やがて来る春に

天渡清華

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第二章

その一

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 雪は降る。地上にあるすべてのものを白で埋め尽くしてもまだ足りないと言いたげに、静寂がひたすらに降りしきる。
 進藤源次郎が大井家の奥向きに御伽衆として入って、一月が過ぎた。主である貴之とは、まだ顔すらあわせていない。
 新しい環境の物珍しさや大名家らしい豊かな生活に心を奪われていたのも、ほんの少しの間だけだった。人の出入りも多い、自由な家風の学者の家に育った源次郎には、奥向きの暮らしはさみしく窮屈で仕方なかった。
 源次郎はぼんやりと、かたわらに置かれた漆塗りの火鉢のなめらかな肌をなでる。
 調度類はつつましいが気品があり、大小の火鉢を対として同じ意匠がほどこされていたりと、さすが大名家らしく凝ったものだった。与えられた衣装は反物をわざわざ江戸や京から取り寄せたり、城下の職人に生地を織るところから作らせたもので、国許の奥向きを預かる側室の紀美が、直々に見立てたという。
 紀美には、この一月の間に顔見せも含め五度も謁した。優しい言葉やさまざまな心遣いは非常にありがたかったが、源次郎には裏が見え始めていた。
 仕えるべき主に、自分は望まれていない。それも仕えるにあたっての挨拶すら許されないという、徹底した嫌われ方だった。紀美はそれを取り繕おうとして、必死に気を遣ってくれているのだ、と。
 大井家の家老を通して父子ともに召し抱えたいという話があった時は、純粋に喜んだ。大名家の当主の側近く仕えられることに、かなり舞い上がった。
 源次郎は、御伽衆が奥向きの職だと聞いた時、藩主一家の話し相手になったりなにか芸をして楽しませたり、そういったことをするのだと思っていた。自分にはそのぐらいしかとりえがないと思っていたし、実際そういうことを召し抱える理由として言われたからだ。
 明るく、話が達者で物真似も得意だというので、源次郎は地元ではそれなりに有名人だった。進藤家は父君の学問で人が集まっているのやら、ご子息に会いに集まるものやら分からない、と言われるほどだった。人の出入りが激しければ、当然評判も広がりやすい。
 それで噂が隣の大井家の耳にも入ったのだろうと思っていたが、実際にはそんなのんきなものではなかった。大井家ではおおっぴらに男性を側室のように置いて、御伽衆などと呼んでいるのだ。
 小姓など身近な家臣を寵愛する話はよくあるが、そういう存在を正式な役職として設置し、奥向きに男だけが住む御殿まであるのは、諸国訪ね歩いても大井家以外にはないだろう。しかもそれは、大井家の家中ではなんの違和感もなく受け入れられている。薄給の者達には、御伽衆に取り立てられることを夢見る者さえいるという。
 大井家の当主である貴之は好色の暴君で、奥向きに五十人近い側室がいる、という噂を、父は御領内がよく治まっているのにそんなことはあるまい、と一蹴したが、それもかする程度とはいえ当たっていたことになる。
 今思えば、父の恒彦は御伽衆とはなにかを知っていたのではないか。しかし、舞い上がる息子になにも言えず、いつまでも部屋住みよりは仕官できた方がいい、と思ったのかも知れない。
 いったん仕えたからには、そう簡単にはここを出られない。もし自分が騒げば、父母にも迷惑がかかるかも知れない。
 それは恐怖に近い感情だった。だが源次郎はどうすることもできず、ただ鬱々と部屋にこもり、小姓の藤尾だけを話し相手に日々を過ごした。
 むしろ、なにもしないうちから貴之に嫌われているのは幸いかも知れない。だが、正式に大井家の家臣に取り立てられた身で、挨拶も許されず主に一瞥もされないのはつらい。複雑だった。
 源次郎は、もはやなにが自分をこんなにも落ちこませているのかすら分からなくなり、ただじっと薄暗い部屋で時が過ぎるのを待つばかりになった。夜はあまり眠れず、朝が来る度にため息をつく毎日だった。
 そんな時、貴之の寵愛が最も深いという大久保由貴から誘いがあり、昼餉をともにした。由貴は奥向きでは紀美に次ぐ扱いを受けているというが、それをまったく誇らずつつましく暮らしていた。
