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第三章
その一 一
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由貴は闇の中、大きな置き時計の前に座りこんでその時を待っていた。同じ時計が、中奥の貴之の寝所にもある。小さくも鋭い事実が、寒さ同様に心の表面を刺す。
ついたち夜八つ半(午前一時ごろ)御台所にてお待ち下されたく候
由貴は、すでに燃やしてしまった力強い筆跡を思い浮かべる。
忍んで会いに行きたい、と書いてよこした琢馬に、由貴は綿々と軽挙をとがめる返事を書いた。しかし、それに対して返ってきたのは、出入りの商人からの寒中見舞いに偽した、葛根湯としもやけやあかぎれの膏薬。それからたった一行、参る、とだけ書かれた紙切れ。
夜一人ひそかにそれを見た時、由貴は泣き笑った。極寒の中で会うのに、風邪としもやけが心配だからということなのだろうが、それがあまりにも琢馬らしかった。
一日は新月。たとえ晴れても月はない闇夜なら、人に見咎められる危険性も多少低くなる。しかも城内の夜の見回りは一時(約二時間)おきで、その合間を狙っている。その上、忌み日で貴之が奥に泊まることはない。
考えに考えぬかれた日取りに琢馬の強い意志と想いを感じ、由貴は運を天に任せようと腹を決めた。
いざ約束の夜が迫ってきた昼間は、不安と緊張と動揺に身の置きどころもなくしていた。しかし、思わぬ形で唐突に訪れた貴之との訣別がかえって覚悟を固めさせ、今はだいぶ心は落ち着いている。
時計が九つ(午前零時ごろ)を告げてから、いくらかの時が過ぎた。夜の見回りは、もう終わっただろうか。早く台所に行って待っていたい気もするが、見回っている宿直の者に見つかってしまっては、死を決して会いに来てくれる琢馬に申し訳が立たない。
寒さにがたがたと震える身体をさすったり揺らしたりして、由貴ははやる気持ちを抑えていたが、やはり我慢できずに立ち上がった。
いつもの冬用の寝巻に綿入れを羽織っただけの格好で、明かりも持たずに廊下に出る。衣擦れの音がやけに耳につく以外は、物音一つしない。ほのかに廊下を照らしている、点々と壁に並ぶろうそくの明かりを頼りに、台所へと向かう。幸い、雪は降っていない。
会いたい。早く会いたい。琢馬は無事に城内に入りこめただろうか。積もりに積もった雪のせいで難儀して、城内で迷ってはいないか。会うのは半年振りだ。でもなぜ、まだ寒い時期に無茶をするのか。たとえ年に数度しか会えなくとも、お互い元気で手紙のやりとりさえできていれば、それで満足なのに。
そうやってずっとこの関係を守ってきたつもりが、いつからか貴之は知っていた。おそらく相手が手廻組頭の宮崎琢真だということまで、把握しているに違いない。
琢馬と出会ったのは、大井家の江戸下屋敷だった。琢馬は剣術修行のために江戸に出てきて、下屋敷の長屋に寄宿していた。由貴も一家で同じ下屋敷内に広めの長屋を与えられていて、同じ道場に入門する琢馬の面倒を見るようにと、言い含められた。
当然、親しくなった。由貴はかなりの人見知りだが、琢馬とはすんなりと仲良くなっていった。それがいつ、どちらからこうなったのか、よく覚えていない。どこかに二人で遊山に行った時だった気もするし、琢馬の狭く暗い部屋でごろごろしていた時だった気もする。
貴之から声がかかった時にはすでに、琢馬とは深い契りを結んでいた。数年の修行を経て、剣の才能があった琢馬は通常の倍近い速さで免許皆伝となり、国許に戻ることが決まっていたから、とにかくできるだけ二人で過ごそうとしていた頃だった。
貴之がどういうつもりで自分に声をかけたのか、貴之に身をもって知らされた日、由貴は琢馬に操立てすることも考えたが、思いとどまった。一生琢馬に会えないわけではない。貴之の面目、琢馬の気持ち、周りへの多大な迷惑。考えたら、生きようと思えてきた。
貴之は初めて目通りした時から、優しかった。大切にいつくしんでくれた。噂されるような、他に誰も跡を継げる者がいないから継がされた、できそこないの若殿ではないと知り、つらくてもそのまま仕える気になった。
もう、十年も前の話だ。あの頃の喜怒哀楽は、もうすべてが絵のようで、遠く、ふれてもたいらで温度もない。
今この瞬間も、やがてはそうなる。
ならば、我が身をあざやかにあでやかに、絵になった時より美しくなるように、琢馬の記憶に残したい。
台所にたどり着いた。部屋からはたいした距離ではないはずだが、すでに裸足で歩いてきた足の感覚はない。
琢馬は、無事来れたのだろうか。由貴は壊れそうに高鳴る胸を押さえ、台所に足を踏み入れた。
昼間は料理人を始めとする台所役人達が忙しく立ち働いているが、今はもちろん、人気も火の気もない。
広い台所を見回しながら歩く。
どこだ。どこにいる。無事に着けたのか。本当に来てくれるのか。
