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第四章
その一 二
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朝餉が済むのを見計らったかのように、田山がやってきた。源次郎は思わず、田山の顔色をうかがう。眉は暗くひそめられ、由貴があまりよくないらしいのが伝わってくる。
「藤尾から聞いたかも知れぬが、大久保殿はとても人に会える状態ではない。お許しが出るまで、訪問は慎んで下され。見舞いの品などもご不要」
「そんなにお悪いのでございますか」
「うん、いや、大丈夫でござろう。あまり心配なされぬように」
どうも歯切れが悪い。しかし、命に関わるほどだったら、田山自らがこれだけを言いに来る余裕はないようにも思われた。
「田山様、田山様! どちらにいらっしゃいますか、殿のお渡りでござります」
田山の部下の声が廊下に響く。
「なんと、これはいかん。失礼する」
大慌てで去っていく田山。貴之は毎朝、奥御殿の仏間で紀美とともに先祖代々の位牌を拝み、そのあと時間があれば御伽衆御殿にも寄っていくことがあった。
早速、由貴の見舞いに来たのだろうか。それとも、なにも知らずに顔だけを見に来たのだろうか。決して自分のものにならない、それでも愛してやまない者。あんなことがあった後で、貴之はどんな想いで由貴に相対するのだろう。
十年。長い年月だ。今思うと、初めて昼をともにした時、過去を振り返ってみせた由貴はひどくさみしげだった。その脳裏に去来していたのはなんだったのだろう。
十年。自分ならどうするだろう、と源次郎は考えた。貴之に大事にされ、狂おしく想われ、それでも心はどこか他にある。そんなことはできない気がする。そんな相手を十年も想い続けることも。
「藤尾、殿のお渡りだ」
田山の声が襖越しに聞こえて、源次郎は一瞬、頭が真っ白になった。
「源次郎様、お出迎えを」
こわばった顔の藤尾に促され、源次郎は半分呆然としたままその場に正座し、貴之を待つ。
たっだっだっだっ、とせわしなく足早に近づいてくる足音に、感情があらわれている。由貴の病を知り、気を昂ぶらせているのか。
次の間の襖が開く音。源次郎はぎこちなさを自覚しつつ、腰を折って平伏した。貴之のたてる衣擦れの音は鋭く寒く、同時に自分が求められているのかも知れないという、ほのかな幻想も抱かせる。
ここで生きようという決意はしたものの、そういった支えがわずかでもなければ、倒れてしまうのは確実だった。
「突然すまん」
どさりと座るなり言う声が震えているような気がして、引き寄せられるように顔を上げる。言葉を、失う。
貴之が泣いている。唇を噛みしめたその頬を、するりほろりと涙が流れ落ちていく。
つい数瞬呆然と見つめたあと、源次郎は小声で藤尾に下がるよう命じた。
二人きりになった。
「あの、殿……」
ただ一言声をかけるのさえ、声も身体も震えるほど緊張した。なぜ貴之が自分の所に来たのか、なぜ涙を隠そうともしないのか、その気持ちが読めない。
「……最悪だな」
貴之はつぶやき、乱暴に涙を拭く。
こういう時、自分はどうすべきなのか。源次郎は動けず、なにも言えなかった。
「お前も昨日、聞いていたならなんとなく分かったろう。由貴には、想い人がいる」
しおれはてた姿。九万石を背負うその身は今、由貴のことでいっぱいなのかも知れない。そう思うと、するすると幕が開くように、なぜか緊張が引いていった。
「俺は知っていて、そばに置いた。たまたま見て一目惚れしたその笑顔を、どうしても近くで見たかった。自分のものにしたかった。そんなのはたやすいことだと思った」
消え入りそうな声で、貴之は言う。深くうつむいた唇から紡がれる言葉は、口から出た途端崩れるかのようだ。源次郎が聞き逃すまいと思わず身を乗り出すと、貴之はちらりと源次郎を見て、ほんの少しだけ笑った。
「だがそれは、俺の思い上がりだった。それでも手放せず、あげくこのざまだ。とうとう由貴を追い詰めてしまった」
