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第三章
その二 一
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雪だ。いや、桜の花びらだ。
差し出した手のひらに、やわらかくやさしく舞い降りてくる。
春が来た喜びに、全身が幸福に包まれる。江戸とは違い、北の果てのこの国では、花という花がいっせいに咲きあふれ、春を謳歌する。
年に一度の宿下がりは、花々が春の訪れを告げる頃、と決まっていた。日に日に溶けていく根雪を眺め、つい頬がゆるむ。桜がほころべば、毎日指を折ってその日を待つ。
琢馬との密会は、桜の名所にある茶屋。そこで桜を愛で酒を飲み、一日を過ごす。琢馬と二人きりで会うのは、十日許されている宿下がりの間、たった一日。
だがそれで由貴は充分だった。若い頃、長屋の琢馬の部屋で日がなごろごろと過ごした、あの頃につかの間でも戻れるのなら。
手紙で想いは尽くしている。奥向きのことはみだりに人に話してはならない。だからただ黙って、確かに琢馬と二人でいるのだという事実を肌に感じ、ぬくもりを声を匂いを、身体にも心にもたっぷりとしみこませる。
ようやく、会えなかった間の互いの渇きが癒せたかと思う頃には、もう日は落ちている。別れが近づくにつれ、二人はますます寡黙になっていく。昔と違うのは、そこだけだ。そこだけだと思いたい。
闇が下りても、開け放した窓障子一面の桜は、気高くもたおやかに、うっすらと光をまとい、天女のようにそこにある。見とれるうちに、琢馬のぬくもりに溶けこめるような気になる。そうすれば、一生ともに在れる、と思う。
酔いゆえの空想にひそかに笑って、この日限りの夢を閉じる。桜が舞い散るのは、夢かうつつか。分からなくなる。
今年は宿下がりが遅れたから、もう桜も散り始めだ。琢馬の声を聞きながら、座敷に舞いこむ桜の花びらに手を伸ばす。手を伸ばす。手を伸ばしても、桜の花びらは指先にすらふれない。
雪のように、溶ける。溶ける……。
「由貴様!」
小島の顔が目の前にあった。声にならない声にわずかに唇を動かす。ばたりと腕が布団に落ちて、由貴は夢でそうしていたように、眠りつつも腕を伸ばしていたのを知った。伸ばしていた右の肩や腕が疲れを訴え、布団の冷たさが肌に心地いい。
「あんな所でなにをしておいででした、お会いできたのでしょう」
小島は泣かんばかりの必死の形相で訴えかけるが、その声は極力抑えられている。
「……あんなところ……」
いつもの茶屋に、琢馬といた。桜の花びらが、雪のように……。
「由貴様、しっかりなされませ、お会いになれたのでござりましょう」
たくま、とほとんど聞こえないほどにつぶやき、途端に由貴ははっとしてあたりを見回した。
住み慣れた御殿の寝室。周りにはいくつもの火鉢が置かれ、枕元には小島がいる。
死に損ねた。
「お会いになれたのに、なぜあんな所にいらっしゃいました?」
小島の声は、わずかに震えていた。泣いている。
「二日も、熱にうなされて……。なぜでござりますか」
感情を押しこめた声の鋭さに、由貴はじっと小島を見上げる。なぜ、と訊きたいのはこっちの方だ。助けたのはお前か。なぜあんな所にいたのに分かった。なぜ助けた。なぜ、会えたのかとしつこく繰り返す……?
