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第三章
その一 二
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由貴は板の間に立ち尽くした。寒さに震える身体で、うつろな瞳を泳がせてもう一度闇を見渡す。
とその時、すっと土間に人影が現れた。心臓が跳ね上がる。
動けないままに見守っていると、人影はゆっくりと歩み寄ってくる。用心深く、由貴も凍えた足を一歩、二歩と踏み出した。
昔の名前で呼びあう、抑えた声が重なりあう。懐かしい、張りと深みのある声。由貴は思わず小走りに駆け寄った。
琢馬だ。無事やって来れたのだ。
「あっ」
土間に下りようとしてつまずいた由貴の身体を、琢馬のたくましい腕がしっかりと抱きとめる。
「やはり転んだな」
ははは、と琢馬は軽やかに笑い、確かめるように由貴の顔をのぞきこんだ。
一瞬、見つめあう。笑顔、すがっている腕のたくましさ、におい、ぬくもり。なにもかもが愛おしく懐かしい。
琢馬は由貴の顔に手を伸ばそうとして、ふっと表情を引き締めた。
「ここでは駄目だ、あの物陰へ」
絶対誰にも見つかってはならないということすら、忘れかけてしまった。会えた感動にすでに身もとろけるような幸せを、由貴は感じていた。
琢馬に手を引かれ、上がりかまちに置いてある下駄を突っかけて、広い台所の隅に積まれた薪の陰に隠れる。意外なことにそこには、赤々と炭が燃えている、小さな火鉢があった。
「琢馬、これは……」
どこかから持ち出したのか、と心配顔で聞くと、琢馬はぱっと明るい笑みを浮かべた。
「ある男が用意してくれた。そいつのおかげで、俺はこうしてここに来れた」
それはつまり、この御殿内に琢馬に手を貸す者がいるということなのか。すがるような瞳で見つめても、琢馬はただ笑って小さく首を横に振るばかりだ。
「よく顔を見せてくれ」
琢馬は炭火のほのかな明かりに照らされた由貴の顔を見つめた。両手で包み、壊れものを扱うように指先で触れる。ずっと走ってきたからなのか、火鉢であぶっていたのか、その手は熱い。
琢馬の手の熱さと、二人のすぐかたわらにある火鉢からたちのぼる熱が、由貴の身も心もほてらせる。
「会いたかった……」
ほろ、とこぼれた言葉に、琢馬は何度もうなずき、二人はじっくりとぬくもりを味わうように抱きあった。
「寒くて大変だったな」
そう言う琢馬の身体はあたたかく、由貴の身体の方がよほど冷えていた。琢馬は由貴の身体をさすり、あたためようとする。
「お前こそ」
目の前に琢馬の笑顔がある。目尻をくしゃくしゃにし、目をなくなりそうに細める、優しい笑顔。ぬくもりに包まれていても、由貴はまだどこか信じられなかった。
「しもやけには、あの薬を使うんだぞ」
琢馬は軽々と由貴を膝に横抱きにして、青く凍りついている足をさする。由貴は琢馬にしがみついて、ただうなずくことしかできない。
「春を待とうとも当然考えた。だがな、お前が会いたがってると聞いてな」
えっ、と喉に詰まったような声が出た。日頃まったく琢馬の名前を口にすることなどない。
「誰が、なんて野暮なことは聞くな」
口づけの予感に、由貴は目を閉じた。琢馬は額や頬に軽く口づけ、何度も唇の感触を味わうようについばむと、由貴の唇を柔らかく舌で割った。きつく抱きあい、夢中でむさぼりあう。寝巻の裾をかき分けようとする琢馬に、由貴は当然のごとく身体を開く。
「いや、駄目だ、すまん。どうも俺は助平でいかんなあ」
唐突に手を止めて、琢馬は照れ笑いで首に手をやった。
「いいから、いいからしよう」
由貴はほとんど迫るようにして、琢馬の肩を両手でつかむ。
「いやいや、風邪をひかせるわけにはいかん。春を待とう」
