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Pseudo fathers with desires
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しおりを挟むヤマダは、なにか思案しているようだったが、やがて折れた。
「分かった。分かったよ。じゃあ、ここでおしゃべりだけね。あと十五分くらいかな」
「ありがとうございます」
深々と頭を下げる。
それから、うわべだけはなにもなかったかのような、他愛のない会話をして、十七時になった。
彼女はお礼を述べて、報酬は、ご気分を害したでしょうからと、半額だけ受け取った。
満額もらえば損させたような気にさせるだろうし、ゼロだと突っぱねすぎかと思ったからだ。ただ、それが正解かどうかは、やはり分からない。こんなことで、誰も正解を教えてくれはしない。
彼女は五千円以上は受け取ったことがない。もめごとに発展させないための、安全圏の金額はそのくらいだろうと思っていた。
できることなら、絶対に安全が確保できる選択肢を選び続けたい。
少なくとも、もうヤマダとは会わない、それだけは正解だろう。
「それじゃ、失礼します。お手当ありがとうございました」
彼女は礼儀正しく腰を折って、ヤマダに背を向け、歩き出した。
本当は振り返って、ヤマダがおとなしく去っているかを確認したい。
その衝動に耐えて歩き続ける。
もともと人出の多い道なので、すぐに彼女の姿は人波に飲まれた。男の人がいっぱい。女の人もいっぱい。その女の人のほとんどはパパ活なんてしていないんだろうな、と思いながら足を進める。
たくさんの行き交う人々の誰も、こんなに無数の人間がいるのに、その中の一人たりとも彼女のことを見ていなくて、だから彼女は自分だけは街の枠の外にいるような気持になる。寂しいというよりは、心地よかった。一人ではないけれど、わずらわしくもない。
念のため、家とは逆方向の電車に乗った。
二駅ほどで乗り換え、さらに別の方向の路線に移る。
最終的に上野か秋葉原に着けばよかった。
少し人の数が減ったあたりで、なにげないふりをしてホームで後ろをうかがった彼女は、信じられないものを見た。
心臓が止まりそうになって、慌てて自動販売機の陰に隠れる。
ヤマダだ。客の顔なんていちいち覚えていないけれど、さすがにさっきの今で、見間違えるはずがなかった。
いくらなんでも偶然ということはないだろう。
つけられている。
近くで一番大きい駅を頭の中に思い浮かべ、ホームに滑り込んできた電車に乗って、そこへ向かった。
平静を装ってその駅で降りると、改札を出て、人の多いほうへ向かう。
駅ビルの中に入り、無数の物陰に囲まれて、ようやく少し安心した。
何度も折れ曲がりながら、女子トイレに入るふりをしてたまたま通りがかった集団に隠れて通り過ぎ、さすがにまけただろうと思って駅ビルの外に出る。
裏通りに入って、駅ビルの周りをぐるりと回り、駅へ戻ろうとした。
そこで腕をつかまれた。
今度こそ心臓が止まるかと思った。
「な……き……」
「騒ぐなよ。完全に、僕をまこうとしてたよな」
当たり前だ。
家まであっさり案内してしまうほうがどうかしている。
頭ではそう思うが、彼女の口は、ただぱくぱくと音もなく開閉するだけだった。
裏通りに入ったのは失敗だった。あたりにはひとけがない。
ヤマダが彼女を抱きしめた。
タバコくさくて、息ができない。そうだ、この人は、今日禁煙のカフェでもいきなりタバコを取り出して火をつけようとした。彼女があわてて止めたのだ。
なぜあんなものを吸うんだろう。ただ吸わなければいいだけなのに。
驚愕と恐怖のために、彼女の思考は現状と無関係の方向へ展開していく。
「マキちゃん、防犯ブザーとか持ってるの?」
持ってません、と正直に言ってはいけない。
それだけは思い至って、彼女はただうなずいた。
「そうなんだ。じゃ、鳴らしてもいいよ」
思いがけないことを言われて、彼女は、どうしていいか分からず身動きせずにいた。
しかし、それが悪手だったとようやく気づく。
「鳴らそうとしないってことは、持ってないんだな」
もうだめだ。これを言うしかない。
「けい、……さつ」
「うん?」
「警察を、呼びますよ」
「いいよ。マキちゃんが大声出してから警察来るまで、何分かかるかなあ。その間、僕はどれだけのことができると思う?」
密着した体中から、汚らわしい体温が伝わってくる。男の固い肉の弾力と重量が、圧倒的な力の差を思い知らせてきた。
力ではかなわない。
だめか。
いや、あきらめるな。
こういう状況に陥ることは、いつだってあり得た。
覚悟はしてきたはずだ。
頭を回せ。あきらめるな。
この男はヤクザでも反グレでもない。まだ明るい街中のこと、そんなに思い切った暴挙に出るはずがない。
仮に暴力を振るわれたとしても、絶対にこちらから屈服してはいけない。
そうすれば、……
そうすれば、どうなる……? そんなふうに抵抗したところで、結局は勝てないのに……
苦境からの脱出のために働かせるべき思考が、これから起こりうる最悪の事態を想定するほうに割かれてしまい、彼女の意気がくじけかけた。
その時。
「おい、なにしてるんだあんた」
裏通りに、男の声が響いた。
「……なんでもない」
