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第四章
その一 一
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いつもと違う朝だった。
妙に寝覚めがよく、源次郎は布団に横たわったまま、強い違和感に思わずあたりを見回す。
しかし、頭上の天井はすっかり見慣れた御伽衆御殿のものだったし、ここに来るまでは着たこともない絹の寝巻きや布団といった、源次郎を取り巻く物達になに一つ変わりはない。
しばしの間のあと、ああ、とひとり納得して、源次郎はひそやかに笑った。
貴之の言葉だ。それを受けての自分の決意だ。ただそれだけで、ここに来て初めて安心して深く深く眠ったらしい。
人というものは、心がけ次第でどうとでもなるのか。自分でも苦笑せざるを得ない。
昨日一日で、貴之のあらゆる姿を見た。そう思い、それを喜び、抱き続けた鬱屈をあっさりかなぐり捨てた自分は、あまりに単純で、甘くて、愚かかも知れない。だがそれでいい。ともかく、こんなに寝覚めのいい朝は久し振りだ。
ここにいよう。ここにいて、弱さすらむき出しにし全身を投げ打つようにして愛しい者の心を求める、貴之を見守っていたい。
その姿は、とても大名家の当主とは思えなかった。怒鳴り、暴れる姿はただただ恐ろしかったが、夜わざわざ謝りにやってきた時のはかなさに、そのあまりの落差に胸を打たれた。
ぱたぱたぱた、と廊下を走る音が襖越しに遠く聞こえた。藤尾が寝坊でもしたのだろうか。仮に起床の刻限を過ぎていても、ここには窓もなく時計もなく、時を知るすべはない。
「源次郎様、お目覚めでござりますか」
息を切らし、よたついた声で、襖ごしに藤尾が言う。
「おう、どうした?」
笑いを含んだ声で返すと、藤尾が襖を開けた。
「遅くなり申し訳ござりませぬ、寝過ごしました……」
「おい顔色が悪いぞ、具合が悪いなら休め」
藤尾は寝過ごしたというものの、身だしなみの乱れはない。ただとにかく、顔色がよくない。朝から疲れているようだ。
「いえ、なんでもござりません。こちらでお召し替えを」
藤尾はいつものように、すでに火鉢に火を起こしてある着替えるための小部屋へ、源次郎を誘導した。
「あの、源次郎様……」
源次郎が脱いだ寝巻きを受け取りながら、藤尾がおずおずと言う。
思わず、源次郎は藤尾の顔を見つめた。昨日のことが気になるのだろうか。つい口の端が緩んで、それを見て藤尾が不安そうに眉を寄せる。
「……寒いぞ」
しかし、藤尾に話せることではない。俺を救え、とわめいた貴之。さらばと言った由貴の、あまりにも美しかった笑顔。それは、大切に秘めておくべきものだ。
「あっ、申し訳ござりませぬ」
藤尾はあわてて、源次郎に長着を着せかけた。だがなぜかその手はまごついて、いつもの手慣れた介添えを受ける心地よさがない。
「お前は今日はもう休め。朝餉の給仕も誰かに頼めばよい」
「いえ、決してそれがし、具合は悪くないのでござりますが……」
藤尾は、源次郎に言われて必死に弁解する。申し訳なさからか、泣きそうでさえある。
「いったいどうした?」
着替え終えて源次郎が居間の火鉢のそばに座ると、藤尾も源次郎の前にかしこまった。
「……あの、実は……。由貴様が急な病で伏せっておられまして、心配で心配でならないのでござります」
しばらく逡巡した後、藤尾は小声でそう言った。
「急な病? だいぶお悪いのか?」
さらば、と由貴は言った。
「よく分かりませぬが、お熱が高いと聞いております」
その笑顔は、星のない夜空に輝く月のように凛とした孤独さをまとい、心震えるほどの美しさだった。
まさか。まさか。ただそれしか思えず、源次郎の顔からも血の気が引いていく。
突然すぎる。昨日元気だった者が、なんの前触れもなくいきなり高熱に冒されるものだろうか。
藤尾の視線が刺さるようで、思わず見返す。藤尾ははっとして、くしゃくしゃに歪んだ顔を瞬間的にそむけた。
「お見舞いを。お前も来い」
「は、いやしかし……」
立ち上がりかけてすぐ、火鉢のへりに肘を置いて座り直し、源次郎は額を押さえた。
「そうか、かえって失礼だな」
ここでは、具合が悪い、ならばお見舞いに、と気軽に思いのままに動くことができない。同じ屋根の下に住んでいながら、正式な訪問となれば最低でも前日までには訪問の意向を伝え、相手の都合を聞くという段取りを踏む。見舞いならばなおさらだ。そうしなければ、小姓や役人達に迷惑がかかる。
それがここでは当たり前で、かいがいしく世話をされるのにすっかり慣れてしまったように、下々の暮らしとは違う煩雑さやしきたりを、やがて自分も当然のものとするのだろう。