不安に胃のあたりがきゅうっとうずく。
いない。やはり来ないのか。城内に入る以前に、見つかってしまったのか。
ついたち夜八つ半(午前一時ごろ)御台所にてお待ち下されたく候
由貴は、すでに燃やしてしまった力強い筆跡を思い浮かべる。
忍んで会いに行きたい、と書いてよこした琢馬に、由貴は綿々と軽挙をとがめる返事を書いた。しかし、それに対して返ってきたのは、出入りの商人からの寒中見舞いに偽した、葛根湯としもやけやあかぎれの膏薬。それからたった一行、参る、とだけ書かれた紙切れ。
夜一人ひそかにそれを見た時、由貴は泣き笑った。極寒の中で会うのに、風邪としもやけが心配だからということなのだろうが、それがあまりにも琢馬らしかった。
一日は新月。たとえ晴れても月はない闇夜なら、人に見咎められる危険性も多少低くなる。しかも城内の夜の見回りは一時(約二時間)おきで、その合間を狙っている。その上、忌み日で貴之が奥に泊まることはない。
考えに考えぬかれた日取りに琢馬の強い意志と想いを感じ、由貴は運を天に任せようと腹を決めた。
いざ約束の夜が迫ってきた昼間は、不安と緊張と動揺に身の置きどころもなくしていた。しかし、思わぬ形で唐突に訪れた貴之との訣別がかえって覚悟を固めさせ、今はだいぶ心は落ち着いている。
時計が九つ(午前零時ごろ)を告げてから、いくらかの時が過ぎた。夜の見回りは、もう終わっただろうか。早く台所に行って待っていたい気もするが、見回っている宿直の者に見つかってしまっては、死を決して会いに来てくれる琢馬に申し訳が立たない。
寒さにがたがたと震える身体をさすったり揺らしたりして、由貴ははやる気持ちを抑えていたが、やはり我慢できずに立ち上がった。
いつもの冬用の寝巻に綿入れを羽織っただけの格好で、明かりも持たずに廊下に出る。衣擦れの音がやけに耳につく以外は、物音一つしない。ほのかに廊下を照らしている、点々と壁に並ぶろうそくの明かりを頼りに、台所へと向かう。幸い、雪は降っていない。
会いたい。早く会いたい。琢馬は無事に城内に入りこめただろうか。積もりに積もった雪のせいで難儀して、城内で迷ってはいないか。会うのは半年振りだ。でもなぜ、まだ寒い時期に無茶をするのか。たとえ年に数度しか会えなくとも、お互い元気で手紙のやりとりさえできていれば、それで満足なのに。
そうやってずっとこの関係を守ってきたつもりが、いつからか貴之は知っていた。おそらく相手が手廻組頭の宮崎琢真だということまで、把握しているに違いない。
琢馬と出会ったのは、大井家の江戸下屋敷だった。琢馬は剣術修行のために江戸に出てきて、下屋敷の長屋に寄宿していた。由貴も一家で同じ下屋敷内に広めの長屋を与えられていて、同じ道場に入門する琢馬の面倒を見るようにと、言い含められた。
当然、親しくなった。由貴はかなりの人見知りだが、琢馬とはすんなりと仲良くなっていった。それがいつ、どちらからこうなったのか、よく覚えていない。どこかに二人で遊山に行った時だった気もするし、琢馬の狭く暗い部屋でごろごろしていた時だった気もする。
貴之から声がかかった時にはすでに、琢馬とは深い契りを結んでいた。数年の修行を経て、剣の才能があった琢馬は通常の倍近い速さで免許皆伝となり、国許に戻ることが決まっていたから、とにかくできるだけ二人で過ごそうとしていた頃だった。
貴之がどういうつもりで自分に声をかけたのか、貴之に身をもって知らされた日、由貴は琢馬に操立てすることも考えたが、思いとどまった。一生琢馬に会えないわけではない。貴之の面目、琢馬の気持ち、周りへの多大な迷惑。考えたら、生きようと思えてきた。
貴之は初めて目通りした時から、優しかった。大切にいつくしんでくれた。噂されるような、他に誰も跡を継げる者がいないから継がされた、できそこないの若殿ではないと知り、つらくてもそのまま仕える気になった。
もう、十年も前の話だ。あの頃の喜怒哀楽は、もうすべてが絵のようで、遠く、ふれてもたいらで温度もない。
今この瞬間も、やがてはそうなる。
ならば、我が身をあざやかにあでやかに、絵になった時より美しくなるように、琢馬の記憶に残したい。
台所にたどり着いた。部屋からはたいした距離ではないはずだが、すでに裸足で歩いてきた足の感覚はない。
琢馬は、無事来れたのだろうか。由貴は壊れそうに高鳴る胸を押さえ、台所に足を踏み入れた。
昼間は料理人を始めとする台所役人達が忙しく立ち働いているが、今はもちろん、人気も火の気もない。
広い台所を見回しながら歩く。
どこだ。どこにいる。無事に着けたのか。本当に来てくれるのか。
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いない。やはり来ないのか。城内に入る以前に、見つかってしまったのか。
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