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第二章 リストカット
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パパ活をしていると、父親と同年代だろう男の人と会うことがある。むしろ、多い。当然かもしれない。
大人の男性だって歳の離れた女の子とおしゃべりするくらいいいじゃない、と思いもするけれど、やっぱりあまりいい気持ちはしない。
お昼ご飯を一人で済ませた、日曜日の十三時。ブラウンのジレにオフホワイトのワンピースで、私はお店の人に案内されてテーブルについていた。
上野駅の近くの、解放的で明るいカフェ。今回はここで待ち合わせだった。
お母さんもさなみも来ない。父親に会うのは、今は私だけ。
さなみみたいな中学生の娘なんてかわいくて仕方なくて、父としてはかなり会いたいんじゃないかと思ったけど、連絡が来た時に「さなみは来たければ来ればいい」程度のことしか言われなかったので、そんなことでは当然さなみはまったく来る気がない。
お父さんて、愛想振りまいてくれる女の子じゃないとだめなのかもなあ。
グラスの水――ライムかレモンが絞ってあるみたいだった――を飲んで、ぼんやりそんなことを考えた。
そうすると、私は愛嬌を振りまいてくれると思われてるわけだ。なんだか、舐められてるみたいで面白くないな。
もういっそ帰ってしまおうか、と思っていたら、「ごめんごめん」と言って父親が現れた。
グレーのスーツ、ネクタイはなし。この人は、秋どころか冬でもこんな感じの服装をしている。
ハードスプレーでさっと固めた黒い髪、痩せた頬、とがった顎。
私やさなみとはあまり似ていない。そのことにどこかほっとする。
父親はコーヒーを注文して、私の向かいに座った。私もダージリンティを注文する。
「いやあ、リツはまた髪伸びたなあ」
「そりゃ、三ヶ月も空けばね。ていうか、先週切ったし」
今年の春に離婚してから、当初は週に一回だった面会は、翌月には月に一回になり、その後は夏に会ったっきり、久しぶりの体面になった。
週に一回にしてくれと懇願してきたのは父親のほうだったのに、この人はもう自分の娘たちに飽き出しているんだなと思うと、腹が立つというより空しくなってくる。
こんな空虚さを抱えたままでは、包容力のある大人の男性に誘われたら、私なんてころりと手なづけられてしまうんじゃないかと思ったけど、幸いパパ活のおかげで男性に対する幻想は抱かなくて済んでいる。
「おおー、リツも美容室通いかー」
「毛先切るだけだもん、お母さんにやってもらったよ」
「お母さん!? 高校生にもなって、お母さんの床屋さんか? 美容室くらい行けよー」
お父さん。それなら、養育費払ってよ。もう遅れがちらしいじゃない。
そう言いそうになるのをぐっとこらえる。
夏休みの間に子供に一度も会いに来ようとしなかったこの父親に、私はまだなにかを期待しているのか。
約束通りお金を入れていないのが後ろめたいせいで、これからさらに会う頻度は減っていくかもしれない。そうするとどんどん養育費を払うのが嫌になっていく、悪循環だ。
でも、さなみや私やお母さんが本当に困った時には、少しは経済的に助けてくれるかもしれない。
その可能性を、私が愛想笑いしながらおしゃべりすることで残すことができるなら、それで構わない。
養育費のことで責めるようにして追い詰めたら、この人は簡単に私たちと一切音信不通になってしまいかねない。
私はともかく、さなみはこれからまだまだお金がかかる。お母さんだって、急にけがや病気をするかもしれない。
その時のための保険として、「かわいい娘」として父親とのつながりを維持しておくのは、必要なことだと思った。たとえ、どんなに可能性の低い保険だったとしても。
