やがて来る春に

天渡清華

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第二章

その二 二

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「分からんのか!」
 貴之はいらだって怒鳴った。黙っている由貴の目前に膝をつき、由貴の両肩を乱暴につかんで揺らす。
「それでは俺の負けだ!」
 源次郎はうめきを漏らしかけた。負けという言葉を使った貴之の壮絶さ。自分がここにいる理由。圧倒的な質量でのしかかってくる。
「しかし殿、源次郎殿にはなんの罪もござりませぬ。殿は罪なき者を座敷牢に閉じこめるような、無慈悲なお方ではないはず」
 くっ、といまいましげな短い声が貴之から漏れた。由貴を払いのけ、立ち上がる。もう怒りのあまり声も出ないようだった。
 もういい、と源次郎は思った。俺の負けだ、という言葉ですべてが明らかになった。これ以上自分のために、由貴に激しい言葉を重ねて欲しくない。恐れのために、心臓どころか身の丈すら縮んだ気がする。
「……その時一番つらい立場にある者を、周りも気づかぬうちにお助け下さるのが、これまでの殿のなさりようだったはずでござります」
 少しの間のあと、由貴は声の調子を弱め、つぶやくように言った。
 うつむいた由貴の衣擦れの音。ほのかに炭が崩れる音。一瞬の静寂の中で、やけに耳につく。
「ならば俺を救え! 一番つらいのは俺に決まっておるわ!」
 自らをあざけりつつ、唄うように貴之は大声を張り上げた。狂ったかのような笑みを絡めた声が、吹雪となり容赦なく源次郎の心胆をいたぶる。
 もういい、もういいと、源次郎は念仏代わりに繰り返し念じた。今平伏しているのも、神を畏れてのことのような気がした。
「……由貴、もう隠すのも回りくどいのもやめよ。俺は知っているのだ。ずっと前から、知っていた」
 貴之の声音が変わった。奈落に落ちていく。かなしげな響きさえ残す。
 二人は無言で見つめあっているようだった。この口論に複雑に絡みついているものがあることに、源次郎は気づいてしまった。
 由貴、とすがるように貴之は呼んだ。それまでの怒りは、もうどこにもない。
 しばらく、沈黙が続いた。
 やがて、ざっ、と畳を滑る音がして、由貴は無言のまま額を畳に擦りつけるほどに平伏した。
 源次郎の視界の隅で、貴之の足袋がくるりときびすを返す。と、唐突にすさまじい音。なにが起きたのか分からず少し顔を上げて見ると、貴之が開け放った襖が勢いのあまり外れている。
 荒々しい足音が、遠ざかっていく。入れ替わりに小走りに田山がやってきた。その後ろに控えた藤尾と小島が、不安げに主達を見る。
「大久保殿、進藤殿、いったいどうしたというのだ?」
 源次郎は由貴を見た。由貴は顔色こそ少し悪いようだったが、静かに端座している。あきらめたような顔だ。
「恐れ多くも、殿と口論になりました」
 そう言ってうつむいた由貴の横顔は、陰がさしてやつれて見えた。
「なんと!」
 田山はある程度は聞こえていたはずだが大げさに驚き、探るような表情で源次郎を見た。源次郎は半分仕方なく、小さくうなずく。
「方々、お騒がせしました」
 由貴は深々と頭を下げた。無言のまま襖を直したり火鉢に炭を足したりと動き回る藤尾達も、由貴をたしなめる田山も、源次郎の耳目には入っていなかった。ただ呆然と、なにも考えられずに背を丸めて座っていることしかできなかった。
「……源次郎殿」
 由貴がそっと膝を進める気配に顔を上げた時には、田山も藤尾達ももういなくなっていた。
「すべて、それがしのせいだ。申し訳ない」
 まっすぐに源次郎を見据え、真剣に頭を下げる由貴。
 源次郎はぼんやり由貴を眺めた。心が麻痺している。恐れの余韻か、事実の重さか。失望がそうさせているのか。
 源次郎は子供がむずがるように、何度も首を横に振った。さすがにこの態度は由貴に失礼だと気づき、言葉を添える。
「いいえ、いいえ由貴殿。感謝こそすれ、謝っていただくなど恐れ多いことにござります」
「本当に、申し訳ない」
 なんとなく、分かった。貴之の寵愛にも関わらず、由貴の心はどこか他にある。真に由貴を得たいがためのもがきが、その激しい気性のために周りを巻きこみ、翻弄したのだ。
 かなしい。かなしい、由貴も、貴之も。
「それがしはもう、失礼しよう」
 いつまでもなにも言わない源次郎に、由貴はつぶやいた。
「ありがとうございました」
 源次郎が廊下まで見送ってそう言うと、由貴は一瞬目を見開き、それから力なく首を横に振った。
「……さらばだ、源次郎殿」
 由貴は笑った。はかなく美しく気高い、雪に咲く桜のような幻の風景がそこにあった。
 嫌な予感に全身が粟立つような思いがしたが、源次郎は由貴の背に声をかけることができなかった。
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