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第三章
その二 三
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飲みこもうとしたみかんの汁が喉にしみて、由貴は激しくむせた。
「ああ、みかんもまだ無理か」
すかさず、そばにいた貴之が背中をさすり、白湯を飲ませてくれる。貴之が自ら親身に看病をするのは、国許では紀美と由貴の他にはいないだろう。
由貴が寝こんで十日以上が過ぎていた。いくらか身体は楽になってきたが、それでもまだ熱があり、あまり食べ物も喉を通らない状態が続いている。
少しでも暇があればやってきて看病してくれる貴之の姿は、貴之がまだ部屋住みだった昔に、戻ったかのようだった。
「食べて精をつけねばならんのに、困ったなあ」
貴之は、いったいなにを思っているのか。弱さを見せたのもつかの間で、なにも問うことなく、こうして看病してくれる。江戸にいた昔に、今よりもずっと気ままでいられた頃に恋焦がれるような気持ちでいるのは、貴之も同じなのかも知れない。
いったいどこまで貴之に迷惑をかければ気が済むのか、と申し訳なさ、情けなさでいっぱいの反面、由貴ははしゃいでいるようでさえある貴之の表情に、安らぎにも似た思いを感じてもいた。
「さあ、もう横になれ」
貴之にいたわられ、助けられながら布団に横になる。由貴を寝かせると、貴之は立って火鉢の炭の様子を見て回った。貴之は自分がいる間は小島すら下がらせ、自ら雑用もこなしている。
「このみかんは、確か源次郎からの見舞いだったな」
由貴が食べられなかったみかんの残りを口にしながら、貴之は由貴の布団の横に寝転がった。
「あ、殿……」
「いい、構わん。俺の好きにさせてくれ」
貴之は肘枕をすると、空いた方の右手で由貴の胸のあたりをあやすようになではじめた。横顔に注がれる視線が恥ずかしく申し訳なく、由貴が目を閉じようとすると、貴之は言った。
「最近は、源次郎のところにも行っているぞ」
なにを言ってもそぐわない気がして、由貴は瞳で受けた。数瞬見交わした瞳は澄んで、責めるような色はおろか、なんの感情も感じられない。
胸のざらつきを覚えつつ、由貴は長いまつげを数度またたかせ、瞳を閉じた。すぐそばの貴之の息遣いを感じながら、ふと気づく。
源次郎、と貴之はさらりと呼んだ。ただ仕方なく通っているのではない、源次郎に情を感じ始めているのだろう。
こうなることを望んでいた。自分は飼い主に見向きもされず、ただ空に焦がれる籠の中の鳥のようにありたいと。だがいざそうなりかけてみれば、胸はざらつき、心の端をやすりで削られる。
人とは、本当に勝手なものだ。
「夢でも見ているのか」
貴之の指が、わずかに笑んだ由貴の頬にそっとふれる。その指は、かすかに震えていた。
「……早く雪が溶ければいい」
言葉は、口からこぼれた途端にほろさらと流れて、消えた。
それから数日後の昼、田山が由貴のもとを訪れた。見舞いという雰囲気ではなく深刻な顔つきで、粥一椀に梅干という昼餉を終えたばかりの由貴の布団の脇に座る。
「具合はどうかな、御典医はあとはゆっくり養生するだけだと申されていたが」
「おかげさまで、少しは物も食べられるようになりました」
布団の上に上体を起こした由貴は、分厚い綿入れにくるまれた身体を折って深々と頭を下げた。
「おおそうか、それはよかった。ならば大丈夫だろう」
田山はにこやかに言葉を継ぐ。
「殿が、雪が溶け道が通じ次第、水輪温泉に湯治に行くようにとおおせだ。一月ばかりもゆっくり、すっかり弱った身体を癒すがよいと。なんともありがたい思し召しではござらぬか。なあ、大久保殿」
「……はい」
うなずく以外できなかった。田山はそんな由貴に眉を寄せ、
「具合が悪そうだな、もう休まれよ。くれぐれもお身体大事に」
と言うと、気を遣って早々に立ち去った。
「……由貴様……」
「寝る。お前もその間、少し休んだらいい」
なにか言いたげな小島を制し、だるい身体をゆっくり横たえる。
どう受け止めるべきなのだろう。素直に貴之の気遣いに感謝することができない。にがく、苦しく、申し訳なく、なにより不安だ。
十年暮らしたここを出る。城下を離れ、領内でも端の方にある湯治場で一月を過ごす。たったそれだけの自由が怖いのは、身体を壊して心細くなっているだけではない。
いざ出られるとなると、大事に守られ、ぬくぬく暮らしてきたここから放り出されるような気がする。ずっと望んでいたはずで自業自得なのに、とんだ被害妄想だ。
自嘲して歪めた頬に、かすかに震えていた貴之の指の感触がよみがえる。輪郭を持つ間もなく崩れていった言葉を思い出す。
最後の最後まで貴之を苦しめ、その想いと恩に報いることは、なに一つなかった。
源次郎は、うまくやっているのだろう。そうでなければ、好き嫌いが激しい貴之が、何度も足を運ぶわけがない。源次郎が多少なりとも、貴之の安らぎとなってくれれば、と思う。