「なんでもないことないだろう、そんな女の子に大の男が抱き着いて」
新しい声の主の姿が、彼女の目に入る。
ヤマダよりも少し年上、四十代くらいの男だった。スーツ姿で、体格はヤマダよりも少し横に広い。
「痴漢か? いや、それどころじゃないな。強制わいせつかな。まあ、とにかくそこの交番まで行こうか」
ちっ、と汚らしい音がした。
わざとらしく大きく鳴らされたヤマダの舌打ちだと、彼女は遅れて気づいた。
ヤマダが彼女から離れる。そして、足早に裏路地から出て行った。
スーツの男性が、なるべく穏やかに響くように気遣った声音で言ってきた。
「もっと早く止められれば良かった、ごめんね。警察行く? どうする?」
いいです、とだけ言って、彼女は頭を下げて表通りへ出た。
まだ明るい。
人通りがそれなりにある。
発汗と荒い呼吸が収まらない。
行き交う大勢の中の、誰からも注目されていない自分。
でも、捕まってしまうことがある。自分からわざわざとった行動のせいで。
家族に言っているのとは全然違う「アルバイト」のために危険が及んだ時、自分で自分の身を守れない。
安全だろうと線を引いていた場所が、次の瞬間には危険地帯に化けている。
一緒にお茶を飲むだけで数千円の報酬を払ってもらうのは、なんの法律にも触れていない。
一方で、嫌がっている未成年に無理矢理触れてくるのは悪いことのはずだ。
客の誰も――少なくとも彼女の客は誰も――、悪いことをするとはおくびにも出さない。
でも時折、こういうことがある。
誰のせいにもできない。彼女の自業自得だから。
……本当に?
今日のあの客に抱き着かれた時、今までになく、自分の体が汚れたと感じた。自ら身を売ったわけでもなく、一方的に捕まっただけなのに。
元はと言えば、自分が招いた危機だった、それは自覚している。
それでも、触れられた部分に残る不愉快な圧迫感は、あの男の欲望と意思がそこから体内に染み込んでくるようで、耐え難かった。
欲しいものは、人並みの将来。
望んだ道へ進める、その選択肢を断たれないこと。その程度。
そのために必要なものを得ようとすると、嫌いなものばかりが増えていく。
男だとか、他人だとか、なによりとりわけ、自分だとか。
そんなふうに感じている自分の考えを仮に誰かに吐露したとして、嫌われるか軽蔑されるだけだろう。共感や好意を得られるとはとても思えない。自分だって、そんな人間は嫌いだ。
それでも、
(……いい人もいる)
今さっき助けてくれた、見知らぬスーツの男性とか。
最近知り合い、変に気が合うことが分かった、転校先のとある女子とか。
彼女にとっての救いは、そうした人たちの善良さだった。それを感じ取れる自分にもそれがきっとあるはずだと、人の根源的な善性を信じられた。
とりあえず、もっと安全には気を配ろう。同じ客と、何度も会うのはやめよう。
懲りないなあと自嘲しながら、真名月リツは顔を上げた。
道を行く無数の人々。
たった一人の自分。
いつか、ほかの誰かが私を大切に想ってくれたらいいのに。
スマートフォンに、母親からのメッセージが入った。
帰りに牛乳と玉ねぎを買ってきて欲しい、という他愛もないもの。
買い物を済ませて家に帰ると、母親と妹が遅めの夕食にするところだったので、リツも合流した。
母親はどちらかというと暗い性格で、会話が弾むことがあまりない。
リツにすれば、「新しい学校はどうか」という話題が出ればそれなりに話すこともあるのだが、妹の手前、母親もリツも口に出すのははばかられた。
「リツ」母親が珍しく口を開いた。しかしその口調が、あまり雰囲気のいいそれではないことを、リツは嫌でも悟ってしまう。「そのお椀の持ち方やめて」
リツは、飯茶碗のふちに親指の腹を軽く乗せ、人差し指と中指と薬指で底を持っていた。
さほど行儀が悪いとも思わなかったが、言われるがままに、少し指をずらして持ち方を変える。
母親がリツに対してなにかをとがめる時、理由は決まっていた。
動作や言葉遣いが、家を出て行った父親にそっくりな時だ。
遺伝的な見た目は仕方ないとしても、父親と内面が似ているというのはリツとしてもはなはだ不本意なので、基本的にはいつも母親の言う通りにして改めている。
そういえば、十三歳になる妹のさなみは、そうした注意を母親から受けたことがない。
父親と過ごした時間が短い分、リツほどには影響を受けていないのだろうか。それはなんとなく、リツとしては面白くなかった。嫉妬に近い感情かもしれない。
リツにとって、自分や男性に対して感じる汚さの根幹は、あの父親にあるのではないかと思えた。
しかしこの思考を突き詰めると絶望的な気分になるので、いつも途中で打ち切る。
さなみを見る。
ショートカットに切りそろえられている黒い髪を乗せた小さな頭が、ものを食べるたびに小さく揺れた。
かわいい、と思う。
しかし、こんなにかわいい存在を傷つけてしまうものが存在する世の中が、リツには信じられなかった。
時には、その加害を正当化しようとする人間がいることも。
静かな夕食は続く。
家族とはいえ、一人ずつ別の人間だけど、当たり前のように食卓を三人で囲む。
少しいびつではあるが居心地のいいこの空間で、リツは毎日を過ごしていた。
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