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第一章
その二 二
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何度も何度も手紙を読み返した。枕行灯の明かりの頼りなさがもどかしく、光量を調節する板を手荒く外して裸火に照らす時にうっかり燃やしそうになったほど、手紙の内容は衝撃的なものだった。
激しい動悸に思わず胸を押さえる。
昼間、日を決められてやってくる出入りの商人の手を介してもたらされた琢馬の手紙は、忍んで会いに行きたい、と大胆にも書いていた。
こんなことは初めてだった。なぜ急にこんなことを言い出したのか、なによりも混乱と困惑が先立ち、由貴は暗い寝所を思わずぐるぐる歩き回った。
年に数回あるかないかの逢瀬をなによりの楽しみに、そう頻繁には交わせない手紙は暗記するまで読んで、日々の支えに。
予想以上の奥向きの規則の厳しさを知った時、そう決めてそれをずっと守り続けてきたのに、今日届いた手紙はなんとしても会いに行く、という固い決意に満ちて、行く日時までが記されている。
琢馬はどういうつもりなのだろう。今は真冬で雪に埋もれている。忍んで行く、と言うのは簡単だが、あまりに無謀すぎる。見つかったらただでは済まされない。御家を揺るがすような騒ぎになるのは間違いない。
恥知らず恩知らず、不忠者の破廉恥漢と、これ以上ないほどの罵詈雑言を浴びせられ、家は取り潰されて一家は城下を追われるだろう。当主である琢馬自身は切腹も許されずに斬首、という最悪の結果もあり得ない話ではない。
駄目だ駄目だ駄目だ、と天を仰いで由貴はつぶやいた。
そんな危険な目にはあわせられない。一時の至福の誘惑に負けて、十年以上も耐えてきた年月を、ふいにできない。そんな決意、自分はうれしくもなんともない。
と、物音がした気がした。ますます動悸は激しくなり、胸が痛んだ。耳を澄ます。足音のようだ。近づいてくる。
由貴は数枚重ねて敷かれている布団の間の深い所に手早く琢馬の手紙を隠し、行灯をなんとか元通りにして布団に潜りこんだ。
襖が開いた。こんな夜更けに誰かと、由貴は緊張して布団の中で身を硬くした。どう動いて床の間の刀を手にするかを、何度も頭に思い描く。
「……由貴」
貴之の声だった。声を上げそうになるのをなんとかこらえたが、びくりと大きく身体が震えてしまった。
「起きていたのか。驚かせてしまったようだな」
極力ひそめた声とともに、貴之は注意深く襖を閉めた。由貴は呆然と横になったまま、白い寝巻き姿の貴之を見つめてしまう。貴之は素足で、寝巻きの上になにか羽織ってさえいなかった。
「夜這いに来た」
貴之はくすくす笑って、由貴の隣にするりと身を横たえた。その身体はすっかり冷えきって、少し震えている。
それも当然で、貴之は今夜は中奥の自分の寝所で床についたはずだった。どうやって不寝の番などもいるのをかいくぐってきたものか、中奥からここまで来るには距離がある。いくつか渡り廊下も歩いてこなければならない。
ちょっと気が向いたからといって、当主の身でこんなことは普通しないし、するべきではないことだった。さすがに貴之もいくら格式ばったことが嫌いとはいえ、こんなことは今までしたことがない。
「いや、さすがに寒かった。足が凍るかと思った」
貴之の笑顔を、由貴はただただぼんやり見ていることしかできない。
「すまぬ、そんなに驚いたか」
貴之は右手を由貴の胸に当てた。激しい鼓動を確かめ、唇だけで笑う。
寝巻き越しにもその手の冷たさが伝わってくる。由貴は半分反射的に、繊細な貴之の手を両手で包んだ。
「……殿、なぜ……」
さあどうしてかな、と楽しげに貴之はささやき、自分の手を包んでいる由貴の手に、左手を重ねた。そしてそっと、冷たい唇を唇に重ねる。舌までが冷えきっていて、かき回された由貴の口中も冷たくなった。氷を食べているかのようだった。
ぐっと身体を寄せられ、より深くなる口づけに応えながら、まさか、という思いに由貴は気が遠くなりそうだった。まさか殿は琢馬からの手紙を読んだのか、と混乱が残る頭で一瞬思ったが、そんなことはありえない。
ではなぜ、と思った時、細めた瞳で由貴を見つめながら、貴之は言った。
「俺から離れるな。時々、訳もなく不安になる」
由貴は無言で貴之の肩に顔を埋めた。やはり殿はご存じなのだ、と絶望に似た思いを噛みしめながら。
「笑ってくれ。この年にもなって、お前が消える夢を見ていても立ってもいられなくなった」