「構うもんか、風邪なんて。会いたかったんだ。会いたかったんだよ」
見つめると一瞬、琢馬の瞳に迷いが見えた。必死な由貴の姿にとまどってもいるようだ。しかしすぐに気を取り直したふうで笑顔を作り、琢馬は由貴の寝巻の裾の乱れを直しながら穏やかに言う。
「一時の感情に我を忘れるな、と書いてよこしたのはお前だぞ。春を待とう。春になって暖かくなったら、一緒に花を見て酒を飲んで、しっぽりといこうではないか。なあ、年に一度だけゆっくり会えるその日を、俺がどんなに楽しみにしているか、分かるか」
あやすように柔らかに由貴を包みこんで、琢馬は綿のように言葉を降らせる。
あふれようとする涙を身体の奥に押しこみ、由貴はまさに今花の下にいるかのように微笑んだ。
「そうだな、春を待とう。春になったら……」
涙をこらえている喉がひきつれ、それ以上は言葉にならない。
とにかく笑っていようと思った。何度も何度もうなずきながら、由貴は必死で笑顔を保つ。
「無理するな、つらかったんだろう」
由貴のくしゃくしゃの顔を片手で包み、指でそっと目の下あたりをなぞる琢馬。
「泣いていいんだぞ」
愛しげに言う表情が優しすぎる。ぶるぶると首を横に振り、もう一度笑った顔が崩れかけているのが、自分でも分かった。それでも由貴は、笑顔でいようとする。
今夜の記憶は、いつまでも琢馬の中に強く残るだろう。これが最後になるからだ。だからこそ、思い出すたびにため息をつかずにはいられないほどに美しく、琢馬の記憶に生き続けたい。
これが最後の逢瀬だ。この身には次の春はやって来ない。迎えるまいと決めた。
貴之の想いを拒むことなど許されない身でありながら、ついに貴之に訣別を告げた以上、これからも御殿でぬくぬくと暮らし続けるなど、あってはならないことだ。
「……あのな、新入りの源次郎が、なかなか気持ちのいい男でな」
まったく関係のない事を言い出した由貴を、琢馬はまたぎゅっと抱きしめる。
「頑固だな、相変わらず」
「太郎もな、子を産んで元気にしているぞ」
たくましい腕が、苦しくなるほど力強く抱きしめてくる。琢馬はなにも言わない。首筋にはりついている頬が熱く、びんつけ油の匂いが鼻をつく。
「琢馬、刀が脇腹に当たって痛い……」
ささやいても、琢馬は動かない。
琢馬はやがて、実はな、とひどく疲れた声でつぶやいた。由貴の背中を、やけにせわしなくなでる。
「春になったら、娶る」
琢馬の思いが、如実に声にあらわれていた。ごろりと重々しく吐き出し、嫌だ嫌だと繰り返す。まるで身体のうちに取りこもうとでもするかのように、より深く由貴を抱きしめる。
「そう、か……」
琢馬ももう三十だ。宮崎家の当主として、家を残していく義務がある。周囲の人間が跡取りのことで気を揉んで当然の年頃だった。本人の意志など家名の前には二の次で、琢馬もついに周りに逆らえなくなったのだろう。
「だが、人の言うように、嫁と衆道とは別物だとは、俺は思わぬ。俺にはお前だけだ」
由貴の瞳から、こらえていた涙がただただ静かにあふれる。
うれしい。この言葉を胸に逝こう。
「こうして会いに来たのも、たとえ妻帯しても俺の気持ちは変わらぬことを示したかったからだ」
まっすぐに由貴を見つめて告げた後、わずかに揺れる瞳。
「……ただ、共に暮らし抱かねばならぬ以上、情は湧くだろう」
くしゃりと琢馬は笑った。
「お前のそういう正直なところが、好きだよ」
うれしいという言葉以外を忘れ、泣き濡れた顔で由貴も笑った。
「ほら、これで顔を拭け」
琢馬は懐から手拭を取り出した。
「珍しいな、お前が手拭を持っているとは」
「まあな、顔を隠すためにな」
小さく笑いあいながら、由貴は琢馬の手拭で涙を拭いた。
「……もう、行く」
琢馬はつぶやき、名残を惜しむ口づけを由貴の唇に落とす。