 あれから由貴とは二度会い、源次郎は由貴の人柄に親しみを覚え、寒中に焚き火を見つけたように思っていた。
 どこか陰のある秀でた容貌、低く耳あたりのいい美声。物腰はあくまで柔らかく、艶っぽささえ感じられた。これならばご寵愛を受けるのも当然か、と思ったものだが、由貴はその容姿に似あわず驚異的に不器用だった。
 そのせいもあり、由貴にまつわる面白い話や失敗談は、毎日のように藤尾に語らせても尽きることがなかった。
 穿き慣れているはずの袴の裾を踏んで転んだ、などは序の口だった。乗馬の際に馬がなにかに驚いて暴れ、由貴は馬上で見事な曲芸をしたあげくに馬を止めたが、それは曲芸などではなく、本人はただ必死に馬を止めようとしていただけだった、という、下手をすると生死に関わるような話もあった。
 と同時に、由貴がどれほど貴之に寵愛されているかを示す話もいろいろ聞かされた。
 由貴の名はもちろん、貴之から名前の一字を与えられたものだ。貴之の羽織の裏地と、由貴の寝巻がまったく同じ布地だった、と藤尾が自分の小姓だからこその発見を得意げに話した時には、源次郎は貴之の濃密な愛情が強烈に香り立つように感じて、思わずため息を飲みこんだ。
 愛する者との夜を、常にひそかに身につけていたい。同じ布の意味を、源次郎はそう受け取った。
 そんなふうに愛されるのは、御伽衆としては最上の幸せだろう。けれど源次郎には、その立場を素直にうらやみ、憧れる気にはなれなかった。
 御伽衆という存在への疑問。自分をここに呼んだ思惑への不審。この綿ごみのように少しずつ大きくなっていく思いは、貴之の目が自分に向けば消えるのだろうか。そんな簡単なものではないだろう。このままでは綿ごみは湿って、重く心にたまる一方だ。
 ふいに人の声を聞いた気がして、源次郎は我に返った。
「源次郎様、古畑様がお越しでございます。お通ししてよろしゅうござりますか」
 藤尾が次の間から襖越しに声をかけてきた。
「古畑様が……。お通ししてくれ」
 少し緊張した声を返す。
 古畑四郎。御伽衆御殿の暴れ馬、とささやかれているのをむしろ誇っているという、奔放な男だと源次郎は聞いていた。
「やあ、いきなりすまんな。顔見せ以来か。以後よしなにな」
 派手な音をたてて袴をさばき、ぱっと正座すると四郎はぱきぱきと無造作に挨拶した。
「こちらこそ、よろしくお引き回しのほどを」
 とまどいつつも、源次郎は丁寧に挨拶を返した。
「今日はちょっと貴殿と話がしたくてな」
 言うなり四郎は、救われたような顔でこたつに深く身体を入れた。
「ひどい顔だな、それでは殿もお渡りになられまい」
 あまりに不躾な言葉に、茶を出そうと部屋を去りかけていた藤尾が思わず振り返る。
 源次郎は言葉を失ったが、すぐに唇にこわばった笑みを浮かべた。
 知らないうちに貴之に遠目から品定めをされていて、それで嫌われたというのなら、いっそすっきりするというものだ。
「いやいや、他意はないのだ。そんなにくまを作って、疲れた顔をしていてはいかん。御伽衆となったからには、女のように肌の手入れもおこたらぬことだ。それには夜よく眠るに限るぞ」
 気まずい沈黙に、四郎はあわてて早口に言った。そう言うからには、四郎は日々気をつけているのか、肌のつやも血色もいい。
「そう申されましても……」
「殿のお渡りがないならないで、ここでは外出以外は好きにできる。鬱憤晴らしはいかようにもできよう。着道楽、食い道楽、いずれにしろ普通ならできぬ贅沢だ」
 確かにそれも一つの道か、と思ったが、源次郎はうなずいていいものか、困惑しながら四郎の言うのを聞いていた。なにしろ、まともに口をきくのは初めてなのだ。言動には気をつけなければならない。
「それぐらいは、許されていい。そうだろう」
 この方にはよほど鬱屈があるのだ、と源次郎は思った。同意を求める瞳が一瞬、幼子のようにかなしく源次郎を見据えたように見えた。
 由貴のように心から愛され、大切にされているならまだいいが、たまにしかお渡りがない他の者達はどうすればいいのだろう。女とは違う。立派な一個の男子たるものが、いつ来るかも分からない主君をただ待ち続けるのが仕事など、耐えられるものではない。奇妙この上なく、不自然すぎる。
「美しいおなごが近くにいながら、指一本触れるどころかめったに会えぬ。これほどつらいことはないではないか」
 四郎は楽しげに肩を揺らして笑った。屈託ない豪快な笑みに、源次郎も思い過ごしを苦笑するしかなかった。