「あ……」
ひらめくものがあった。気づくのが遅すぎたかも知れない。どうして自分はいつもこうなのだろう。鈍くて、不器用で、なにをやってもうまくこなせない。あげくに死に損ねた。
「火鉢を用意したのは、それがしでござります」
予想通りの小島の言葉に、由貴は目を閉じた。閉じられたまぶたから、熱い涙が静かにあふれ出る。
「てっきり、ご承知の上それがしを小姓に指名して下さったのだとばかり思っておりましたが……」
由貴は嗚咽をこらえきれず、布団で顔を隠して泣いた。
小島がこの御殿で働くようになったのが、三年前。徹底的に身上を吟味の上、ようやく働くことが許されるここに、琢馬はどうやって小島を送りこんだのか。
俺にはお前だけだ、という琢馬の声がよみがえる。この身は常に、琢馬に護られている。あのたくましい腕が、包んでくれている。江戸にいた頃、いつもそうだったように。
なにもかも、気づくのが遅いことばかりだ。
「由貴様、なにか飲み物をお持ちしましょうか。薬も飲んでいただかないと」
由貴は布団のふちで涙を押さえ、布団から目だけを出して小島に笑いかけてみせた。
「殿よりいただいた、高麗人参もござりますし」
ほっとした顔の小島の言葉が、刺さる。小島は由貴の額の上の濡れ手拭いを冷水で絞って、額に乗せ直した。
「……殿が、こちらにおいでになったのか」
声はかすれ、喉がひりつく。由貴は自分の身体がだいぶ消耗していることに、ようやく気づき始めていた。
「はい、何度も足をお運びです。御典医も代わる代わるお越しですが、覚えていらっしゃいませぬか」
わずかに首を横に振る。まったく、知らなかった。
「田山様にも殿にも、由貴様が御台所にいらしたことは、申し上げておりませぬ。ご安心下さい」
小島はそう言うと、部屋を出て行った。代わりに猫の太郎が、小島の足の間をすり抜けて駆けこんでくる。子猫達もあとを追いかけてやってきた。
太郎は由貴の顔をしばし心配そうに眺めたあと、おもむろに布団の中に潜りこみ、由貴の脇の下に落ち着いた。子猫達は火鉢のそばでじゃれあう。
太郎を撫でたかったが、それすらおっくうだった。
貴之はなにを思ったろう。急な高熱の意味までも、正確に読み取っただろうか。
さんざん裏切り、不忠を重ねたあげく、死に損ねた。いったいどの面下げて貴之に会えるというのか。それでも、この心に住まうのが琢馬一人だという事実は揺るがない。もう、どうすることもできない。
差し出した手のひらに、やわらかくやさしく舞い降りてくる。
春が来た喜びに、全身が幸福に包まれる。江戸とは違い、北の果てのこの国では、花という花がいっせいに咲きあふれ、春を謳歌する。
年に一度の宿下がりは、花々が春の訪れを告げる頃、と決まっていた。日に日に溶けていく根雪を眺め、つい頬がゆるむ。桜がほころべば、毎日指を折ってその日を待つ。
琢馬との密会は、桜の名所にある茶屋。そこで桜を愛で酒を飲み、一日を過ごす。琢馬と二人きりで会うのは、十日許されている宿下がりの間、たった一日。
だがそれで由貴は充分だった。若い頃、長屋の琢馬の部屋で日がなごろごろと過ごした、あの頃につかの間でも戻れるのなら。
手紙で想いは尽くしている。奥向きのことはみだりに人に話してはならない。だからただ黙って、確かに琢馬と二人でいるのだという事実を肌に感じ、ぬくもりを声を匂いを、身体にも心にもたっぷりとしみこませる。
ようやく、会えなかった間の互いの渇きが癒せたかと思う頃には、もう日は落ちている。別れが近づくにつれ、二人はますます寡黙になっていく。昔と違うのは、そこだけだ。そこだけだと思いたい。
闇が下りても、開け放した窓障子一面の桜は、気高くもたおやかに、うっすらと光をまとい、天女のようにそこにある。見とれるうちに、琢馬のぬくもりに溶けこめるような気になる。そうすれば、一生ともに在れる、と思う。
酔いゆえの空想にひそかに笑って、この日限りの夢を閉じる。桜が舞い散るのは、夢かうつつか。分からなくなる。