なんだか、父親に対してもパパ活してるみたいだな、と思う。
でも、自分を父として慕ってくる娘の一人でもいないと、この人にとって私たち家族は、ただの過去の負債だと認識されてしまう。
「美容室代くらい、今やろうか?」
「ううん、いい。お父さんが会ってくれるだけで充分だから」
ここで小銭をもらってしまったら、私は父親から「会うたびに思いがけず出費する相手」だと思われるかもしれない。それは避けたい。
「そうか? じゃあここの金はおれが払うよ」
その言葉には甘えることにする。
離婚した親というのは、子供のためにお金を使うことで満足感を得るものだ、となにかの記事で読んだ。
紅茶代六百円で、その満足を得てもらおう。
ここで調子に乗って、服でも一枚買って、と言えばすぐに引かれてしまう。
それが、私の父親評だった。
「リツ、コーヒー少し飲んでみるか?」
父親がカップを私に傾ける。
「ううん、いい。コーヒー飲めないから」
嘘だった。濃すぎなければ、コーヒーはストレートでも飲める。
でも、もう父親が触れたものは飲んだり食べたりする気になれない。
この人が盗撮した相手が、どんな年齢のどんな人なのか、お母さんからは私やさなみに決して教えてもらえなかった。
部下の女の人になにかをしたというのも、どのくらいまでのことをしたのか、具体的なことは初めのころ私たちには知らされなかった。
でも、耳には入ってきてしまう。
噂話がどのくらい本当かなんて分からない。でも、想像するだけでもうだめだったし、どうやら、それらの噂はほぼ本当のことだった。
「あれ、このカップ、ふちが欠けてんな。ちょっと、君―」
父親が、少し顎を引いて、右手を高く伸ばし、手首を縦にぱたぱた振ってお店の人を呼ぶ。
なんて気味の悪い仕草だろう。えづきそうになった。
はい、と言って来てくれた女性の店員さんの左胸にあるネームプレートをじっと見た父は、
「あー、南さんね。これカップ欠けてるよ。すぐに廃棄しなさい。君はアルバイト? でも関係ないからね、君に言ったからね、南さん」
「お父さん!」
店員さんは、申し訳ありませんでしたと頭を下げて、代わりのコーヒーを持ってきてくれた。
私は、紅茶代は自分で払うと言うんだったと後悔した。もう、この人に出してもらって飲む気になれない。
さなみだけじゃなく私だって、お金が欲しい。世の中の、当たり前に大学進学する人たちは、どうやって捻出しているんだろうと不思議に思う。
この人が一部でも援助してくれるなら、パパ活だってしなくて済むのに。
でも、この父親のお金で進学するなんて、今は考えられなかった。
それなら、多少危険でも自分でお金を作ったほうがましだった。
一方で、さなみにはパパ活なんてして欲しくない。お金の出所がどこでも、経済的に助けてくれる相手は確保しておきたい。
その上で援助を受けるかどうかは、さなみが決めればいい。
私はただ、選択肢の一つを捨てずに残しておくだけだ。
父親は、新しいコーヒーを飲み干すと、
「じゃ、そろそろ行くかな」
と言って立ち上がった。
「え、もう少しいいじゃん。せっかく会えたのに」
私はしぶる振りをする。
「用事があるんだよ。おれは忙しいの」
こうして面会を切り上げるのは、いつも父親のほうだった。
なにで忙しいんだろう? スマートフォンのゲームかなにかかもしれない。
父親がカフェの支払いを済ませたので、「ごちそうさまでしたっ」と精いっぱいの笑顔を作る。
そういえば、面会で食事をしたのは、最初の一回だけだった。その時だけはさなみも一緒だったけど、一言も父親とは口を利かなかった。
「じゃあ、次はなるべく早く会おうな。秋のうちに」
「うんっ」
それは早いのか、と思っても口には出さない。
父親は、上野駅のほうへ歩いていく。
その背中を見送った。
ここは私の家から近いわけではない。父親が一人暮らししているという御徒町はすぐそこだ。