裏切り続けたこの身の代わりに。
「ああ、みかんもまだ無理か」
すかさず、そばにいた貴之が背中をさすり、白湯を飲ませてくれる。貴之が自ら親身に看病をするのは、国許では紀美と由貴の他にはいないだろう。
由貴が寝こんで十日以上が過ぎていた。いくらか身体は楽になってきたが、それでもまだ熱があり、あまり食べ物も喉を通らない状態が続いている。
少しでも暇があればやってきて看病してくれる貴之の姿は、貴之がまだ部屋住みだった昔に、戻ったかのようだった。
「食べて精をつけねばならんのに、困ったなあ」
貴之は、いったいなにを思っているのか。弱さを見せたのもつかの間で、なにも問うことなく、こうして看病してくれる。江戸にいた昔に、今よりもずっと気ままでいられた頃に恋焦がれるような気持ちでいるのは、貴之も同じなのかも知れない。
いったいどこまで貴之に迷惑をかければ気が済むのか、と申し訳なさ、情けなさでいっぱいの反面、由貴ははしゃいでいるようでさえある貴之の表情に、安らぎにも似た思いを感じてもいた。
「さあ、もう横になれ」
貴之にいたわられ、助けられながら布団に横になる。由貴を寝かせると、貴之は立って火鉢の炭の様子を見て回った。貴之は自分がいる間は小島すら下がらせ、自ら雑用もこなしている。
「このみかんは、確か源次郎からの見舞いだったな」
由貴が食べられなかったみかんの残りを口にしながら、貴之は由貴の布団の横に寝転がった。
「あ、殿……」
「いい、構わん。俺の好きにさせてくれ」
貴之は肘枕をすると、空いた方の右手で由貴の胸のあたりをあやすようになではじめた。横顔に注がれる視線が恥ずかしく申し訳なく、由貴が目を閉じようとすると、貴之は言った。
「最近は、源次郎のところにも行っているぞ」
なにを言ってもそぐわない気がして、由貴は瞳で受けた。数瞬見交わした瞳は澄んで、責めるような色はおろか、なんの感情も感じられない。
胸のざらつきを覚えつつ、由貴は長いまつげを数度またたかせ、瞳を閉じた。すぐそばの貴之の息遣いを感じながら、ふと気づく。
源次郎、と貴之はさらりと呼んだ。ただ仕方なく通っているのではない、源次郎に情を感じ始めているのだろう。
こうなることを望んでいた。自分は飼い主に見向きもされず、ただ空に焦がれる籠の中の鳥のようにありたいと。だがいざそうなりかけてみれば、胸はざらつき、心の端をやすりで削られる。
人とは、本当に勝手なものだ。
「夢でも見ているのか」
貴之の指が、わずかに笑んだ由貴の頬にそっとふれる。その指は、かすかに震えていた。
「……早く雪が溶ければいい」
言葉は、口からこぼれた途端にほろさらと流れて、消えた。
それから数日後の昼、田山が由貴のもとを訪れた。見舞いという雰囲気ではなく深刻な顔つきで、粥一椀に梅干という昼餉を終えたばかりの由貴の布団の脇に座る。
「具合はどうかな、御典医はあとはゆっくり養生するだけだと申されていたが」
「おかげさまで、少しは物も食べられるようになりました」
布団の上に上体を起こした由貴は、分厚い綿入れにくるまれた身体を折って深々と頭を下げた。
「おおそうか、それはよかった。ならば大丈夫だろう」
田山はにこやかに言葉を継ぐ。
「殿が、雪が溶け道が通じ次第、水輪温泉に湯治に行くようにとおおせだ。一月ばかりもゆっくり、すっかり弱った身体を癒すがよいと。なんともありがたい思し召しではござらぬか。なあ、大久保殿」
「……はい」
うなずく以外できなかった。田山はそんな由貴に眉を寄せ、
「具合が悪そうだな、もう休まれよ。くれぐれもお身体大事に」
と言うと、気を遣って早々に立ち去った。
「……由貴様……」
「寝る。お前もその間、少し休んだらいい」
なにか言いたげな小島を制し、だるい身体をゆっくり横たえる。
どう受け止めるべきなのだろう。素直に貴之の気遣いに感謝することができない。にがく、苦しく、申し訳なく、なにより不安だ。
十年暮らしたここを出る。城下を離れ、領内でも端の方にある湯治場で一月を過ごす。たったそれだけの自由が怖いのは、身体を壊して心細くなっているだけではない。
いざ出られるとなると、大事に守られ、ぬくぬく暮らしてきたここから放り出されるような気がする。ずっと望んでいたはずで自業自得なのに、とんだ被害妄想だ。
自嘲して歪めた頬に、かすかに震えていた貴之の指の感触がよみがえる。輪郭を持つ間もなく崩れていった言葉を思い出す。
最後の最後まで貴之を苦しめ、その想いと恩に報いることは、なに一つなかった。
源次郎は、うまくやっているのだろう。そうでなければ、好き嫌いが激しい貴之が、何度も足を運ぶわけがない。源次郎が多少なりとも、貴之の安らぎとなってくれれば、と思う。
裏切り続けたこの身の代わりに。
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