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第四章
その一 三
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昼でも暗い廊下を行く。外に面した小さな窓は当然閉ざされ、さらに厳重な雪囲いがされているせいで、ほとんど光が入ってこない。
それでも、長い冬の終わりが近づきつつあるのは確実だった。雪囲いが外されるのはまだ先の話だが、寒さはいくらかやわらぎつつあったし、雪の日も少なくなってきている。
源次郎は手水の帰りだった。そばに藤尾はいない。手水にまで小姓がついてきて世話をするのも、その度に着替える決まりにもどうしてもなじめなかった。
「なぜここまでしても御役御免にならぬ!」
いきなりの怒鳴り声。驚いた。この一角は、今空き部屋のはずだ。源次郎は気がとがめつつ、立ち止まって耳を澄ます。
「いくら悪さをしても、殿はなにもおっしゃらない。もう我慢できぬ、うんざりだ、気晴らしにも限度がある。もうほとほと嫌になった」
声の主は四郎だった。やはり、あの四郎の奔放な振る舞いは、わざとだったのだ。
「あまり大声を出すな、耐えよ」
困り果てた声は、田山。
「いつも、田山様はそれしかおっしゃらぬ。田山様なら、それがしをここから出せるのでは? それがしは金のために売られたようなもの。それはあなた様もよくご存じのはず」
田山は答えに困り、うめくような返事しかできないようだった。
「それにそれがしも田山様も、いやこの御殿のすべてが、もはや由貴のためだけにあるようなもの。つらい、それがしはつらいのでござります。許嫁ももうそれがしを待ってはおりますまい……」
語尾が涙で震えたようにも思え、源次郎は足音を立てないよう、細心の注意を払いながらその場を離れた。
他に想い人がいて、貴之に仕えながらひたすらその相手を想ってきた由貴。詳細は分からないが、ただここを出ることばかりを考えてきた四郎。決して二人が悪いとは思わないが、どちらか一人でも想いを貴之に向けていたら、と思う。少なくても、貴之が吹きすさぶ風のようになることはなかっただろう。
今からでも間にあうだろうか。自分になんとかできるだろうか。そう思うことすらおこがましいかも知れないが、貴之の心を、いくらかでも癒やせたらと思う。
仮に由貴の代わりだとしても、貴之は今ちょくちょく源次郎のところに顔を出すようになっている。話題が由貴のことばかりの貴之がかなしく、昼間しか来ないのがわずかにほっとする反面、どことなくさみしい。悔しい。
悔しい……。
源次郎は内心の思いなど誰にも悟られるわけがないのに、思わずあたりを見回した。廊下には、人の気配すらない。自らの行動に苦笑しながら、源次郎は慎重に感情を掘り出して確かめる。
悔しい。わずかではあるが、そんな感情が確かに存在していた。
由貴のことを語る時の、貴之の表情。凪いだ瞳。声音。そばで見聞きするたびに感じていた感情は、これだったのだ。
今はまだ小さなその感情を胸のうちで転がしながら、源次郎は由貴の病床で過ごす貴之を思った。
それから数日後。知らせは唐突すぎた。もう夕食も終わろうかという頃、夜伽の相手をせよ、という。源次郎の身辺はにわかに賑やかになり、あわただしくもきちんと手順を踏み、源次郎は真新しい白い夜着に身を包んで寝所に入った。
この部屋が使われるのはかなり久しぶりらしく、田山は慌てていた。これまでずっと、貴之はほとんど由貴の元にしか行かず、行けばそのまま由貴の寝所で休んでいたから、この部屋は半ば忘れられてさえいたのだ。
源次郎はそばに置かれた火鉢に身体を寄せた。身体の震えが寒さからくるものだけではないのは自覚していても、火のぬくもりにすがりたくなる。
正直、源次郎は怖かった。怯えていた。緊張の極致に、源次郎はいる。
事前に教えこまれた作法も、もうほとんど覚えていない。貴之にどんな顔で対すればいいのか。そこからもう分からない。
夜、この部屋で貴之の相手をする。押しつぶされそうに重い意味あいがある。昼と夜の間に、恐ろしいほどの差が存在するのだ。これが女ならば、貴之の子を授かることもありえるのだから、それも当然と言えた。そうは言っても、重すぎる。
貴之はそれが嫌だったのだろうか。想いにそんな意味をつけたくなかったのだろうか。それとも、そういう息苦しさを由貴には与えたくなかったのだろうか。