上野だからといって、一緒に美術館や動物園を見に行くわけでもない。
電車代も出してもらえない。
全然大事にされていないなあ。
そのおかげで、私も全然自分を大切にしないでいられる。
近くのあんみつ屋さんで、自分のお金であんみつを食べた。
甘くて冷たくてあんも寒天もきれいで、とりわけぎゅうひが最高だと思った。
それから、約束の時間の十五時に、上野公園の端に向かった。父親との面会が十三時なら、長くても十四時半には終わるだろうと踏んでいたのだけど、実際には十四時には解放されたので、余裕だった。
相手の男の人はもう来ていた。
少しぽっちゃりしていて、青いチェックのネルシャツを着ている。父親より少し若いかな。
気をつけていないと、お客さんたちはみんな同じ顔に見えて、つい服で覚えてしまうので、一度人混みではぐれたりするともう顔が分からなかったりする。
髪型や眼鏡の特徴で覚えると、私を気に入ってくれた人がまた連絡をくれて会うことになった時、髪型が変わっていたり、眼鏡をやめてコンタクトにして来ることがあったので、これも注意が必要だった。
写真を撮っておけばいいのだろうけど、そうすると、男の人も私の写真やツーショットを撮りたがるので、カメラは一切使わないようにしていた。そんな写真を残されたら、どこでなにが起きるか分からない。
「ごめんなさい、カズキさんですよね。待たせちゃいましたか?」
「マキちゃんだね。ううん、全然平気だよ」
この日は、父親に受けがいいので、パンツの禁を破ってワンピースだったのだけど、やっぱりいつもとは男の人の反応が違う。
この先のスタバに入ろう、とカズキさんが言うので、並んで歩き出した。
父親と会ったその後何時間もしないうちに、パパ活相手の男の人と会っている。
我ながらさばけてるなあ、と思った。
こういう時に、少しは後ろめたく思うのがまともなんだろうな。
にこやかな顔を作りながら、外面とは切り離した頭の中でそんなことを考えて、鳩の群れの脇を進んで、並木の傍まで来た時。
「ねえ、マキちゃん。腕組んでいい?」
「あ、ごめんなさい。私、プロフで書いてる通り接触NGなんですー」
私はなるべく穏やかに笑い、丁寧にお辞儀した。
「ね、スタバ着くまでだから。ちょっとだから」
「うーん、でもほら、そんなこと言ってる間に着い――」
言い終わる前に、横にあった木の陰に腕を引っ張られた。
あまり強い力ではなく、悲鳴を上げるほどではない。
周りに人はいる。でも、そこは辺りから死角になっていた。
ひらひらした白いワンピースが頼りない。
「そうしたらお手当倍にしてあげる。五分手つなぐだけだよ?」
「あはは、だめですよー。約束通りにしてもらわないとー」
私はまだ愛想笑いを浮かべていた。
いつもなら、こうなったらもう、お金はいりませんと言って帰っている。でも、この日はそうできなかった。
どうしたんだろう。
ここのところ、パパ活中にもめてお金がもらえないことが続いて、焦っていたのもたぶんあった。
それに、父親にあった直後で、少し自棄になっていたのかもしれない。自己肯定感と、男性への期待値がひどく下がってしまって、男の人からされることのハードルが落ち切っていたのかもしれない。
「マキちゃん」
肩を抱かれた。
「行きたいところがあるんだ。行こう。当然、その分の金は出すよ」
だめだ、帰ろう。これは、私が決めた範囲を超えたおつき合いを求められている。
でも同時に、この男の人がその気になれば、私なんて今すぐどうにでもできるんだな、と思った。
そんなことをしたら警察に捕まるとか、法を犯して罪に服することになるとか、それらはそれらとして、やろうと思えばできてしまえる。
なんだか、急にばかばかしくなった。
私はなんのために、パパ活の範囲なんて決めたんだろう。