離れたくはなかったが、由貴はしばし見つめあった後、琢馬の膝からゆっくりと立ち上がった。たちまち、唇からもふれあっていた肌からも琢馬のぬくもりが消えていくのが、かなしい。
「また春に会おう」
由貴の手から手拭を受け取り、背を向けかけて、琢馬は振り返りもう一度力強く由貴を抱きしめた。勢いでがちゃりと刀が鳴る。
「まずい、誰か来るようだ」
琢馬の目には見回りの明かりが見えたのか、ぱっと後ずさって由貴から離れ、手早く由貴の涙で濡れている手拭を広げて頭にかぶった。
「また、春に。春にな」
言い残し、琢馬は去った。
琢馬ではない誰かの、見回りの足音が遠くに聞こえる。本当に遠いのか、気が抜けてしまって遠く聞こえるだけなのか。そんなことを思いながら、由貴は火鉢のそばにへたりこむ。
本当に琢馬はここにいたのだろうか。もう、そんなことを思ってしまう。夢よりもあっけなく、はかなく、余韻すら残さずに、矢のように至福の時は過ぎ去った。
だがこの耳は、確かに聞いた。
俺にはお前だけだ、という言葉を。
もう、逝こう。遅すぎたぐらいだ。
十年もの間、貴之を裏切り続けた。苦しめ、悩ませた。その代償を払おう。
それに春になれば、琢馬は妻を娶る。子をなし、その成長を楽しみに務めに励む、幸せを味わって欲しい。それには、自分がいては邪魔だ。
由貴は立ち上がり、暗闇を見渡した。
武士ならば腹を切るべきだが、それでは角が立つ。卑怯なのは百も承知、事故に見せかけて自害しようと決めていた。厳寒のこの地では、広く天井も高い台所に朝まで転がっていれば、それが果たされるだろう。
人目につかない場所を。見回りの者にも、火鉢を取りに来るだろう誰かにも見つからない場所を。
由貴はあたりを物色し、やがて今いる薪が積まれている場所のちょうど向かい側、空らしい大樽が積まれているその陰に移った。綿入れをそっと脱ぎ捨てる。
頭も心も中身を抜かれたかのようだ。ただ身体だけが淡々と動いて、由貴を土間に横たわらせる。
なにも思うことなどない。当然、涙も笑いも浮かぶことはない。
由貴は目を閉じた。真の闇が訪れる。
あとはその闇に身を任せるだけでよかった。
とその時、すっと土間に人影が現れた。心臓が跳ね上がる。
動けないままに見守っていると、人影はゆっくりと歩み寄ってくる。用心深く、由貴も凍えた足を一歩、二歩と踏み出した。
昔の名前で呼びあう、抑えた声が重なりあう。懐かしい、張りと深みのある声。由貴は思わず小走りに駆け寄った。
琢馬だ。無事やって来れたのだ。
「あっ」
土間に下りようとしてつまずいた由貴の身体を、琢馬のたくましい腕がしっかりと抱きとめる。
「やはり転んだな」
ははは、と琢馬は軽やかに笑い、確かめるように由貴の顔をのぞきこんだ。
一瞬、見つめあう。笑顔、すがっている腕のたくましさ、におい、ぬくもり。なにもかもが愛おしく懐かしい。
琢馬は由貴の顔に手を伸ばそうとして、ふっと表情を引き締めた。
「ここでは駄目だ、あの物陰へ」
絶対誰にも見つかってはならないということすら、忘れかけてしまった。会えた感動にすでに身もとろけるような幸せを、由貴は感じていた。
琢馬に手を引かれ、上がりかまちに置いてある下駄を突っかけて、広い台所の隅に積まれた薪の陰に隠れる。意外なことにそこには、赤々と炭が燃えている、小さな火鉢があった。
「琢馬、これは……」
どこかから持ち出したのか、と心配顔で聞くと、琢馬はぱっと明るい笑みを浮かべた。
「ある男が用意してくれた。そいつのおかげで、俺はこうしてここに来れた」
それはつまり、この御殿内に琢馬に手を貸す者がいるということなのか。すがるような瞳で見つめても、琢馬はただ笑って小さく首を横に振るばかりだ。
「よく顔を見せてくれ」
琢馬は炭火のほのかな明かりに照らされた由貴の顔を見つめた。両手で包み、壊れものを扱うように指先で触れる。ずっと走ってきたからなのか、火鉢であぶっていたのか、その手は熱い。
