リストカット伝染圧

クナリ

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第四章 感染

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 いつもの学校帰りと同じくらいの時間に家に着くと、まず部屋着に着替えて、制服にアイロンをかけた。まだ少し外は明るい。
 お母さんは今日は残業でまだ帰っておらず、さなみは部屋にいるはずだけど、夕食の前にはトイレくらいでしか出てこない。
 部屋に戻り、もうすぐついに文化祭か、と制服をハンガーにかけながら思う。
 だんだんと日が暮れていく。次第に昨日の感触がよみがえってきて、胸がざわついた。
 不安が胸に立ち込めてきた。今日は、できるだけ一人で乗り切りたい。そうすれば明日からはほぼ惰性でいけるはずだ、とは鉄子の弁。

 本当かなあ、昨夜はあんなふうだったのに。でも、一番の事情通・・・が言うんだから、なんとかなるんだろう、たぶん。
 それに鉄子が私の家に泊まっても、直接触れられない以上は、羽交い絞めにしたりとかの、あまり思い切ったこともできない。人と接触しないように過度に気をつけながら行動する鉄子を見て、お母さんやさなみに不審がられるだけって気もする。
 下手に鉄子が私の家族に接触して伝染が起きれば、それこそ大混乱に陥りそうだし、特に、リストカットの経験があるさなみには決して鉄子に触れさせられない。昨夜みたいな思いは絶対にさせたくない。

 ――とりあえず、スマホはすぐに私に電話できるように準備しておくんだ。発作がきても、助けが来ると思うだけでずいぶん違うから。

 鉄子にそう言われたので、通話ボタン一つでいつでも発信ができるように用意はしてある。
 日が沈んで夜になり、お母さんが帰ってきた。
 背筋を駆け上る不快感がいよいよ強まってきて、左手首がうずき出す。
 でも、昨夜の強烈な症状とは比べ物にならないくらい軽い。意識を集中していれば、一晩くらい耐えられそうだった。

 三人の夕食を済ませて、部屋に戻り、刃物をすべて――といってもカッターナイフとハサミくらい――こっそりと一階の奥の収納に隠す。
 あとは跡が残らないようにタオルの上から手錠をして、片一方の輪をベッドの脚にでもはめて、大人しくしていればいい。
 鉄子には、何度かメッセージアプリで無事を伝えておいた。

<まだ今のところ平気そう>
<そうか。なにかあれば電話な>

 そんなそっけないやり取りが何回か繰り返された。

 部屋には、気持ちが落ち着くように、サーモマグに温かいミルクティを入れて持ち込んである。
 普段めったに焚かないアロマオイルなんてものも使って、部屋にはリラックス効果があるらしい花の香りがたゆたっていた。

 夜が更けてくると、やっぱり症状は少し強まった。でも、今日のそれはインフルエンザの時と同じか、それより少し軽いくらいの不調。

 しばらくじっと耐え続けて、ふと枕の横に置いたスマートフォンを見ると、時刻は二十二時を回っていた。
 さなみはもう明日の朝まで部屋の中だし、お母さんは朝が早いのでもう寝ている。
 私はいつもならもう少し起きているけど、今日はこの辺で無理にでも寝てしまおう。
 明日は金曜日、それを乗り切れば土日だ。今と同じように安静にしていれば、問題なく乗り切れるはず。

 そうだ、と思いついてスマートフォンを手に取る。
 なにごとも起きなかったことを、一応鉄子に伝えておこうか。
 ずっとスタンバイ状態だった通話ボタンを押すと、コール音が二度鳴る前に、鉄子が出た。

「もしもし。どうした、まずいか?」
「ううん、逆。ちょっとだるいくらい。もう寝るね」

「眠れそうか?」
「このくらいなら、いけそう」

「そうか。手錠は?」
「してある。ハンドタオルの上から、ばっちり」

 話の途中で、窓の外から救急車のサイレンが響いてきた。
 このすぐ近くなのか、音はどんどん大きくなる。

「夜中に変調があれば、何時でもいいから言えよ。今日みたいに遠慮するなよな」
「分かった、ありが……」

 あれ、と思った。
 電話の向こうからもサイレンが聞こえる。
 変な偶然だな、と思っていたけど、もしかして、これは。

「……鉄子」
「なんだよ?」

「もしかして今、うちの近くにいる?」
「……………………………いいや」

 これは、いる。
 確かに鉄子には、私と家の電話番号だけじゃなく、住所も教えてはあったけど。

「なんで? 遠いでしょ? え、今から帰るの? 真夜中になっちゃうよ」
「だって、それは……私が家で電話もらっても、ここまで一時間やそこらじゃ来られないし、どうせ今夜は起きてる気だったから、いいんだよ」

「え、待って待って行くから。そこどこ? えっと手錠の鍵、鍵」
「来なくていい来なくていい。そのまま寝てろ。ああ、しまったな」

 私は手錠を外すと、パジャマの上に秋物のコートを羽織って、外へ出た。
 見慣れた真っ黒い――それなのに夜の闇の中でもなぜかそれと分かる――髪が、すぐそこの角に見えた。

「鉄子、今から一人で帰るのは絶対反対」
「そうか? 変質者が出ても、私に触れさえすれば返り討ちにできるぞ」

「そういう問題じゃない。ね、うちに泊まりなよ」
「いきなりか? ご迷惑だろう」

 数時間前まで、今夜は一人で乗り切ろうと思っていたけど、こうなれば話は別だ。

「家族はみんなもう寝てるから、静かに入ればばれないよ」
「しかも内緒でか……。いや、でもそうだな。優先順位は、リツの安全だ。傍で見ていられるなら、そのほうがいい。今日言った通り、命は一個しかないんだからな。できることはやろう」