親からも大事に思われず、自分だって自分を大切に思えないのに、なにを守ろうとしているんだろう。
両親が離婚した時のことを思い出した。
まだ父親がなにをしたのかを知らなかった私は、お母さんに、
「なにがあったか知らないけど、離婚しなくてもいいじゃない。私、お父さんとお母さんが別れるなんて嫌だよ」
と言った。
子供がそう訴えれば、親というのは聞き入れてくれるものだと漠然と思っていた。
でもお母さんは、「ん」と言ったきり、粛々と離婚の手続きを進めた。
その時、なんだ、子供のお願いなんてそんなものなんだ、親にとって私の優先順位なんて大して高いわけじゃないんだ、と思い知らされたのを覚えている。
もちろん、今なら、お母さんが私たちを守るために断固とした決意をしたのだと分かる。
でも、あの時の無力感と敗北感は、忘れようとしても忘れられなかった。
私の「心からのお願い」は、親からも顧みられることはないんだと、一度骨身に染みてしまった。
そんなに軽い私という存在が、こんなに大きくて力強い男の人から、自分の体を守る意味なんてあるのかな。
しかもこの人は、その対価だってくれるんだろうに。
起きていることはヤマダさんの時と大差ないのに、あの時ほど心が強く保てない。
父親と会っていたわずか一時間ほどで、私は今日一日分の気力を使い切ってしまっていたのかもしれない。
そういう作用を持つ人間というのがいることは、まだ十数年しか生きていない私でも知っていた。自分の父親がまさにそう言う人間なんだということも。
でも。
いいのか、と言われれば、よくはない。
鉄子の顔が頭に浮かんだ。
そうだ。その気持ちを信じないと。私は、そんなことはしたくないんだから。
空は明るい。人通りもある。私に有利な要素はいくつもあるんだ。グレーな場所にいるからこそ、自分で自分を手放さないようにしないといけない。
「あはは、カズキさん、だめですよ。そういうことは、そういうのオーケーですって子とじゃないと」
「そんな子となんて、つまんないんだよ。ほんとはだめなんだけどって子がいいわけ。ね、手っ取り早くいこうよ。いくらならいいの?」
大人の男性だって歳の離れた女の子とおしゃべりするくらいいいじゃない、と思いもするけれど、やっぱりあまりいい気持ちはしない。
お昼ご飯を一人で済ませた、日曜日の十三時。ブラウンのジレにオフホワイトのワンピースで、私はお店の人に案内されてテーブルについていた。
上野駅の近くの、解放的で明るいカフェ。今回はここで待ち合わせだった。
お母さんもさなみも来ない。父親に会うのは、今は私だけ。
さなみみたいな中学生の娘なんてかわいくて仕方なくて、父としてはかなり会いたいんじゃないかと思ったけど、連絡が来た時に「さなみは来たければ来ればいい」程度のことしか言われなかったので、そんなことでは当然さなみはまったく来る気がない。
お父さんて、愛想振りまいてくれる女の子じゃないとだめなのかもなあ。
グラスの水――ライムかレモンが絞ってあるみたいだった――を飲んで、ぼんやりそんなことを考えた。
そうすると、私は愛嬌を振りまいてくれると思われてるわけだ。なんだか、舐められてるみたいで面白くないな。
もういっそ帰ってしまおうか、と思っていたら、「ごめんごめん」と言って父親が現れた。
グレーのスーツ、ネクタイはなし。この人は、秋どころか冬でもこんな感じの服装をしている。
ハードスプレーでさっと固めた黒い髪、痩せた頬、とがった顎。
私やさなみとはあまり似ていない。そのことにどこかほっとする。
父親はコーヒーを注文して、私の向かいに座った。私もダージリンティを注文する。
「いやあ、リツはまた髪伸びたなあ」
「そりゃ、三ヶ月も空けばね。ていうか、先週切ったし」
今年の春に離婚してから、当初は週に一回だった面会は、翌月には月に一回になり、その後は夏に会ったっきり、久しぶりの体面になった。