うらやましい。悔しい。結局は、そこに行き着く。
ふいに、足音。貴之だ。ついに、この時が来てしまった。
じっと緊張に耐えながら待つ。心臓はもはや、破れそうだ。
襖がすうっと音をたてて開かれる。綿の入った白い足袋が源次郎の視界を横切り、その場の空気をかき回した。
「待たせたな。寒かったろう」
貴之の深い声。碁盤に最初の一手を置くように静かに響く。夜伽のためだけにあるこの部屋に。
声という生の存在感を間近にした途端、これから貴之に抱かれるのだという事実が、源次郎の鼻先で鋭く匂いたった。寒さも礼も忘れ、源次郎はその場から微動だにできない。
「さあ、こちらへ参れ」
布団の上に座った貴之に手を引かれる。ぬくもりがふれあった刹那、源次郎は破裂寸前の心臓をたたかれたかのような息苦しさを覚えた。
身体の動きも気持ちも貴之の動きについていけない。半分崩れた体勢のままいきなり抱きしめられ、息が止まるかとすら思った。
「寒さは、睦みあうのによい」
貴之はそう言って軽い笑い声を立てながら、硬直している源次郎の身体をあやすように揺らした。
「初めてか」
相変わらず貴之を見ることができないまま、うなずく。すると貴之は源次郎の両肩をつかみ、少し乱暴に身体を引き剥がすようにした。
「俺の顔を見ろ」
厳しい声に心が縮む。従わねば、余計に怒らせてしまうだろう。源次郎は意を決して、おずおずと顔を上げる。
意外にも貴之は、冬の陽だまりのような微笑みを浮かべていた。
「最初に聞いておきたい。俺はもう、過ちを繰り返したくないのだ。抱かれるのが嫌だと言うなら、これ以上なにもせぬ。ただ、朝まで並んで眠ろう」
おいたわしい。なによりまず、そう思った。涙が出そうなほどあたたかな笑み。その瞳がたたえるかなしみは、あまりに深い。
「……いえ、あの、それがしは……」
貴之の息遣いもぬくもりも鼓動も、溶けあうほどそばにある。今この距離で思うままを口にするなど……。
「愛い奴だ。よい、お前の心は伝わった」
ちゅ、とくすぐったい音をたて、貴之は源次郎の唇に小さく口づけた。源次郎は思わず逃げるように、耳まで熱くなった顔を貴之の肩に埋める。
壊れ物を扱うように、腕に抱いた源次郎の身体をそうっと布団に横たわらせる貴之。視線が絡みあう。熱くせり上がる歓喜に、源次郎は息を飲んだ。
ああ、この方にならこの身を捧げられる……。
それは自らの決意とは関係ない、啓示にも似た確信だった。きつく抱きあった瞬間、源次郎は我を忘れた。
それでも、長い冬の終わりが近づきつつあるのは確実だった。雪囲いが外されるのはまだ先の話だが、寒さはいくらかやわらぎつつあったし、雪の日も少なくなってきている。
源次郎は手水の帰りだった。そばに藤尾はいない。手水にまで小姓がついてきて世話をするのも、その度に着替える決まりにもどうしてもなじめなかった。
「なぜここまでしても御役御免にならぬ!」
いきなりの怒鳴り声。驚いた。この一角は、今空き部屋のはずだ。源次郎は気がとがめつつ、立ち止まって耳を澄ます。
「いくら悪さをしても、殿はなにもおっしゃらない。もう我慢できぬ、うんざりだ、気晴らしにも限度がある。もうほとほと嫌になった」
声の主は四郎だった。やはり、あの四郎の奔放な振る舞いは、わざとだったのだ。
「あまり大声を出すな、耐えよ」
困り果てた声は、田山。
「いつも、田山様はそれしかおっしゃらぬ。田山様なら、それがしをここから出せるのでは? それがしは金のために売られたようなもの。それはあなた様もよくご存じのはず」
田山は答えに困り、うめくような返事しかできないようだった。
「それにそれがしも田山様も、いやこの御殿のすべてが、もはや由貴のためだけにあるようなもの。つらい、それがしはつらいのでござります。許嫁ももうそれがしを待ってはおりますまい……」
語尾が涙で震えたようにも思え、源次郎は足音を立てないよう、細心の注意を払いながらその場を離れた。
他に想い人がいて、貴之に仕えながらひたすらその相手を想ってきた由貴。詳細は分からないが、ただここを出ることばかりを考えてきた四郎。決して二人が悪いとは思わないが、どちらか一人でも想いを貴之に向けていたら、と思う。少なくても、貴之が吹きすさぶ風のようになることはなかっただろう。
今からでも間にあうだろうか。自分になんとかできるだろうか。そう思うことすらおこがましいかも知れないが、貴之の心を、いくらかでも癒やせたらと思う。