ここの人間になるとはそういうことだが、やはり少しのさみしさも感じずにはいられない。
妙に寝覚めがよく、源次郎は布団に横たわったまま、強い違和感に思わずあたりを見回す。
しかし、頭上の天井はすっかり見慣れた御伽衆御殿のものだったし、ここに来るまでは着たこともない絹の寝巻きや布団といった、源次郎を取り巻く物達になに一つ変わりはない。
しばしの間のあと、ああ、とひとり納得して、源次郎はひそやかに笑った。
貴之の言葉だ。それを受けての自分の決意だ。ただそれだけで、ここに来て初めて安心して深く深く眠ったらしい。
人というものは、心がけ次第でどうとでもなるのか。自分でも苦笑せざるを得ない。
昨日一日で、貴之のあらゆる姿を見た。そう思い、それを喜び、抱き続けた鬱屈をあっさりかなぐり捨てた自分は、あまりに単純で、甘くて、愚かかも知れない。だがそれでいい。ともかく、こんなに寝覚めのいい朝は久し振りだ。
ここにいよう。ここにいて、弱さすらむき出しにし全身を投げ打つようにして愛しい者の心を求める、貴之を見守っていたい。
その姿は、とても大名家の当主とは思えなかった。怒鳴り、暴れる姿はただただ恐ろしかったが、夜わざわざ謝りにやってきた時のはかなさに、そのあまりの落差に胸を打たれた。
ぱたぱたぱた、と廊下を走る音が襖越しに遠く聞こえた。藤尾が寝坊でもしたのだろうか。仮に起床の刻限を過ぎていても、ここには窓もなく時計もなく、時を知るすべはない。
「源次郎様、お目覚めでござりますか」
息を切らし、よたついた声で、襖ごしに藤尾が言う。
「おう、どうした?」
笑いを含んだ声で返すと、藤尾が襖を開けた。
「遅くなり申し訳ござりませぬ、寝過ごしました……」
「おい顔色が悪いぞ、具合が悪いなら休め」
藤尾は寝過ごしたというものの、身だしなみの乱れはない。ただとにかく、顔色がよくない。朝から疲れているようだ。
「いえ、なんでもござりません。こちらでお召し替えを」
藤尾はいつものように、すでに火鉢に火を起こしてある着替えるための小部屋へ、源次郎を誘導した。
「あの、源次郎様……」
源次郎が脱いだ寝巻きを受け取りながら、藤尾がおずおずと言う。
思わず、源次郎は藤尾の顔を見つめた。昨日のことが気になるのだろうか。つい口の端が緩んで、それを見て藤尾が不安そうに眉を寄せる。
「……寒いぞ」
しかし、藤尾に話せることではない。俺を救え、とわめいた貴之。さらばと言った由貴の、あまりにも美しかった笑顔。それは、大切に秘めておくべきものだ。
「あっ、申し訳ござりませぬ」
藤尾はあわてて、源次郎に長着を着せかけた。だがなぜかその手はまごついて、いつもの手慣れた介添えを受ける心地よさがない。
「お前は今日はもう休め。朝餉の給仕も誰かに頼めばよい」
「いえ、決してそれがし、具合は悪くないのでござりますが……」
藤尾は、源次郎に言われて必死に弁解する。申し訳なさからか、泣きそうでさえある。
「いったいどうした?」
着替え終えて源次郎が居間の火鉢のそばに座ると、藤尾も源次郎の前にかしこまった。
「……あの、実は……。由貴様が急な病で伏せっておられまして、心配で心配でならないのでござります」
しばらく逡巡した後、藤尾は小声でそう言った。
「急な病? だいぶお悪いのか?」
さらば、と由貴は言った。
「よく分かりませぬが、お熱が高いと聞いております」
その笑顔は、星のない夜空に輝く月のように凛とした孤独さをまとい、心震えるほどの美しさだった。
まさか。まさか。ただそれしか思えず、源次郎の顔からも血の気が引いていく。
突然すぎる。昨日元気だった者が、なんの前触れもなくいきなり高熱に冒されるものだろうか。
藤尾の視線が刺さるようで、思わず見返す。藤尾ははっとして、くしゃくしゃに歪んだ顔を瞬間的にそむけた。
「お見舞いを。お前も来い」
「は、いやしかし……」
立ち上がりかけてすぐ、火鉢のへりに肘を置いて座り直し、源次郎は額を押さえた。
「そうか、かえって失礼だな」
ここでは、具合が悪い、ならばお見舞いに、と気軽に思いのままに動くことができない。同じ屋根の下に住んでいながら、正式な訪問となれば最低でも前日までには訪問の意向を伝え、相手の都合を聞くという段取りを踏む。見舞いならばなおさらだ。そうしなければ、小姓や役人達に迷惑がかかる。
それがここでは当たり前で、かいがいしく世話をされるのにすっかり慣れてしまったように、下々の暮らしとは違う煩雑さやしきたりを、やがて自分も当然のものとするのだろう。
ここの人間になるとはそういうことだが、やはり少しのさみしさも感じずにはいられない。
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