週に一回にしてくれと懇願してきたのは父親のほうだったのに、この人はもう自分の娘たちに飽き出しているんだなと思うと、腹が立つというより空しくなってくる。
こんな空虚さを抱えたままでは、包容力のある大人の男性に誘われたら、私なんてころりと手なづけられてしまうんじゃないかと思ったけど、幸いパパ活のおかげで男性に対する幻想は抱かなくて済んでいる。
「おおー、リツも美容室通いかー」
「毛先切るだけだもん、お母さんにやってもらったよ」
「お母さん!? 高校生にもなって、お母さんの床屋さんか? 美容室くらい行けよー」
お父さん。それなら、養育費払ってよ。もう遅れがちらしいじゃない。
そう言いそうになるのをぐっとこらえる。
夏休みの間に子供に一度も会いに来ようとしなかったこの父親に、私はまだなにかを期待しているのか。
約束通りお金を入れていないのが後ろめたいせいで、これからさらに会う頻度は減っていくかもしれない。そうするとどんどん養育費を払うのが嫌になっていく、悪循環だ。
でも、さなみや私やお母さんが本当に困った時には、少しは経済的に助けてくれるかもしれない。
その可能性を、私が愛想笑いしながらおしゃべりすることで残すことができるなら、それで構わない。
養育費のことで責めるようにして追い詰めたら、この人は簡単に私たちと一切音信不通になってしまいかねない。
私はともかく、さなみはこれからまだまだお金がかかる。お母さんだって、急にけがや病気をするかもしれない。
その時のための保険として、「かわいい娘」として父親とのつながりを維持しておくのは、必要なことだと思った。たとえ、どんなに可能性の低い保険だったとしても。
なんだか、父親に対してもパパ活してるみたいだな、と思う。
でも、自分を父として慕ってくる娘の一人でもいないと、この人にとって私たち家族は、ただの過去の負債だと認識されてしまう。
「美容室代くらい、今やろうか?」
「ううん、いい。お父さんが会ってくれるだけで充分だから」
ここで小銭をもらってしまったら、私は父親から「会うたびに思いがけず出費する相手」だと思われるかもしれない。それは避けたい。
「そうか? じゃあここの金はおれが払うよ」
その言葉には甘えることにする。
離婚した親というのは、子供のためにお金を使うことで満足感を得るものだ、となにかの記事で読んだ。
紅茶代六百円で、その満足を得てもらおう。
ここで調子に乗って、服でも一枚買って、と言えばすぐに引かれてしまう。
それが、私の父親評だった。
「リツ、コーヒー少し飲んでみるか?」
父親がカップを私に傾ける。
「ううん、いい。コーヒー飲めないから」
嘘だった。濃すぎなければ、コーヒーはストレートでも飲める。
でも、もう父親が触れたものは飲んだり食べたりする気になれない。
この人が盗撮した相手が、どんな年齢のどんな人なのか、お母さんからは私やさなみに決して教えてもらえなかった。
部下の女の人になにかをしたというのも、どのくらいまでのことをしたのか、具体的なことは初めのころ私たちには知らされなかった。
でも、耳には入ってきてしまう。
噂話がどのくらい本当かなんて分からない。でも、想像するだけでもうだめだったし、どうやら、それらの噂はほぼ本当のことだった。
「あれ、このカップ、ふちが欠けてんな。ちょっと、君―」
父親が、少し顎を引いて、右手を高く伸ばし、手首を縦にぱたぱた振ってお店の人を呼ぶ。
なんて気味の悪い仕草だろう。えづきそうになった。
はい、と言って来てくれた女性の店員さんの左胸にあるネームプレートをじっと見た父は、
「あー、南さんね。これカップ欠けてるよ。すぐに廃棄しなさい。君はアルバイト? でも関係ないからね、君に言ったからね、南さん」
「お父さん!」