仮に由貴の代わりだとしても、貴之は今ちょくちょく源次郎のところに顔を出すようになっている。話題が由貴のことばかりの貴之がかなしく、昼間しか来ないのがわずかにほっとする反面、どことなくさみしい。悔しい。
悔しい……。
源次郎は内心の思いなど誰にも悟られるわけがないのに、思わずあたりを見回した。廊下には、人の気配すらない。自らの行動に苦笑しながら、源次郎は慎重に感情を掘り出して確かめる。
悔しい。わずかではあるが、そんな感情が確かに存在していた。
由貴のことを語る時の、貴之の表情。凪いだ瞳。声音。そばで見聞きするたびに感じていた感情は、これだったのだ。
今はまだ小さなその感情を胸のうちで転がしながら、源次郎は由貴の病床で過ごす貴之を思った。
それから数日後。知らせは唐突すぎた。もう夕食も終わろうかという頃、夜伽の相手をせよ、という。源次郎の身辺はにわかに賑やかになり、あわただしくもきちんと手順を踏み、源次郎は真新しい白い夜着に身を包んで寝所に入った。
この部屋が使われるのはかなり久しぶりらしく、田山は慌てていた。これまでずっと、貴之はほとんど由貴の元にしか行かず、行けばそのまま由貴の寝所で休んでいたから、この部屋は半ば忘れられてさえいたのだ。
源次郎はそばに置かれた火鉢に身体を寄せた。身体の震えが寒さからくるものだけではないのは自覚していても、火のぬくもりにすがりたくなる。
正直、源次郎は怖かった。怯えていた。緊張の極致に、源次郎はいる。
事前に教えこまれた作法も、もうほとんど覚えていない。貴之にどんな顔で対すればいいのか。そこからもう分からない。
夜、この部屋で貴之の相手をする。押しつぶされそうに重い意味あいがある。昼と夜の間に、恐ろしいほどの差が存在するのだ。これが女ならば、貴之の子を授かることもありえるのだから、それも当然と言えた。そうは言っても、重すぎる。
貴之はそれが嫌だったのだろうか。想いにそんな意味をつけたくなかったのだろうか。それとも、そういう息苦しさを由貴には与えたくなかったのだろうか。
うらやましい。悔しい。結局は、そこに行き着く。
ふいに、足音。貴之だ。ついに、この時が来てしまった。
じっと緊張に耐えながら待つ。心臓はもはや、破れそうだ。
襖がすうっと音をたてて開かれる。綿の入った白い足袋が源次郎の視界を横切り、その場の空気をかき回した。
「待たせたな。寒かったろう」
貴之の深い声。碁盤に最初の一手を置くように静かに響く。夜伽のためだけにあるこの部屋に。
声という生の存在感を間近にした途端、これから貴之に抱かれるのだという事実が、源次郎の鼻先で鋭く匂いたった。寒さも礼も忘れ、源次郎はその場から微動だにできない。
「さあ、こちらへ参れ」
布団の上に座った貴之に手を引かれる。ぬくもりがふれあった刹那、源次郎は破裂寸前の心臓をたたかれたかのような息苦しさを覚えた。
身体の動きも気持ちも貴之の動きについていけない。半分崩れた体勢のままいきなり抱きしめられ、息が止まるかとすら思った。
「寒さは、睦みあうのによい」
貴之はそう言って軽い笑い声を立てながら、硬直している源次郎の身体をあやすように揺らした。
「初めてか」
相変わらず貴之を見ることができないまま、うなずく。すると貴之は源次郎の両肩をつかみ、少し乱暴に身体を引き剥がすようにした。
「俺の顔を見ろ」
厳しい声に心が縮む。従わねば、余計に怒らせてしまうだろう。源次郎は意を決して、おずおずと顔を上げる。
意外にも貴之は、冬の陽だまりのような微笑みを浮かべていた。
「最初に聞いておきたい。俺はもう、過ちを繰り返したくないのだ。抱かれるのが嫌だと言うなら、これ以上なにもせぬ。ただ、朝まで並んで眠ろう」
おいたわしい。なによりまず、そう思った。涙が出そうなほどあたたかな笑み。その瞳がたたえるかなしみは、あまりに深い。
「……いえ、あの、それがしは……」
貴之の息遣いもぬくもりも鼓動も、溶けあうほどそばにある。今この距離で思うままを口にするなど……。
「愛い奴だ。よい、お前の心は伝わった」
ちゅ、とくすぐったい音をたて、貴之は源次郎の唇に小さく口づけた。源次郎は思わず逃げるように、耳まで熱くなった顔を貴之の肩に埋める。
壊れ物を扱うように、腕に抱いた源次郎の身体をそうっと布団に横たわらせる貴之。視線が絡みあう。熱くせり上がる歓喜に、源次郎は息を飲んだ。
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