茶と菓子を愛する犬神と信州のあやかし軍師

クナリ

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「赫の王」

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 薄闇の中で唸り声を低く漏らし続ける、強力な妖怪がいた。
 その熊の怪異の名は、恒河沙ごうがしゃといった。
 今は、『赫の王』という二つ名で呼ばれている。

 怪異の中にあって、王というのは、強力な存在であることを表す呼び名に過ぎない。臣下などいなくてもそう呼ぶ者がいれば誰でも王となれるし、自称するのも自由である。
 恒河沙がほかの熊の怪異と比べてまず際立つ特徴といえば、なによりも口が大きい。
 恒河沙の身の丈はゆうに三メートルを超えるが、並の人間が横に並べば、その巨大な顎の印象しか頭に残らないのではないかと思われた。
 それに比して、前足――両腕は、並程度の大きさだった。体つきも、満々と肥えているようなことはなく、どちらかといえば痩せて見える。
 一方で、足は太い。鈍重そうでいて、獲物がいればひとっ跳びに跳んで一息に捕まえてしまうだけの力がある。なのに、腹だけが体躯に比してやや細い。

 怪異も、ものを食えば腹が膨れる。だがそれで肥満することはない。体が膨れるのは、満腹感を覚えることで、体躯に影響が出るからである。逆に言うと、どんなに餌を食らっても、怪異本人が飢えている限り、身は痩せる。
 怪異も血を流す。少なくとも、霊感を持つ人間の目にはそう見える。だが、人間のように血管を流れる血液が栄養を運んでいるわけではないし、首を絞めれば苦しがるものの、呼吸をしているわけでもない。
ただ、怪異の命脈たる妖気の流れや生産に重要な器官は、人間や動物の急所とほぼ同じ個所にあるのが、怪異の常だった。ゆえに、たとえば首を断たれれば、ほとんどの怪異が死ぬ。やがて流転した妖気が、再び新たな怪異として生を受けるのもまた、怪異の常だが。
 怪異と人は似ている。いや、人と似ている怪異がいる。怪異の群れを束ねる存在というのは、たいてい、人と似た怪異だった。
 裏世界の山中。『赫の王』の軍にあって、恒河沙の片腕として共に戦ってきた熊の怪異である阿僧祇あそうぎは、思案していた。

(信州を攻めているこの戦、まず我々が勝つ。兵の質も数も我らが有利だ。だが、その後は……?)

 そこへ、声をかけてきたのは、別の熊だった。名をさいという。

「どうした、兄者?」

 周りには、恒河沙の身を守る旗本がひしめき、その少し向こうには恒河沙本人がいる。
 以前は、恒河沙は豪放磊落な、兄貴肌の、きっぷのいい妖怪だった。
 しかし今は陣中にあって誰とも口をきくことなく、一人外れて、ただ飢えのままに唸っている。

「おう、載。ここではなんだ、少し離れよう」

 恒河沙の軍は切風のそれと違い、誰も人間の姿をとらない。二頭の熊が、のしのしと木立の間に分け入っていった。
 その時、陣の端のほうで、なにやら小競り合いのような音が聞こえた。調子に乗りやすい雑兵が跳ね返っておるのだろうと、阿僧祇は構わずに捨ておくことにした。

「思案しておったのはな、恒河沙あにのことよ」
「ああ、……様子がどんどんおかしくなっているな」

 恒河沙を長兄として、この阿僧祇と載は、義兄弟の契りを結んでいた。

「おう。恒河沙兄が『赫の王』と呼ばれたのは、そのとてつもない力で並みいる敵をみな屠り、その返り血にまみれていたからだ。なんとしても一族の縄張りを守る姿に、畏怖と尊敬を込めてそう言われた。だが……」
「ああ。言葉をだんだん話さなくなって、日がななにかを食ってばかりだ。その様子に、旗本の中でも首をかしげるやつがちらほら出ているよ」

「信州攻めは正しい。束ねるものが久しくなく、中空地帯と化していた信州をとるのに、機が熟した。しかしその後のことについて評定しようにも、恒河沙兄があれではな。信州を本拠地にして移り住むのか、あくまで我らの縄張りとして、誰かに統治を任せるのか」
「そりゃ、おいそれと本拠地は変えられねえだろうから、阿僧祇兄が信州を治めるんだろ。おれはずっとそう思ってきたぜ」

 阿僧祇も、半ばそのつもりでいた。
 あやかしの棲む裏世界は、群雄割拠の様相を呈してきていた。
 ただ信州だけが、頭領不在のために、外の状況に無頓着でいたのである。
 しかし、争いを繰り返し、命のやり取りを重ねるうちに、妖怪たちは荒み、治安はかつてなく低下していた。その影響で、表に漏れた妖怪が人間を襲えば、これは人間の祓い師が出張って来る。よほど強力な妖怪勢力でなければ、人間まで敵に回すことは避けたがる。だが『赫の王』の軍は、そうした統制が取りにくくなってきていた。
 阿僧祇がここのところ頭を悩ませているのは、まさに、恒河沙の変調による信頼関係と統制能力の低下だった。

