やがて来る春に

天渡清華

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第二章

そのニ 一

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 由貴にどこかすねたような瞳で見られ、源次郎は笑いを噛み殺した。顔に出そうになるのをつくろい、きれいにむいたみかんを由貴の前に置く。
「源次郎殿まで、それがしを子供扱いする」
 由貴は低い声でつぶやいて、源次郎がむいてくれたみかんを一房口に入れた。
「由貴殿は危なっかしくてなりませぬ。さっきもお茶をこぼされたばかりではござりませぬか」
 二月になった。よく晴れた二月にしては暖かな昼下がり、源次郎は由貴の訪問を受けていた。中庭ではにぎやかに作業する音がする。この期を逃さず、積もりに積もった雪を少しでもどかそうと、人夫達が働いているのだ。
「このまま、春になってくれればよいのですが」
 まったくだ、とうつむき加減に言いながら、せわしなくみかんをつまんでは口に運ぶ由貴。その仕草がどこかかわいらしく見え、源次郎は微笑を誘われた。
「そんなに、おいしゅうございますか」
「うん、うまいみかんだ」
 笑っている源次郎に気づかず、由貴は庭で作業する小気味いい音に耳を傾けている。
「それならば、もう一つおむきしましょう」
 源次郎の声が震え、由貴はようやく、源次郎が笑っているのに気づいた。
「いくらそれがしでも、みかんをむくぐらいなんでもない」
 由貴はむくれて源次郎をにらみ、こたつの上の盆に積まれたみかんを手にした。しかし、みかんの中心に親指を突きたてたまではよかったが、手が激しく震えてとてもむくどころではない。
「どうなされました」
「……いや、なんでもござらん」
 由貴は言ったが、声はおびえているかのように震え、黒目がちの美しい瞳が揺れている。
「具合がお悪いのでは?」
「大丈夫だ、やっぱり源次郎殿にむいていただこう」
 動揺を抑えるためか、由貴は身体をほぐすように何度も動かした。首を振ってみたり、胸元を押さえてみたり、荒く息をついてみたり、どうにも落ち着かない。
「お部屋に戻られた方がよろしいのでは?」
 源次郎は心配になり、由貴の顔をのぞきこんだ。いくらか顔色も青いように思える。
「いや、ここにいさせて下され。本当になんでもござらぬゆえ」
 ぎこちなくではあるが、由貴は笑って茶をすすった。その手はまだ、震えている。
「それならばよろしいのですが……」
 由貴はうつむいて、しばらく黙っていた。落ち着きがないかと思えば、石像のように動かない。なにかあったのだろうか。
「昨夜、殿と少し口論になってしまった」
 唐突につぶやき、由貴は申し訳なさそうに笑った。
「はあ、左様でござりますか」
 由貴の言葉にどこか納得できないものはあったが、源次郎はうなずいて、丁寧にむいたみかんをまた由貴の前に置く。
「なんでもいい、なにか面白い話をしてくれませぬか。気が滅入ってならぬ」
 眉を下げた困惑顔。源次郎は胸をたたいて明るい声をあげた。
「面白い話ならば、それがしにお任せあれ」
 なにがあったのかは知らないが、由貴の弱った顔はなんとかして差し上げたい、という気持ちをかきたてる。
 やはり人間、笑顔でいるのが一番だ。美しく澄んだ笑顔を持つ由貴ならなおさらのこと、周りの気持ちまで柔らかくしてしまう。
 とにかく由貴を笑わせたい一心で、源次郎は主に進藤家で起こった出来事を、父や母、父の門人といった人々の真似をまじえ、にぎやかに語った。
 もう由貴は、源次郎の国許での友人、知人の名前を覚えてしまっている。あああの方か、といった相槌や、大笑いしてくれるのに気をよくして、源次郎はほらも吹きつつ夢中で由貴に語って聞かせた。