「一度、それがしのところにも遊びに来てくれ。町をお目にかけよう」
 胸を張り、四郎は瞳を輝かせた。
「は? 町でござりますか?」
「おう、そうよ。江戸細工で一部屋の半分ほどの町を作ってある」
 江戸細工とは、雛道具にあるような、家財道具や建物などを本物そっくりにごくごく小さく作った物をいう。高さが三寸(約十センチ)しかないのに蒔絵が施され、引き出しはすべて開く箪笥など、かなり精巧な作りになっている。
「町には店があり、長屋もあれば芝居小屋や湯屋もある。道には屋台も出ている。四季折々に模様替えするのが楽しくてな、見ていて飽きないぞ」
 つまり四郎は、暇と金に任せ、江戸細工を収集して楽しんでいるのだ。率先して、普通ならできぬ贅沢に没頭しているということらしかった。
「ぜひ見に来てくれ、今少しずつ春らしく変えているところだ」
 これを言いに来たのかも知れない、無邪気に熱っぽく語る四郎の男らしく整った顔を、源次郎はぼんやり眺めた。
「源次郎殿にはそのような趣味、特技はないのか。由貴のように、猫がいればいいなどと、陰気くさい暮らしはするなよ」
 すぱりすぱりと草を切り倒しながら進むような、いさぎよい物言い。それが悪口めいていても、悪気はないのだと許してしまいそうだ。
「いえ、それがしにはこれと言って……」
「まことか? では源次郎殿はなにを持って御伽衆にあげられた? なにか秀でたものがあったからこそ、奥方様も特に貴殿を奥向きに迎えるべく画策したのだろう? 違うか?」
「……画策、と申されましたか」
 思わずぴくりと眉が上がったが、源次郎は努めてのんびり聞こえるように言った。四郎は露骨にしまった、という顔になり、
「いや、これは失言。奥方様が貴殿の登用にあたり、だいぶ無理をおっしゃったらしくて、つい、な。気にせんでくれよ」
と、子供のように源次郎の顔をのぞきこんだ。
「気を悪くしたなら許してくれ。なあ、貴殿なにか特技はないのか?」
 聞き返す暇を与えまいと必死らしい四郎。源次郎もそれ以上深く訊く気力も勇気もなく、表情をやわらげて見せた。
「はあ、強いて申せば物真似や唄を少々……」
「ほう、なんの物真似ができる? やってみせてくれ」
 源次郎は黙った。さすがにもう我慢ができず、顔がこわばりかけるのをこらえる。新参者の自分は、たとえどんな辱めを受けたとしても、耐えなければならない。
 このお方に悪気はないのだ、と必死に自分に言い聞かせ、笑顔を作った。声が、心なしか震えた。
「それがしの物真似は、家族や近所の人達など、身近な人にしか分からないものばかりでござりますよ」
「そうか、それなら由貴の真似はどうだ? 何度か会っているのだろう? 藤尾でもよいぞ」
 四郎はよほど退屈なのか、瞳は期待に満ちてやって見せるまでは帰りそうにない。仕方なく源次郎は由貴との会話を思い返し、
「源次郎殿の父君は、かなり面白おかしく講義をされるそうだな。御家老が喜んで、毎日のように父君の元に通っていると聞いたぞ」
と、口先だけでぼそぼそと由貴の口調を見事にまねた。
「おお、似ておる。似ておるな、すごいではないか」
 四郎は大喜びで手をたたいた。
「とっさに思い出したのが、我が父をおほめ下さったお言葉で、お恥ずかしいのですが」
「いやいや、見事。面白いなあ、貴殿は。お父上譲りだな。お父上に一度、ここにも講義に来ていただきたいものだ」
 四郎はさも愉快そうに何度も由貴の物真似を源次郎にさせ、半刻(約一時間)ほどいて、ようやく帰っていった。
「暴れ馬の意味、よくお分かりになりましたでしょう」
 気の毒そうに言う藤尾に源次郎はただ小さくうなずき、横になってこたつに潜りこんだ。心が石のように、体内を重たく転がる。また深みに落ちていく。
 やはり、という気持ちがあった。紀美はいったい自分になにを期待しているのだろう。仮にも臣下である四郎が、画策という穏やかでない言葉で表現するほどの強引さで、貴之を激怒させてまで自分を奥向きに入れたのは、いったいどういう理由なのだろう。
 なにを期待しているにしろ、貴之を怒らせては元も子もないのではないのか。
 とにかく一つ分かったことは、ここでは人の好意や優しさも疑ってかかった方がいいということだ。
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