと直接会ったのに、なんにも全然、思い出していないんだろう?」
「思い出す? ……あの、」
 アルトの指が、シイカの目の前で踊った。
「少しは面白くしてくれよ。もうそろそろ、クツナの奴についても、潮時だと思っているんだ」
 クツナの父、クツゲンは、玄関前に打ち水をしようとしていた。夏とはいえもうすぐ日が暮れそうだが、この時間帯に水を打つのも効果的なのだと、母親が生前教えてくれた。
「クツゲンさん」
「おお、鳴島さん。どうした、忘れ物か」
 クツゲンも当初からシイカには自分のことを名前で呼ばせているが、そのおかげもあってか今ではだいぶ打ち解けてきていた。愛想がないクツゲンの表情に、確かにシイカへの好感がにじんでいる。
「少しお聞きしたいことがあるんです」
「家の中の方がいいか」
 こくりとうなずくシイカとともに、クツゲンは居間に向かった。二人で、向かい合わせにソファに座る。

「なんだ、クツナには言いづらいことか」
「私、クツナさんのことが好きなんです」
 ペットボトルの茶を入れたクツゲンの湯飲みが、その口元でぴたりと止まった。
「本当かね。それはまた。まあ、起こりうることではあるか。驚いた」
「私、今日、季岬キリさんという人と会いました。あの人は、クツナさんの何なんですか

「季岬……」
 湯飲みを置いたクツゲンの眉が、二三度揺れた。
「そうか。どんなだった?」
「落ち着いた、大人の女の人って感じでした」
「俺の知る限りでは、クツナの幼友達ということだがな。ずいぶん仲が良かったようだが、クツナの母親が死んだ後のいつだか、どこだかに引っ越して行った……いや、あいまいで済まない。それだけ俺とは疎遠になったんだが、クツナはそれからも時折会ってはいたかもしれん。俺は名前を聞いたのも久しぶりだ。しかし、当時はずいぶんお転婆だったような覚えがあるな。まあ、女の子は変わるか。いや、クツナが変わらんだけかな」
「クツナさんにとって、そんなに大事なお友達なんですね」
「ああ。もう一人男の子が――クツナの従弟なんだが、その三人でいつも遊んでいた。その子も、別の土地に移って、クツナの身辺は急に寂しくなったもんだ。母親と友達二人が段々にいなくなったわけだからな。しかし、昔のことなんて今聞いてもさして役に立たんと思うぞ。愚息のどこを気に入ってくれたのかは知らんが」
「ありがとうございました。帰ります」
「おお。また今度な」
 シイカは、そのままクツナの家を後にした。
 クツゲンは、少しシイカの様子がおかしいような気はした。いつもならば、こんな風に要領よく用件だけを済ませて去るようなことはない。
 が、思いがけない告白の方に気が行って、特に追求する気にならなかった。
 夜が更け、二十二時を回った頃。クツナは少し酔いながら、伊村橋駅を降りた。家までの距離は、酔い覚ましにはちょうどいい。キリの夫とは歳が離れているが、よく気も合い、話し始めると止まらない。その分、一人で歩く夜道はいつもよりも寂しかった。
 駅の明かりが遠ざかり、段々と暗くなっていく帰途の途中で、クツナはふと、街灯の下に人影を見つけた。
「おい。……まさか、鳴島か?」
「はい」
「何だっていうんだ、こんな時間に。さすがに遅すぎるぞ。家族も心配――」
「いいんです、そんなのは」
 シイカはクツナの腕をとると、近くの公園へ引っ張って行った。二人でベンチに、並んで腰かける。
「鳴島、変だぞ」
「季岬キリさんとは、どういう関係なんですか」
「……そんな話なら、今度いくらでもしてやる。だから今日はもう、」
「今教えて欲しいの!」
 声量は小さかった。しかし、声には切羽詰まった響きがある。シイカの今の様子が普通ではないとは、クツナも察していた。そしてその程度が、思っていた以上であることに、ようやく気づく。
「鳴島。どうしたんだ」

「クツナさん。私、思い出したんです」
 クツナが息を飲んだ。
 実際には、この時シイカは、何も思い出してなどいなかった。ただ、アルトに、そう言えとプログラムされていただけだった。
 そしてクツナは、アルトの意図通りの解釈をする。
「思い出したのか。どの程度?」
「分からないです。断片的っていうか、バラバラで……。だから、お願い」
 クツナは、短く嘆息した。それなら確かに、このまま帰すのはかえって危ないかもしれない。元より、キリとの関係など、いくら話しても構わない。しかし。
「分かった。ただ、それを聞いたら、大人しく帰るんだぞ」
 どこまで話すかは、慎重に判断する必要がある。
 キリの話をするとなると、アルトのことを抜きには説明できない。あの二人との思い出は、そのままクツナ自身の半生でもある。
 出会い、仲良くなり、そして離れた。かいつまんで話したために、時間にすれば五分もかからなかっただろう。
「つまり、三人は同じ能力を持った友人だったってことだ。でも色々あって、離れ離れになった」
「ずいぶん、省いてますね」
「そりゃ、こんなところで微に入り細に入りってわけにはいかないだろ。大体僕の友人関係なんて、そんなに詳しく聞いても仕方ないだろう?」
 シイカは、自分の繭の一部をつまみ、電源コードのように伸ばした。
「鳴島?」
 その先端を、シイカはクツナの繭につないだ。
 シイカがアルトから得たーー強制的に渡されたーー記憶が、クツナに流れ込んでいく。
 公園の街灯に弱弱しく照らされながら、クツナは、三人で過ごし、そして別れた時のことをフラッシュバックさせた。
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