「載。もとより、我らの軍は力に秀でた者が崇められる武闘派の軍だ。それが統制を欠いて暴れるものだから、なおさら、暴れたがりの秩序知らずが参画してくる。なにも考えず、ただ暴れたい、衝動のままにあやかしも人も食らいたい、そんな連中がだ」
「でも、そいつらを今押さえつけるのは得策じゃねえぜ。士気が下がっちまう」

 そう、それが問題だった。
 かといって信州を制圧した後、手柄を立てた者が秩序知らずの暴れん坊であれば、そいつを称えざるを得ない。それでその後、統制など可能なのか? 阿僧祇は、それを考えると今から寒気がする。
 とはいえ、あやかしというのは、人間などと比べて、著しく本能的であり、衝動的であるほうが当たり前でもあった。阿僧祇は、いっそ自分もなんの心配も配慮もせずに、ただ熊らしく暴れてしまいたい思いに駆られた。
それをとどめているのは、勇猛だが物わかりのいい、目の前の弟分だった。おれの代わりに、こいつに苦労させることになるのはごめんだ。

「……ところで、載。信州攻略は、当初思っていたほどたやすくはないかもしれんぞ」
「そうかあ? 熊の怪異はあまりおらんのだろ? おれらの敵じゃないんじゃねえか」

「それが、赤炎郎が討たれたらしい」

 載の顔色が変わった。

「なんだと……? 六士ろくしの一角がやられたってのか?」
「そうだ。むろん恒河沙兄は我ら六士などよりはるかに強いが、用心をして……」

「おれがどうした?」

 野太い声に、それを聞き慣れたはずの阿僧祇と載の背筋にさえ、冷たいものが走る。
 二人の背後に、長兄が立っていた。
 その体が、あやかしの返り血で染まっている。

 阿僧祇が、震えそうな声で訊いた。

「どうしたのだ、恒河沙兄、その血は」
「尾張から、この信州まで我らを追ってきた反乱兵がいてな。おれ一人で、まあさらりと撫でて返り討ちにしてやった」

 それでは、さっきの騒ぎはそれか。阿僧祇はそう納得はしたが、その直前まで陣の奥に引っ込んでいたはずの恒河沙が、その騒動を反乱分子によるものと察知してすぐさま駆けつけ、そしておそらくはあっという間に皆殺しにして鎮圧したのだと思うと、つい寒気を感じた。

「阿僧祇、載。おれが狂ったと思っているのか?」
「いや、そのような」

「構わん。この『赫の王』の軍は、軍師無用の軍略いらずよ。全てなぎ倒し、ひたすらに食らい尽くす。それだけだ。そうら、食え」

 そう言って恒河沙は、手に持っていたなにかの塊を阿僧祇たちに投げて寄越した。
 原形をとどめていないのでそれがもとはなんだったのかは分からないが、どうやら鹿か猪のようだった。
 よく見ると、恒河沙の口元には、すでにむさぼったらしい妖怪の残滓がこびりついている。
 阿僧祇の目に、その赤色がひどく鮮やかに映った。この王は常に飢えている。その牙が敵に向かっているうちはいいが、気がついた時には、己の喉首に嚙みつかれているのではないか。そんな気さえしてくる。
 恒河沙が、その赤い口を開いて言った。

「信州はとる。この空白地帯、捨ておくわけにはいかん。無数の峠があり、守るに易く、攻めるにかたい。峰はそびえ、水が讃えられ、光と闇が常に入り混じり、州がそのままあやかしの巨城のごとくだ。奪うには、今を置いてほかにはない」

 恒河沙の言葉は整然としていた。 
 それを聞いて、阿僧祇は、気持ちの揺らいでいた己を戒めた。
 思いのままに振る舞い、望むがままに在る。それは妖怪の存在の本義でもある。
 恒河沙は、それを肯定してくれる。深慮で思いやりが深いことよりも、時にそのほうが妖怪の王の魅力として勝ることは疑いがない。

 この数十年を経て、今、人の世の平穏が危ぶまれていると聞く。
 その気の乱れは妖怪にも作用する。そして妖怪の乱れは、人の世にも作用する。
 恒河沙が不安定になっているのは確かだ。だが、まだまだこれから妖怪は狂いだす。
 その裏世界を牛耳るのは、恒河沙と共にこの常闇の世を駆ける『赫の王』の軍にほかならない。
 阿僧祇は、深く息を吐いた。
 載が、満足げにそれを見ていた。
 恒河沙の目だけが、暗い夜の帳の向こうに、とてつもなく巨大な恐怖の影があるように思え、今はまだ茫漠としたそれを見据えていた。

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