琢馬の手の熱さと、二人のすぐかたわらにある火鉢からたちのぼる熱が、由貴の身も心もほてらせる。
「会いたかった……」
ほろ、とこぼれた言葉に、琢馬は何度もうなずき、二人はじっくりとぬくもりを味わうように抱きあった。
「寒くて大変だったな」
そう言う琢馬の身体はあたたかく、由貴の身体の方がよほど冷えていた。琢馬は由貴の身体をさすり、あたためようとする。
「お前こそ」
目の前に琢馬の笑顔がある。目尻をくしゃくしゃにし、目をなくなりそうに細める、優しい笑顔。ぬくもりに包まれていても、由貴はまだどこか信じられなかった。
「しもやけには、あの薬を使うんだぞ」
琢馬は軽々と由貴を膝に横抱きにして、青く凍りついている足をさする。由貴は琢馬にしがみついて、ただうなずくことしかできない。
「春を待とうとも当然考えた。だがな、お前が会いたがってると聞いてな」
えっ、と喉に詰まったような声が出た。日頃まったく琢馬の名前を口にすることなどない。
「誰が、なんて野暮なことは聞くな」
口づけの予感に、由貴は目を閉じた。琢馬は額や頬に軽く口づけ、何度も唇の感触を味わうようについばむと、由貴の唇を柔らかく舌で割った。きつく抱きあい、夢中でむさぼりあう。寝巻の裾をかき分けようとする琢馬に、由貴は当然のごとく身体を開く。
「いや、駄目だ、すまん。どうも俺は助平でいかんなあ」
唐突に手を止めて、琢馬は照れ笑いで首に手をやった。
「いいから、いいからしよう」
由貴はほとんど迫るようにして、琢馬の肩を両手でつかむ。
「いやいや、風邪をひかせるわけにはいかん。春を待とう」
「構うもんか、風邪なんて。会いたかったんだ。会いたかったんだよ」
見つめると一瞬、琢馬の瞳に迷いが見えた。必死な由貴の姿にとまどってもいるようだ。しかしすぐに気を取り直したふうで笑顔を作り、琢馬は由貴の寝巻の裾の乱れを直しながら穏やかに言う。
「一時の感情に我を忘れるな、と書いてよこしたのはお前だぞ。春を待とう。春になって暖かくなったら、一緒に花を見て酒を飲んで、しっぽりといこうではないか。なあ、年に一度だけゆっくり会えるその日を、俺がどんなに楽しみにしているか、分かるか」
あやすように柔らかに由貴を包みこんで、琢馬は綿のように言葉を降らせる。
あふれようとする涙を身体の奥に押しこみ、由貴はまさに今花の下にいるかのように微笑んだ。
「そうだな、春を待とう。春になったら……」
涙をこらえている喉がひきつれ、それ以上は言葉にならない。
とにかく笑っていようと思った。何度も何度もうなずきながら、由貴は必死で笑顔を保つ。
「無理するな、つらかったんだろう」
由貴のくしゃくしゃの顔を片手で包み、指でそっと目の下あたりをなぞる琢馬。
「泣いていいんだぞ」
愛しげに言う表情が優しすぎる。ぶるぶると首を横に振り、もう一度笑った顔が崩れかけているのが、自分でも分かった。それでも由貴は、笑顔でいようとする。
今夜の記憶は、いつまでも琢馬の中に強く残るだろう。これが最後になるからだ。だからこそ、思い出すたびにため息をつかずにはいられないほどに美しく、琢馬の記憶に生き続けたい。
これが最後の逢瀬だ。この身には次の春はやって来ない。迎えるまいと決めた。
貴之の想いを拒むことなど許されない身でありながら、ついに貴之に訣別を告げた以上、これからも御殿でぬくぬくと暮らし続けるなど、あってはならないことだ。
「……あのな、新入りの源次郎が、なかなか気持ちのいい男でな」
まったく関係のない事を言い出した由貴を、琢馬はまたぎゅっと抱きしめる。
「頑固だな、相変わらず」
「太郎もな、子を産んで元気にしているぞ」