こんなにも想ってくれる貴之に、自分はなにもできない。なにも言えない。たった一言でも謝りの言葉を口にすれば、それは貴之の懸念が真実だと認めることになる。
由貴は無言のまま、貴之の冷えた背中や肩や腕をさすった。泣きそうになるのをぐっと歯を食いしばってこらえ、きつく瞳を閉じて一途に貴之の身体をさすってあたためる。
この、疑問も不安もはさむ余地がないほどの大きく深い愛情に包まれ、それを生きがいに生きていけたら、人としてこれ以上の幸せはないだろう。現に紀美は、いきいきと幸せそうに輝いている。
だが自分は、ただ貴之を失望させるばかりだ。優しい笑顔のその下で、貴之はいったいなにを思っているのか。由貴は怖かった。今夜貴之が来たのも偶然ではなく、なにもかも見通されているような気がした。
「もうよい、今宵はこのまま寝よう」
「では殿、それがしのでよろしければ枕を……」
貴之は自分が使っている枕を差し出した由貴の頭の下に、さっと左腕を伸ばした。
「腕がしびれますから」
由貴の言葉に、貴之はなにも言わずただ口の端を上げてみせた。なにを今さら、とでも言いたげに、由貴が枕から浮かせていた頭を自分の腕に押しつけるように置く。もっと抱き寄せる。
由貴はまた貴之の肩に顔を埋め、瞳を閉じた。あくまで柔らかに、いとおしげに注がれる貴之の視線から逃れるように。
苦しい。貴之の腕はあくまでも優しく、背中に回っているだけなのに。
その優しさはまるで雹のように乱暴に残酷に、心に降り注ぐ。雹に変えてしまっているのは自分で、苦しいのも痛いのも、自分だけではない。
こんな夜更けに、同じ城内とはいえ暗く寒く遠い道のりをたどりつつ、貴之はなにを思っただろう。それを思うと、そんな行動を取らせてしまった自分が、ただただ申し訳なかった。
「由貴……」
ふいに貴之が、低く名を呼んだ。
「どうなさいました」
ぎゅっと抱きしめられる。躊躇するような、間があった。
もういっそ終わりにしたい。これ以上、傷つけたくない。傷つきたくない。苦しい。殺して欲しい。
そんな衝動が、蛇のように静かに身体の奥から湧き上がる。
「……寒いな……」
だが貴之は結局そうつぶやいたきりなにも言わず、しっかり由貴を抱きしめたまま、やがて眠りに落ちた。
どうして、殺すなり御役御免にしてくれないのか。
どうして、こんな自分を許せるのか。
どうして、こんなに寝顔が穏やかなのか。
寒いな、と言う貴之の声は、静かに凍えきっていたのに。
貴之のぬくもりにくるまれ、寝つけないままに由貴は貴之の寝顔を見つめ続けた。
激しい動悸に思わず胸を押さえる。
昼間、日を決められてやってくる出入りの商人の手を介してもたらされた琢馬の手紙は、忍んで会いに行きたい、と大胆にも書いていた。
こんなことは初めてだった。なぜ急にこんなことを言い出したのか、なによりも混乱と困惑が先立ち、由貴は暗い寝所を思わずぐるぐる歩き回った。
年に数回あるかないかの逢瀬をなによりの楽しみに、そう頻繁には交わせない手紙は暗記するまで読んで、日々の支えに。
予想以上の奥向きの規則の厳しさを知った時、そう決めてそれをずっと守り続けてきたのに、今日届いた手紙はなんとしても会いに行く、という固い決意に満ちて、行く日時までが記されている。
琢馬はどういうつもりなのだろう。今は真冬で雪に埋もれている。忍んで行く、と言うのは簡単だが、あまりに無謀すぎる。見つかったらただでは済まされない。御家を揺るがすような騒ぎになるのは間違いない。
恥知らず恩知らず、不忠者の破廉恥漢と、これ以上ないほどの罵詈雑言を浴びせられ、家は取り潰されて一家は城下を追われるだろう。当主である琢馬自身は切腹も許されずに斬首、という最悪の結果もあり得ない話ではない。
駄目だ駄目だ駄目だ、と天を仰いで由貴はつぶやいた。
そんな危険な目にはあわせられない。一時の至福の誘惑に負けて、十年以上も耐えてきた年月を、ふいにできない。そんな決意、自分はうれしくもなんともない。
と、物音がした気がした。ますます動悸は激しくなり、胸が痛んだ。耳を澄ます。足音のようだ。近づいてくる。
由貴は数枚重ねて敷かれている布団の間の深い所に手早く琢馬の手紙を隠し、行灯をなんとか元通りにして布団に潜りこんだ。
襖が開いた。こんな夜更けに誰かと、由貴は緊張して布団の中で身を硬くした。どう動いて床の間の刀を手にするかを、何度も頭に思い描く。
「……由貴」
貴之の声だった。声を上げそうになるのをなんとかこらえたが、びくりと大きく身体が震えてしまった。
「起きていたのか。驚かせてしまったようだな」
極力ひそめた声とともに、貴之は注意深く襖を閉めた。由貴は呆然と横になったまま、白い寝巻き姿の貴之を見つめてしまう。貴之は素足で、寝巻きの上になにか羽織ってさえいなかった。