貴之の肩が揺れる。くくっ、と笑う声の壮絶な孤独。源次郎は背筋に寒気すら覚えた。
「そういう由貴だからこそ、俺は欲しかった。だがそれが……」
そうつぶやいたきり、貴之は口をつぐむ。
貴之も、由貴の病の意味をそう解釈した。それを認めざるをえない心中がどれほどつらいか、とても推しはかれるものではない。
しばらく、沈黙が続いた。この息苦しさをなんとかしたいと思わず動いて、源次郎は自分に為せることなどないことに気づき、小さく唇を噛む。
源次郎の思いを察したのか、貴之はよどんだ瞳をあげ、源次郎の膝の上の手にそっとふれる。
「笑ってくれ、それでも俺はいつかやよもやにすがり続けた。惚れた相手と一緒にしてやるなんて、死んでも嫌だった」
「殿……」
なぜこんな告白を自分にするのか。当然、とまどいはある。だが源次郎は、同時に少しのうれしさも感じていた。弱さも醜さも、貴之は隠さない。遠かった存在が、少しずつ近づいてくるようだ。
源次郎が思わず貴之の手を握り返すと、そっと避けられる。
「迷惑だな、朝からこんな話」
恥じるように笑い、貴之は床の間の置時計に目をやった。
「おお、もう行かねばならん」
そう言う声がわざとらしく、この場から逃れたい思いが透けて見えたのは、気のせいだろうか。
「いいえ、いいえ殿、迷惑など滅相もありませぬ」
必死の思いで、源次郎は去りかける貴之を見上げた。
「どうかいつでも、お寄り下さいませ」
貴之の表情がゆっくりゆっくり溶けて、柔らかな笑顔になる。その澄んだもろさを、源次郎は直視できなかった。
「今度は、夜来るぞ。それでもよいのか?」
からかうような視線の意味が分かるのに、しばらく時間がかかった。
「は、あ、あの……」
赤みが差した頬に、ふふ、と軽い笑い声が舞い降りる。
「……出会った頃のようだ」
たちまち貴之の表情が翳り、つぶやきを残して去っていく。
源次郎はその場に脱力した。出会った頃のようだ、というのは、間違いなく由貴と、ということだろう。
自分から触れてきたくせに、こちらから触れたらさりげなくかわされた。
初めて貴之のぬくもりを知った手を、源次郎は微笑を含んでしばらく見つめた。
「藤尾から聞いたかも知れぬが、大久保殿はとても人に会える状態ではない。お許しが出るまで、訪問は慎んで下され。見舞いの品などもご不要」
「そんなにお悪いのでございますか」
「うん、いや、大丈夫でござろう。あまり心配なされぬように」
どうも歯切れが悪い。しかし、命に関わるほどだったら、田山自らがこれだけを言いに来る余裕はないようにも思われた。
「田山様、田山様! どちらにいらっしゃいますか、殿のお渡りでござります」
田山の部下の声が廊下に響く。
「なんと、これはいかん。失礼する」
大慌てで去っていく田山。貴之は毎朝、奥御殿の仏間で紀美とともに先祖代々の位牌を拝み、そのあと時間があれば御伽衆御殿にも寄っていくことがあった。
早速、由貴の見舞いに来たのだろうか。それとも、なにも知らずに顔だけを見に来たのだろうか。決して自分のものにならない、それでも愛してやまない者。あんなことがあった後で、貴之はどんな想いで由貴に相対するのだろう。
十年。長い年月だ。今思うと、初めて昼をともにした時、過去を振り返ってみせた由貴はひどくさみしげだった。その脳裏に去来していたのはなんだったのだろう。
十年。自分ならどうするだろう、と源次郎は考えた。貴之に大事にされ、狂おしく想われ、それでも心はどこか他にある。そんなことはできない気がする。そんな相手を十年も想い続けることも。
「藤尾、殿のお渡りだ」
田山の声が襖越しに聞こえて、源次郎は一瞬、頭が真っ白になった。
「源次郎様、お出迎えを」
こわばった顔の藤尾に促され、源次郎は半分呆然としたままその場に正座し、貴之を待つ。
たっだっだっだっ、とせわしなく足早に近づいてくる足音に、感情があらわれている。由貴の病を知り、気を昂ぶらせているのか。