店員さんは、申し訳ありませんでしたと頭を下げて、代わりのコーヒーを持ってきてくれた。
私は、紅茶代は自分で払うと言うんだったと後悔した。もう、この人に出してもらって飲む気になれない。
さなみだけじゃなく私だって、お金が欲しい。世の中の、当たり前に大学進学する人たちは、どうやって捻出しているんだろうと不思議に思う。
この人が一部でも援助してくれるなら、パパ活だってしなくて済むのに。
でも、この父親のお金で進学するなんて、今は考えられなかった。
それなら、多少危険でも自分でお金を作ったほうがましだった。
一方で、さなみにはパパ活なんてして欲しくない。お金の出所がどこでも、経済的に助けてくれる相手は確保しておきたい。
その上で援助を受けるかどうかは、さなみが決めればいい。
私はただ、選択肢の一つを捨てずに残しておくだけだ。
父親は、新しいコーヒーを飲み干すと、
「じゃ、そろそろ行くかな」
と言って立ち上がった。
「え、もう少しいいじゃん。せっかく会えたのに」
私はしぶる振りをする。
「用事があるんだよ。おれは忙しいの」
こうして面会を切り上げるのは、いつも父親のほうだった。
なにで忙しいんだろう? スマートフォンのゲームかなにかかもしれない。
父親がカフェの支払いを済ませたので、「ごちそうさまでしたっ」と精いっぱいの笑顔を作る。
そういえば、面会で食事をしたのは、最初の一回だけだった。その時だけはさなみも一緒だったけど、一言も父親とは口を利かなかった。
「じゃあ、次はなるべく早く会おうな。秋のうちに」
「うんっ」
それは早いのか、と思っても口には出さない。
父親は、上野駅のほうへ歩いていく。
その背中を見送った。
ここは私の家から近いわけではない。父親が一人暮らししているという御徒町はすぐそこだ。
上野だからといって、一緒に美術館や動物園を見に行くわけでもない。
電車代も出してもらえない。
全然大事にされていないなあ。
そのおかげで、私も全然自分を大切にしないでいられる。
近くのあんみつ屋さんで、自分のお金であんみつを食べた。
甘くて冷たくてあんも寒天もきれいで、とりわけぎゅうひが最高だと思った。
それから、約束の時間の十五時に、上野公園の端に向かった。父親との面会が十三時なら、長くても十四時半には終わるだろうと踏んでいたのだけど、実際には十四時には解放されたので、余裕だった。
相手の男の人はもう来ていた。
少しぽっちゃりしていて、青いチェックのネルシャツを着ている。父親より少し若いかな。
気をつけていないと、お客さんたちはみんな同じ顔に見えて、つい服で覚えてしまうので、一度人混みではぐれたりするともう顔が分からなかったりする。
髪型や眼鏡の特徴で覚えると、私を気に入ってくれた人がまた連絡をくれて会うことになった時、髪型が変わっていたり、眼鏡をやめてコンタクトにして来ることがあったので、これも注意が必要だった。
写真を撮っておけばいいのだろうけど、そうすると、男の人も私の写真やツーショットを撮りたがるので、カメラは一切使わないようにしていた。そんな写真を残されたら、どこでなにが起きるか分からない。
「ごめんなさい、カズキさんですよね。待たせちゃいましたか?」
「マキちゃんだね。ううん、全然平気だよ」
この日は、父親に受けがいいので、パンツの禁を破ってワンピースだったのだけど、やっぱりいつもとは男の人の反応が違う。
この先のスタバに入ろう、とカズキさんが言うので、並んで歩き出した。
父親と会ったその後何時間もしないうちに、パパ活相手の男の人と会っている。
我ながらさばけてるなあ、と思った。
こういう時に、少しは後ろめたく思うのがまともなんだろうな。
にこやかな顔を作りながら、外面とは切り離した頭の中でそんなことを考えて、鳩の群れの脇を進んで、並木の傍まで来た時。
「ねえ、マキちゃん。腕組んでいい?」