 鉄子と、小走りでコンビニへ行って、歯ブラシやこまごましたお泊りセットを買ってきた。
 そして息をひそめて、鉄子は靴を持って私の部屋へ行き、ふうと息をつく。

「リツ、本当に昨日よりだいぶいいみたいだな」
「うん。いやあ、なんだかこういうの楽しいね」

 こっそりと洗面所で歯を磨いたり、来客用の布団を引っ張り出すのが無理そうなので徹子には床に掛布団を敷いた上で寝ることにしてもらったり(ベッドを譲ろうとしたけどかたくなに断られた)と、他愛なくも変に緊張感のある時間を過ごした。
 少し冷えるので空調を効かせる。私は毛布を使い、、鉄子は暑がりだから平気だというのでタオルケットをかけてもらった。
 手錠をベッドの脚にはめ直して、電気を消す。ほんの少しカーテンから漏れる月明かりで、鉄子のシルエットだけが分かった。

「リツ」
「なに?」

「もしかして、修学旅行ってこんな感じか」

 予想もしなかった言葉に、吹き出しそうになった。

「ち、ちょっと違うけど、同じ種類の楽しさがあると思う。……実は、私もお父さんのことがあったから、修学旅行行ってないんだけどね」

 女子同士のお泊り会、それもこんなに小規模では修学旅行の代わりにはならないだろうけど、私にできることはしてあげたい。
 そういう思いはありつつも、コンビニへ行ったあたりくらいから私のほうが変に浮ついてしまって、にやにや笑いが止まらない。症状が軽く感じるのは、それもある気がする。

「そうか」
「うん。でも、高校では一緒に行けるかもしれないね。本当は、さなみも今呼んできたら結構楽しいかもだけど」

「姉妹、仲良いんだな」
「まあね。たまに、自分の分身みたいに思うことあるよ」

「私には分からない感覚だ」
「一人っ子なら、そうだろうね。ああでも、きょうだいでも人によって全然変わるからなあ」

「いや。そういうのとは少し違う」
「うん?」

ベッドの上で体の角度を変えて、鉄子を見た。
 暗闇に目が慣れてきて、ぼんやりと顔が見える。

「私にとっては、リツだけが特別なんだ。妹さんや親御さんにはそれなりに気づかいはするつもりだが、それはリツの家族だからで、感覚的には、……赤の他人と大差ない」

 体を起こす。
 鉄子はこっちを見ず、天井を見上げていた。

「自分以外の人間の価値というのが、私にはよく分からない。一応他人を尊重はするさ、適当に人を敬える人間でありたいと思ってはいるから。でも私は、人の不幸に自分の胸を痛めるようなできた人間ではないんだ。たとえば目の前で、……申し訳ないが、たとえばだぞ、リツの妹さんが交通事故に遭ったとしても」
「いいよ、続けて」

「……私は、大変だとは思うし、助けようともするだろう。でも心の中は凪いでいると思う。そういう構造なんだ、私の回路は。仮に私の同級生が目の前で死んでも、おそらく、知らない犬が道端で死んだのと同じくらいにしか感じない。理性では大変なことが起きたと判断するが、もう手遅れだしなって感じで、感情は大して動かない。……そういうやつなんだよ、ここにいるこいつは」
「……私は?」

 鉄子が、くいとこっちを向いた。目が合う。

「私が死んだらどう思う?」

 鉄子は何秒か考えてから、ぼそりと答えた。

「……そんなことは、言うな。リツは特別だと言っただろう」
「はあい。でも、本当に人を人とも思ってないような人なら、自殺の伝染をそこまで怖がらないと思うよ」

「……今、笑ってるだろう」
「どうでしょう」

「私はたぶん、大切にできる人の数が凄く限られている人間なんだと思う。冷たいんだよ、自覚している。……でも、ゼロではなかったよ」

 それから、二人でお休みを言い合って、眠った。
 体調は感染のせいですぐれなかったけど引き続き気分が浮かれていて、私は夢も見ずにぐっすりと眠りに落ちた。
 翌朝、目覚ましでお母さんより早く起きると、手錠を外して、黒い針金の束を頭から生やしたようなぼさぼさの髪の鉄子を玄関まで送る。

「ごめんね、本当は頭直させてあげたり、朝ご飯出したいんだけど」
「全然問題ない。私は一度家に帰って、学校は遅刻していくよ。じゃ、また後でな」

 小声でやりとりしてから、まだ暗い空の下、鉄子が玄関を出ていく。
 ドアが閉まる寸前、鉄子が振り返って

「よかった、昨夜も無事で。きっともう大丈夫だ。後は完全に治るまで、希死念慮を抱かないようにな。ぶり返しかねないから。でもそれだけ気をつけていれば、いいだろう」

 と言って微笑んだ。
 いつも吊り目気味の鉄子の目元が、ふにゃっと垂れて見える。
 ドアが閉まる。
 そのドアを私が明けた。
 背中を向けていた鉄子が、びくりとして振り返る。

「なんだ、どうし……」
「鉄子。私たち、やったよね」

 目を見開いた鉄子は、今度こそ完全に破顔した。

「ああ。やったな」


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