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第四章
その二 三
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よく晴れた、あたたかな昼下がり。源次郎は貴之とともに庭に出て、ほころび始めた桜を眺めていた。風が心地いい。
「由貴に使いをやった」
陽射しに目を細め、唐突に貴之が言う。
「さようでござりますか」
貴之は機嫌よくうなずき、そばに置かれている縁台に腰を下ろす。そこにちょうどよく藤尾が茶を持ってきた。
「この桜も、うれしかろうなあ」
早速藤尾が持ってきた湯のみを手にしながら、つぶやく貴之。
「出番は、春だけでござりますからね」
「確かにな。花が散れば葉に虫がついて嫌われる」
屈託なく笑う貴之の横顔を、源次郎はうれしく眺めた。
とうとう、春が来た。由貴になんと言ってやったのか、貴之は言わない。それでも、貴之が誰にとってもいいように取り計らうだろうことは、疑いなかった。
もうしばらくすれば、桜も見ごろになる。
「花見を楽しみにしておれよ」
源次郎の心を見透かしたように、貴之が笑った。二人の頭上で、空は気持ちよさげに晴れ渡っている。
由貴が御伽衆御殿に戻ってきた。一月ばかりを湯治場で過ごした由貴は顔がふっくらとし、すっかり元気になって戻ってきたという話だった。すぐにでも訪ねようと思いながら、なぜか源次郎はそうできないまま数日を過ごした。
そうしているうちに、家中上げての花見同様、恒例になっている春の上覧試合の日を迎えた。この日は一日かけて、藩士達が剣術、弓術、それに馬術の腕前を当主である貴之の前で披露する。事前に選りすぐられた者達が、厳しい冬の間も怠らず磨いた技の限りを尽くし、勝利者には貴之直々に褒美を与える決まりだ。
選ばれただけでも名誉のこの上覧試合で、若くして軍事の重役にある琢馬は、模範を示すかのように、ここ数年剣術の部で負けなしだという。御伽衆からは弓がよくできる四郎が選ばれていた。
「源次郎殿、挨拶が遅れて申し訳ない。このとおり、おかげさまで元気になって戻ることができもうした」
控えの間で、由貴が源次郎を見つけるなり声をかけてきた。
誰に対しても腰が低い由貴らしい、丁重な挨拶。笑顔はさっぱりとして明るく、由貴はこの一月で身体はもちろん精神も、湯治で磨いたように思われた。
「こちらこそ、すぐうかがうべきところをご無礼いたしました」
思わず、源次郎は由貴の顔を見つめてしまう。
穏やかな表情に、すっと一本筋が入ったような安定感がある。それは、琢馬が与えたものなのだろうか。
「上覧試合は初めてでござろう、見応えがあるぞ」
「はい、楽しみにしておりました」
由貴と話したいのに、言いたいことも多い気がするのに、それ以上言葉が出てこない。しばらく黙ったままでいると、目の前の由貴がさらりと衣ずれの音をさせた。
「どうなされた?」
はっとして視線を上げたその先に、屈託ない笑顔。ちり、と心の端が焦げるような感覚。湯治場での一月を、由貴は幸せのうちに過ごしたのだろう。その間、由貴は貴之のことを思う瞬間があっただろうか。
「いえ、なんでもございません」
その一言で、気持ちを切り替える。そろそろ参ろうか、という由貴の声に、源次郎もその後に続いて庭に面した座敷に通った。源次郎も由貴も、中央に貴之の席を空けて居並ぶ重臣達の後ろに席を与えられている。
「殿のお成りでござりまする」
しばらくすると、高らかに小姓が声をあげ、貴之が姿をあらわした。座敷に居並ぶ者も庭を取り巻いて立っている藩士達も、いっせいに頭を下げる。
さざ波に似た衣ずれの音が広い庭を包みこむ。その厳粛さと貴之の威厳に、源次郎は鳥肌が立つような気持ちの高ぶりを覚えた。貴之が背負う九万石の領地と大勢の藩士達の重みだ。
まずは馬術の披露だった。進藤一家を大井家に呼んだ張本人、家老の明石が一番手で、その登場に場はそれだけで沸いた。いかにも文人といった線の細い外見に似合わぬ見事で豪快な技に、思わずため息が漏れる。
人は一つ二つ、意外なものを隠し持っているものだ。由貴の秘め続けた恋も、貴之の弱さも、それだ。
自分は、と源次郎が考えようとした時、庭に四郎が弓を持って出てきた。白い筒袖に漆黒の袴が凛々しい。