次の間の襖が開く音。源次郎はぎこちなさを自覚しつつ、腰を折って平伏した。貴之のたてる衣擦れの音は鋭く寒く、同時に自分が求められているのかも知れないという、ほのかな幻想も抱かせる。
ここで生きようという決意はしたものの、そういった支えがわずかでもなければ、倒れてしまうのは確実だった。
「突然すまん」
どさりと座るなり言う声が震えているような気がして、引き寄せられるように顔を上げる。言葉を、失う。
貴之が泣いている。唇を噛みしめたその頬を、するりほろりと涙が流れ落ちていく。
つい数瞬呆然と見つめたあと、源次郎は小声で藤尾に下がるよう命じた。
二人きりになった。
「あの、殿……」
ただ一言声をかけるのさえ、声も身体も震えるほど緊張した。なぜ貴之が自分の所に来たのか、なぜ涙を隠そうともしないのか、その気持ちが読めない。
「……最悪だな」
貴之はつぶやき、乱暴に涙を拭く。
こういう時、自分はどうすべきなのか。源次郎は動けず、なにも言えなかった。
「お前も昨日、聞いていたならなんとなく分かったろう。由貴には、想い人がいる」
しおれはてた姿。九万石を背負うその身は今、由貴のことでいっぱいなのかも知れない。そう思うと、するすると幕が開くように、なぜか緊張が引いていった。
「俺は知っていて、そばに置いた。たまたま見て一目惚れしたその笑顔を、どうしても近くで見たかった。自分のものにしたかった。そんなのはたやすいことだと思った」
消え入りそうな声で、貴之は言う。深くうつむいた唇から紡がれる言葉は、口から出た途端崩れるかのようだ。源次郎が聞き逃すまいと思わず身を乗り出すと、貴之はちらりと源次郎を見て、ほんの少しだけ笑った。
「だがそれは、俺の思い上がりだった。それでも手放せず、あげくこのざまだ。とうとう由貴を追い詰めてしまった」
貴之の肩が揺れる。くくっ、と笑う声の壮絶な孤独。源次郎は背筋に寒気すら覚えた。
「そういう由貴だからこそ、俺は欲しかった。だがそれが……」
そうつぶやいたきり、貴之は口をつぐむ。
貴之も、由貴の病の意味をそう解釈した。それを認めざるをえない心中がどれほどつらいか、とても推しはかれるものではない。
しばらく、沈黙が続いた。この息苦しさをなんとかしたいと思わず動いて、源次郎は自分に為せることなどないことに気づき、小さく唇を噛む。
源次郎の思いを察したのか、貴之はよどんだ瞳をあげ、源次郎の膝の上の手にそっとふれる。
「笑ってくれ、それでも俺はいつかやよもやにすがり続けた。惚れた相手と一緒にしてやるなんて、死んでも嫌だった」
「殿……」
なぜこんな告白を自分にするのか。当然、とまどいはある。だが源次郎は、同時に少しのうれしさも感じていた。弱さも醜さも、貴之は隠さない。遠かった存在が、少しずつ近づいてくるようだ。
源次郎が思わず貴之の手を握り返すと、そっと避けられる。
「迷惑だな、朝からこんな話」
恥じるように笑い、貴之は床の間の置時計に目をやった。
「おお、もう行かねばならん」
そう言う声がわざとらしく、この場から逃れたい思いが透けて見えたのは、気のせいだろうか。
「いいえ、いいえ殿、迷惑など滅相もありませぬ」
必死の思いで、源次郎は去りかける貴之を見上げた。
「どうかいつでも、お寄り下さいませ」
貴之の表情がゆっくりゆっくり溶けて、柔らかな笑顔になる。その澄んだもろさを、源次郎は直視できなかった。
「今度は、夜来るぞ。それでもよいのか?」
からかうような視線の意味が分かるのに、しばらく時間がかかった。
「は、あ、あの……」
赤みが差した頬に、ふふ、と軽い笑い声が舞い降りる。
「……出会った頃のようだ」
たちまち貴之の表情が翳り、つぶやきを残して去っていく。
源次郎はその場に脱力した。出会った頃のようだ、というのは、間違いなく由貴と、ということだろう。
自分から触れてきたくせに、こちらから触れたらさりげなくかわされた。
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