 しかし、楽しいひと時は不意に破られた。
 次の間が少し騒がしくなったかと思うと、田山が襖越しに声をかけてきた。もうお前はよい、という貴之の声もする。
 源次郎は思わず、由貴に助けを求めるかのような視線を向けた。貴之との初めての対面が、あまりにも唐突に果たされようとしている。
 由貴の凛とした視線と表情に励まされ、源次郎は由貴とともにこたつの脇に平伏して貴之を迎えた。
「由貴、なぜこんな所にいるのだ。せっかく、史書の講義が休みになったから来てみれば……」
 暴君という噂が思い出された。張りも苦味も備えた、腹に響く貴之の声は、部屋の空気をたちまち冷ましてしまったようだった。
「こんな所」という言い方が、主君とは言えさすがに気に障る。望まれたと思ったから、来たのだ。源次郎は唇を噛みしめた。
「気晴らしに、源次郎殿の話を聞こうと思いましたので」
 心もち身体を起こし、由貴が答える。貴之はどう答えるのだろう。緊張で畳についている手が震えた。
「さあ、俺は時間が惜しい。早くお前の部屋へ」
 由貴をうながす貴之の声が、一転してふわりと柔らかくなる。感情は素直に声に出るものだ。初めて耳にする声に心臓を刺激されつつも、源次郎は思う。
「いいえ、せっかくでございますから、ここでおくつろぎなされてはいかがでござりましょうか」
 まっすぐに背筋を伸ばす由貴。源次郎は平伏したまま動けず、はらはらしながら頭を下げていることしかできない。
「なにを申す、一緒に参れ」
 貴之はたちまち、不機嫌な声になった。由貴に近づく真っ白な足袋が、源次郎の視界に入る。いくら寵愛しているとはいえ、由貴の言動が挑発的でさすがに気に障ったのだろう。
「さあ、行くぞ」
 貴之に腕を取られたが、由貴は拒んだ。
「参りませぬ」
 びゅん、と矢のように由貴は言葉を放った。極度の緊張を必死にこらえる源次郎には、そう聞こえた。
「早く来い、ここではお前を抱けぬ」
 源次郎は耳を疑った。驚きのあまり、大きく背中が波打つ。しかし、由貴にはまったくひるむ様子はない。
「殿、ここは源次郎殿の居室にござります。なぜ、まず源次郎殿にお声をおかけ下さいませぬ。殿は、源次郎殿が入って一月以上過ぎてなお、顔すらご覧になっていないと聞き及びましたが、まことでござりましょうか」
 朗々とよく響く、湖面のように澄み、それでいて深みのある声で由貴は堂々と弁じた。
「いいから来い」
 その一言で、背筋が凍るようだった。その凄みは、とうてい大名家の殿様のものではない。血刀を手にした絵草紙の中のいにしえの英雄も、かくやと思われた。
「いいえ、動きませぬ。たとえ、源次郎殿の奥入りが殿の望まれぬことだったとしても、優しい言葉をおかけ下されてしかるべきでござりましょう。見ず知らずの地で暮らし始める時のつらさ、心細さを、殿はよくご存じのはず」
 由貴は臆せず、ますます声を励ました。近くにいる者は聞け、と言わんばかりの大声だ。
「俺の怒りを思い知れ。なぜ、お前達は俺の思いを踏みにじるのだ」
 感情は煮え立ち、噴きこぼれる寸前だ。それを貴之は必死にこらえている。声が激しく震え、足袋を履いた指先に力がこもっている。
「殿こそ、なぜそれがしにして下さったように、源次郎殿をおいたわり下されませぬ」
 由貴はつい先ほどまでとはまるで違い、奇妙なほど落ち着いている。機会が来たなら、とひそかに期していたのだろうか。
「お前とこやつは違う」
「違いませぬ。どうか普段のお優しさを、源次郎殿にもお見せ下されませ」
 由貴の声は穏やかで、笑みすら含んでいる。対して貴之は、怒りが炎のように全身を覆っている。言いあいの結末は容易に予想できた。
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