今年は宿下がりが遅れたから、もう桜も散り始めだ。琢馬の声を聞きながら、座敷に舞いこむ桜の花びらに手を伸ばす。手を伸ばす。手を伸ばしても、桜の花びらは指先にすらふれない。
雪のように、溶ける。溶ける……。
「由貴様!」
小島の顔が目の前にあった。声にならない声にわずかに唇を動かす。ばたりと腕が布団に落ちて、由貴は夢でそうしていたように、眠りつつも腕を伸ばしていたのを知った。伸ばしていた右の肩や腕が疲れを訴え、布団の冷たさが肌に心地いい。
「あんな所でなにをしておいででした、お会いできたのでしょう」
小島は泣かんばかりの必死の形相で訴えかけるが、その声は極力抑えられている。
「……あんなところ……」
いつもの茶屋に、琢馬といた。桜の花びらが、雪のように……。
「由貴様、しっかりなされませ、お会いになれたのでござりましょう」
たくま、とほとんど聞こえないほどにつぶやき、途端に由貴ははっとしてあたりを見回した。
住み慣れた御殿の寝室。周りにはいくつもの火鉢が置かれ、枕元には小島がいる。
死に損ねた。
「お会いになれたのに、なぜあんな所にいらっしゃいました?」
小島の声は、わずかに震えていた。泣いている。
「二日も、熱にうなされて……。なぜでござりますか」
感情を押しこめた声の鋭さに、由貴はじっと小島を見上げる。なぜ、と訊きたいのはこっちの方だ。助けたのはお前か。なぜあんな所にいたのに分かった。なぜ助けた。なぜ、会えたのかとしつこく繰り返す……?
「あ……」
ひらめくものがあった。気づくのが遅すぎたかも知れない。どうして自分はいつもこうなのだろう。鈍くて、不器用で、なにをやってもうまくこなせない。あげくに死に損ねた。
「火鉢を用意したのは、それがしでござります」
予想通りの小島の言葉に、由貴は目を閉じた。閉じられたまぶたから、熱い涙が静かにあふれ出る。
「てっきり、ご承知の上それがしを小姓に指名して下さったのだとばかり思っておりましたが……」
由貴は嗚咽をこらえきれず、布団で顔を隠して泣いた。
小島がこの御殿で働くようになったのが、三年前。徹底的に身上を吟味の上、ようやく働くことが許されるここに、琢馬はどうやって小島を送りこんだのか。
俺にはお前だけだ、という琢馬の声がよみがえる。この身は常に、琢馬に護られている。あのたくましい腕が、包んでくれている。江戸にいた頃、いつもそうだったように。
なにもかも、気づくのが遅いことばかりだ。
「由貴様、なにか飲み物をお持ちしましょうか。薬も飲んでいただかないと」
由貴は布団のふちで涙を押さえ、布団から目だけを出して小島に笑いかけてみせた。
「殿よりいただいた、高麗人参もござりますし」
ほっとした顔の小島の言葉が、刺さる。小島は由貴の額の上の濡れ手拭いを冷水で絞って、額に乗せ直した。
「……殿が、こちらにおいでになったのか」
声はかすれ、喉がひりつく。由貴は自分の身体がだいぶ消耗していることに、ようやく気づき始めていた。
「はい、何度も足をお運びです。御典医も代わる代わるお越しですが、覚えていらっしゃいませぬか」
わずかに首を横に振る。まったく、知らなかった。
「田山様にも殿にも、由貴様が御台所にいらしたことは、申し上げておりませぬ。ご安心下さい」
小島はそう言うと、部屋を出て行った。代わりに猫の太郎が、小島の足の間をすり抜けて駆けこんでくる。子猫達もあとを追いかけてやってきた。
太郎は由貴の顔をしばし心配そうに眺めたあと、おもむろに布団の中に潜りこみ、由貴の脇の下に落ち着いた。子猫達は火鉢のそばでじゃれあう。
太郎を撫でたかったが、それすらおっくうだった。
貴之はなにを思ったろう。急な高熱の意味までも、正確に読み取っただろうか。
さんざん裏切り、不忠を重ねたあげく、死に損ねた。いったいどの面下げて貴之に会えるというのか。それでも、この心に住まうのが琢馬一人だという事実は揺るがない。もう、どうすることもできない。
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