ふと、やけに全身に力が入っている田山の姿が目に入る。田山は一喜一憂を隠さず、試合を心から楽しみ、応援していた。それを笑みを含んで見ているうち、いつの間にか四郎の番が終わってしまった。
「剣術の部は、四半刻(約三十分)の休憩の後といたしまする」
上覧試合が一番盛り上がるのは、当然手練れの剣士達が激しくぶつかりあう剣術の部で、藩士達の楽しみもそこにある。係が告げた途端にざわめく藩士達の顔には、高揚が見てとれた。
貴之が控えの間へと去り、それに続いて重役達も席を立つ。源次郎と由貴も連れ立って、割り当てられた控えの間に行き茶を飲んだ。
「いよいよトリの剣術試合、楽しみでござりますね」
「さすがに、今年も神道無念流の宮崎琢馬が優勝とはいかないだろうな」
ふわ、と笑い、さらりと琢馬の名を自ら口にする由貴。源次郎は驚きに呆けて、由貴の顔を見た。
さらばだ、と言った笑顔が思い出される。美しかったあの笑顔。今同じく笑う由貴は、心中なにを思っているのか。
「湯治場では暇ゆえ、これ幸いと稽古に励んでおったが、そう毎年勝ってもつまらぬ」
「はあ、それはそうでござりますが……」
何事にも不器用な由貴に、琢馬の相手ができるはずもない。一人稽古する琢馬を眺め、日に何度か湯に浸かる、ただそれだけの日々。それが由貴をこんなふうにしたのなら、自分も貴之とただともに在る日々の中で、そうなっていけるのだろうか。
源次郎はかすかに苦笑した。羨望、嫉妬、反発と対抗に似た思い。絡まった糸のようだ。
「楽しみといえば、花見も楽しみだ。数日に分けて、殿は家中の者全員と時をともにされる。他家ではそんなことはないだろう?」
誇らしげな由貴の横顔。ゆったりした笑みを含んで遠くを見る瞳。光を帯びた長いまつげのまたたきが美しい。
貴之は由貴に一目惚れし、すべてが自分のものにならないことにいらだち、もがき、それでもあきらめられなかった、と言う。そういうものが自分にはない、と源次郎は思う。いったい貴之が自分のどこを気に入ったのか、分かっているつもりだが時々不安になる。
貴之が由貴の心を求め続けたように、強く長く続くのだろうかと。ずっとともに時を重ねていくことが、本当に可能なのだろうかと。
比べてはならないと自分に言い聞かせても、つい比べてしまう。十年もの間想いを注がれ続けた身を前にすれば、なおさらだ。
「ご一同、そろそろ始まりますぞ!」
「由貴に使いをやった」
陽射しに目を細め、唐突に貴之が言う。
「さようでござりますか」
貴之は機嫌よくうなずき、そばに置かれている縁台に腰を下ろす。そこにちょうどよく藤尾が茶を持ってきた。
「この桜も、うれしかろうなあ」
早速藤尾が持ってきた湯のみを手にしながら、つぶやく貴之。
「出番は、春だけでござりますからね」
「確かにな。花が散れば葉に虫がついて嫌われる」
屈託なく笑う貴之の横顔を、源次郎はうれしく眺めた。
とうとう、春が来た。由貴になんと言ってやったのか、貴之は言わない。それでも、貴之が誰にとってもいいように取り計らうだろうことは、疑いなかった。
もうしばらくすれば、桜も見ごろになる。
「花見を楽しみにしておれよ」
源次郎の心を見透かしたように、貴之が笑った。二人の頭上で、空は気持ちよさげに晴れ渡っている。
由貴が御伽衆御殿に戻ってきた。一月ばかりを湯治場で過ごした由貴は顔がふっくらとし、すっかり元気になって戻ってきたという話だった。すぐにでも訪ねようと思いながら、なぜか源次郎はそうできないまま数日を過ごした。
そうしているうちに、家中上げての花見同様、恒例になっている春の上覧試合の日を迎えた。この日は一日かけて、藩士達が剣術、弓術、それに馬術の腕前を当主である貴之の前で披露する。事前に選りすぐられた者達が、厳しい冬の間も怠らず磨いた技の限りを尽くし、勝利者には貴之直々に褒美を与える決まりだ。
選ばれただけでも名誉のこの上覧試合で、若くして軍事の重役にある琢馬は、模範を示すかのように、ここ数年剣術の部で負けなしだという。御伽衆からは弓がよくできる四郎が選ばれていた。
「源次郎殿、挨拶が遅れて申し訳ない。このとおり、おかげさまで元気になって戻ることができもうした」
控えの間で、由貴が源次郎を見つけるなり声をかけてきた。
誰に対しても腰が低い由貴らしい、丁重な挨拶。笑顔はさっぱりとして明るく、由貴はこの一月で身体はもちろん精神も、湯治で磨いたように思われた。