「夜這いに来た」
貴之はくすくす笑って、由貴の隣にするりと身を横たえた。その身体はすっかり冷えきって、少し震えている。
それも当然で、貴之は今夜は中奥の自分の寝所で床についたはずだった。どうやって不寝の番などもいるのをかいくぐってきたものか、中奥からここまで来るには距離がある。いくつか渡り廊下も歩いてこなければならない。
ちょっと気が向いたからといって、当主の身でこんなことは普通しないし、するべきではないことだった。さすがに貴之もいくら格式ばったことが嫌いとはいえ、こんなことは今までしたことがない。
「いや、さすがに寒かった。足が凍るかと思った」
貴之の笑顔を、由貴はただただぼんやり見ていることしかできない。
「すまぬ、そんなに驚いたか」
貴之は右手を由貴の胸に当てた。激しい鼓動を確かめ、唇だけで笑う。
寝巻き越しにもその手の冷たさが伝わってくる。由貴は半分反射的に、繊細な貴之の手を両手で包んだ。
「……殿、なぜ……」
さあどうしてかな、と楽しげに貴之はささやき、自分の手を包んでいる由貴の手に、左手を重ねた。そしてそっと、冷たい唇を唇に重ねる。舌までが冷えきっていて、かき回された由貴の口中も冷たくなった。氷を食べているかのようだった。
ぐっと身体を寄せられ、より深くなる口づけに応えながら、まさか、という思いに由貴は気が遠くなりそうだった。まさか殿は琢馬からの手紙を読んだのか、と混乱が残る頭で一瞬思ったが、そんなことはありえない。
ではなぜ、と思った時、細めた瞳で由貴を見つめながら、貴之は言った。
「俺から離れるな。時々、訳もなく不安になる」
由貴は無言で貴之の肩に顔を埋めた。やはり殿はご存じなのだ、と絶望に似た思いを噛みしめながら。
「笑ってくれ。この年にもなって、お前が消える夢を見ていても立ってもいられなくなった」
こんなにも想ってくれる貴之に、自分はなにもできない。なにも言えない。たった一言でも謝りの言葉を口にすれば、それは貴之の懸念が真実だと認めることになる。
由貴は無言のまま、貴之の冷えた背中や肩や腕をさすった。泣きそうになるのをぐっと歯を食いしばってこらえ、きつく瞳を閉じて一途に貴之の身体をさすってあたためる。
この、疑問も不安もはさむ余地がないほどの大きく深い愛情に包まれ、それを生きがいに生きていけたら、人としてこれ以上の幸せはないだろう。現に紀美は、いきいきと幸せそうに輝いている。
だが自分は、ただ貴之を失望させるばかりだ。優しい笑顔のその下で、貴之はいったいなにを思っているのか。由貴は怖かった。今夜貴之が来たのも偶然ではなく、なにもかも見通されているような気がした。
「もうよい、今宵はこのまま寝よう」
「では殿、それがしのでよろしければ枕を……」
貴之は自分が使っている枕を差し出した由貴の頭の下に、さっと左腕を伸ばした。
「腕がしびれますから」
由貴の言葉に、貴之はなにも言わずただ口の端を上げてみせた。なにを今さら、とでも言いたげに、由貴が枕から浮かせていた頭を自分の腕に押しつけるように置く。もっと抱き寄せる。
由貴はまた貴之の肩に顔を埋め、瞳を閉じた。あくまで柔らかに、いとおしげに注がれる貴之の視線から逃れるように。
苦しい。貴之の腕はあくまでも優しく、背中に回っているだけなのに。
その優しさはまるで雹のように乱暴に残酷に、心に降り注ぐ。雹に変えてしまっているのは自分で、苦しいのも痛いのも、自分だけではない。
こんな夜更けに、同じ城内とはいえ暗く寒く遠い道のりをたどりつつ、貴之はなにを思っただろう。それを思うと、そんな行動を取らせてしまった自分が、ただただ申し訳なかった。
「由貴……」
ふいに貴之が、低く名を呼んだ。
「どうなさいました」
ぎゅっと抱きしめられる。躊躇するような、間があった。
もういっそ終わりにしたい。これ以上、傷つけたくない。傷つきたくない。苦しい。殺して欲しい。
そんな衝動が、蛇のように静かに身体の奥から湧き上がる。
「……寒いな……」
だが貴之は結局そうつぶやいたきりなにも言わず、しっかり由貴を抱きしめたまま、やがて眠りに落ちた。
どうして、殺すなり御役御免にしてくれないのか。
どうして、こんな自分を許せるのか。
どうして、こんなに寝顔が穏やかなのか。
寒いな、と言う貴之の声は、静かに凍えきっていたのに。
貴之のぬくもりにくるまれ、寝つけないままに由貴は貴之の寝顔を見つめ続けた。
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