たくましい腕が、苦しくなるほど力強く抱きしめてくる。琢馬はなにも言わない。首筋にはりついている頬が熱く、びんつけ油の匂いが鼻をつく。
「琢馬、刀が脇腹に当たって痛い……」
ささやいても、琢馬は動かない。
琢馬はやがて、実はな、とひどく疲れた声でつぶやいた。由貴の背中を、やけにせわしなくなでる。
「春になったら、娶る」
琢馬の思いが、如実に声にあらわれていた。ごろりと重々しく吐き出し、嫌だ嫌だと繰り返す。まるで身体のうちに取りこもうとでもするかのように、より深く由貴を抱きしめる。
「そう、か……」
琢馬ももう三十だ。宮崎家の当主として、家を残していく義務がある。周囲の人間が跡取りのことで気を揉んで当然の年頃だった。本人の意志など家名の前には二の次で、琢馬もついに周りに逆らえなくなったのだろう。
「だが、人の言うように、嫁と衆道とは別物だとは、俺は思わぬ。俺にはお前だけだ」
由貴の瞳から、こらえていた涙がただただ静かにあふれる。
うれしい。この言葉を胸に逝こう。
「こうして会いに来たのも、たとえ妻帯しても俺の気持ちは変わらぬことを示したかったからだ」
まっすぐに由貴を見つめて告げた後、わずかに揺れる瞳。
「……ただ、共に暮らし抱かねばならぬ以上、情は湧くだろう」
くしゃりと琢馬は笑った。
「お前のそういう正直なところが、好きだよ」
うれしいという言葉以外を忘れ、泣き濡れた顔で由貴も笑った。
「ほら、これで顔を拭け」
琢馬は懐から手拭を取り出した。
「珍しいな、お前が手拭を持っているとは」
「まあな、顔を隠すためにな」
小さく笑いあいながら、由貴は琢馬の手拭で涙を拭いた。
「……もう、行く」
琢馬はつぶやき、名残を惜しむ口づけを由貴の唇に落とす。
離れたくはなかったが、由貴はしばし見つめあった後、琢馬の膝からゆっくりと立ち上がった。たちまち、唇からもふれあっていた肌からも琢馬のぬくもりが消えていくのが、かなしい。
「また春に会おう」
由貴の手から手拭を受け取り、背を向けかけて、琢馬は振り返りもう一度力強く由貴を抱きしめた。勢いでがちゃりと刀が鳴る。
「まずい、誰か来るようだ」
琢馬の目には見回りの明かりが見えたのか、ぱっと後ずさって由貴から離れ、手早く由貴の涙で濡れている手拭を広げて頭にかぶった。
「また、春に。春にな」
言い残し、琢馬は去った。
琢馬ではない誰かの、見回りの足音が遠くに聞こえる。本当に遠いのか、気が抜けてしまって遠く聞こえるだけなのか。そんなことを思いながら、由貴は火鉢のそばにへたりこむ。
本当に琢馬はここにいたのだろうか。もう、そんなことを思ってしまう。夢よりもあっけなく、はかなく、余韻すら残さずに、矢のように至福の時は過ぎ去った。
だがこの耳は、確かに聞いた。
俺にはお前だけだ、という言葉を。
もう、逝こう。遅すぎたぐらいだ。
十年もの間、貴之を裏切り続けた。苦しめ、悩ませた。その代償を払おう。
それに春になれば、琢馬は妻を娶る。子をなし、その成長を楽しみに務めに励む、幸せを味わって欲しい。それには、自分がいては邪魔だ。
由貴は立ち上がり、暗闇を見渡した。
武士ならば腹を切るべきだが、それでは角が立つ。卑怯なのは百も承知、事故に見せかけて自害しようと決めていた。厳寒のこの地では、広く天井も高い台所に朝まで転がっていれば、それが果たされるだろう。
人目につかない場所を。見回りの者にも、火鉢を取りに来るだろう誰かにも見つからない場所を。
由貴はあたりを物色し、やがて今いる薪が積まれている場所のちょうど向かい側、空らしい大樽が積まれているその陰に移った。綿入れをそっと脱ぎ捨てる。
頭も心も中身を抜かれたかのようだ。ただ身体だけが淡々と動いて、由貴を土間に横たわらせる。
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