「こちらこそ、すぐうかがうべきところをご無礼いたしました」
思わず、源次郎は由貴の顔を見つめてしまう。
穏やかな表情に、すっと一本筋が入ったような安定感がある。それは、琢馬が与えたものなのだろうか。
「上覧試合は初めてでござろう、見応えがあるぞ」
「はい、楽しみにしておりました」
由貴と話したいのに、言いたいことも多い気がするのに、それ以上言葉が出てこない。しばらく黙ったままでいると、目の前の由貴がさらりと衣ずれの音をさせた。
「どうなされた?」
はっとして視線を上げたその先に、屈託ない笑顔。ちり、と心の端が焦げるような感覚。湯治場での一月を、由貴は幸せのうちに過ごしたのだろう。その間、由貴は貴之のことを思う瞬間があっただろうか。
「いえ、なんでもございません」
その一言で、気持ちを切り替える。そろそろ参ろうか、という由貴の声に、源次郎もその後に続いて庭に面した座敷に通った。源次郎も由貴も、中央に貴之の席を空けて居並ぶ重臣達の後ろに席を与えられている。
「殿のお成りでござりまする」
しばらくすると、高らかに小姓が声をあげ、貴之が姿をあらわした。座敷に居並ぶ者も庭を取り巻いて立っている藩士達も、いっせいに頭を下げる。
さざ波に似た衣ずれの音が広い庭を包みこむ。その厳粛さと貴之の威厳に、源次郎は鳥肌が立つような気持ちの高ぶりを覚えた。貴之が背負う九万石の領地と大勢の藩士達の重みだ。
まずは馬術の披露だった。進藤一家を大井家に呼んだ張本人、家老の明石が一番手で、その登場に場はそれだけで沸いた。いかにも文人といった線の細い外見に似合わぬ見事で豪快な技に、思わずため息が漏れる。
人は一つ二つ、意外なものを隠し持っているものだ。由貴の秘め続けた恋も、貴之の弱さも、それだ。
自分は、と源次郎が考えようとした時、庭に四郎が弓を持って出てきた。白い筒袖に漆黒の袴が凛々しい。
ふと、やけに全身に力が入っている田山の姿が目に入る。田山は一喜一憂を隠さず、試合を心から楽しみ、応援していた。それを笑みを含んで見ているうち、いつの間にか四郎の番が終わってしまった。
「剣術の部は、四半刻(約三十分)の休憩の後といたしまする」
上覧試合が一番盛り上がるのは、当然手練れの剣士達が激しくぶつかりあう剣術の部で、藩士達の楽しみもそこにある。係が告げた途端にざわめく藩士達の顔には、高揚が見てとれた。
貴之が控えの間へと去り、それに続いて重役達も席を立つ。源次郎と由貴も連れ立って、割り当てられた控えの間に行き茶を飲んだ。
「いよいよトリの剣術試合、楽しみでござりますね」
「さすがに、今年も神道無念流の宮崎琢馬が優勝とはいかないだろうな」
ふわ、と笑い、さらりと琢馬の名を自ら口にする由貴。源次郎は驚きに呆けて、由貴の顔を見た。
さらばだ、と言った笑顔が思い出される。美しかったあの笑顔。今同じく笑う由貴は、心中なにを思っているのか。
「湯治場では暇ゆえ、これ幸いと稽古に励んでおったが、そう毎年勝ってもつまらぬ」
「はあ、それはそうでござりますが……」
何事にも不器用な由貴に、琢馬の相手ができるはずもない。一人稽古する琢馬を眺め、日に何度か湯に浸かる、ただそれだけの日々。それが由貴をこんなふうにしたのなら、自分も貴之とただともに在る日々の中で、そうなっていけるのだろうか。
源次郎はかすかに苦笑した。羨望、嫉妬、反発と対抗に似た思い。絡まった糸のようだ。
「楽しみといえば、花見も楽しみだ。数日に分けて、殿は家中の者全員と時をともにされる。他家ではそんなことはないだろう?」
誇らしげな由貴の横顔。ゆったりした笑みを含んで遠くを見る瞳。光を帯びた長いまつげのまたたきが美しい。
貴之は由貴に一目惚れし、すべてが自分のものにならないことにいらだち、もがき、それでもあきらめられなかった、と言う。そういうものが自分にはない、と源次郎は思う。いったい貴之が自分のどこを気に入ったのか、分かっているつもりだが時々不安になる。
貴之が由貴の心を求め続けたように、強く長く続くのだろうかと。ずっとともに時を重ねていくことが、本当に可能なのだろうかと。
比べてはならないと自分に言い聞かせても、つい比べてしまう。十年もの間想いを注がれ続けた身を前にすれば、なおさらだ。
「ご一同、そろそろ始まりますぞ!」
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