「あ、ごめんなさい。私、プロフで書いてる通り接触NGなんですー」
私はなるべく穏やかに笑い、丁寧にお辞儀した。
「ね、スタバ着くまでだから。ちょっとだから」
「うーん、でもほら、そんなこと言ってる間に着い――」
言い終わる前に、横にあった木の陰に腕を引っ張られた。
あまり強い力ではなく、悲鳴を上げるほどではない。
周りに人はいる。でも、そこは辺りから死角になっていた。
ひらひらした白いワンピースが頼りない。
「そうしたらお手当倍にしてあげる。五分手つなぐだけだよ?」
「あはは、だめですよー。約束通りにしてもらわないとー」
私はまだ愛想笑いを浮かべていた。
いつもなら、こうなったらもう、お金はいりませんと言って帰っている。でも、この日はそうできなかった。
どうしたんだろう。
ここのところ、パパ活中にもめてお金がもらえないことが続いて、焦っていたのもたぶんあった。
それに、父親にあった直後で、少し自棄になっていたのかもしれない。自己肯定感と、男性への期待値がひどく下がってしまって、男の人からされることのハードルが落ち切っていたのかもしれない。
「マキちゃん」
肩を抱かれた。
「行きたいところがあるんだ。行こう。当然、その分の金は出すよ」
だめだ、帰ろう。これは、私が決めた範囲を超えたおつき合いを求められている。
でも同時に、この男の人がその気になれば、私なんて今すぐどうにでもできるんだな、と思った。
そんなことをしたら警察に捕まるとか、法を犯して罪に服することになるとか、それらはそれらとして、やろうと思えばできてしまえる。
なんだか、急にばかばかしくなった。
私はなんのために、パパ活の範囲なんて決めたんだろう。
親からも大事に思われず、自分だって自分を大切に思えないのに、なにを守ろうとしているんだろう。
両親が離婚した時のことを思い出した。
まだ父親がなにをしたのかを知らなかった私は、お母さんに、
「なにがあったか知らないけど、離婚しなくてもいいじゃない。私、お父さんとお母さんが別れるなんて嫌だよ」
と言った。
子供がそう訴えれば、親というのは聞き入れてくれるものだと漠然と思っていた。
でもお母さんは、「ん」と言ったきり、粛々と離婚の手続きを進めた。
その時、なんだ、子供のお願いなんてそんなものなんだ、親にとって私の優先順位なんて大して高いわけじゃないんだ、と思い知らされたのを覚えている。
もちろん、今なら、お母さんが私たちを守るために断固とした決意をしたのだと分かる。
でも、あの時の無力感と敗北感は、忘れようとしても忘れられなかった。
私の「心からのお願い」は、親からも顧みられることはないんだと、一度骨身に染みてしまった。
そんなに軽い私という存在が、こんなに大きくて力強い男の人から、自分の体を守る意味なんてあるのかな。
しかもこの人は、その対価だってくれるんだろうに。
起きていることはヤマダさんの時と大差ないのに、あの時ほど心が強く保てない。
父親と会っていたわずか一時間ほどで、私は今日一日分の気力を使い切ってしまっていたのかもしれない。
そういう作用を持つ人間というのがいることは、まだ十数年しか生きていない私でも知っていた。自分の父親がまさにそう言う人間なんだということも。
でも。
いいのか、と言われれば、よくはない。
鉄子の顔が頭に浮かんだ。
そうだ。その気持ちを信じないと。私は、そんなことはしたくないんだから。
空は明るい。人通りもある。私に有利な要素はいくつもあるんだ。グレーな場所にいるからこそ、自分で自分を手放さないようにしないといけない。
「あはは、カズキさん、だめですよ。そういうことは、そういうのオーケーですって子とじゃないと」
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