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第四部 至高の奥園
43再び焔野を翔る②
しおりを挟む長いたてがみを靡かせた二頭の神馬は、光陰のごとく、地底の王都を一翔けに跨ぎ越した。
闇の空に聳える数々の望楼、針のごとき尖塔のたぐいはたちまち後方へと遠ざかり、彼らは冥府を出でて冥界の入口(暗黒界)方面へと向かっていた。
双神の放つ神司は沖天に漂う瘴気を、真っ二つに切り裂くように鋭利であった。
共にあることでより高まり合う司の、その威容を前にして、宙を徘徊する魔獣どもは往く手を阻むことすら能わぬ。
……地底に広がる死の荒野の上空を、血の色をした湖の真上を、巌に覆われた狭き窟門を、嚆矢の如き羽音を響かせながら二騎は翔け抜ける。
先導する冥王の優美な騎影を眺めつつナシェルは、今まで王に対して抱いてきた好悪さまざまな感情の変遷を想い起こす。
それは彼ら双神の、親子としての、半身としての、伴侶としての歴史に他ならない。
強大な運命への畏怖。
その愛を受け止めねばならぬという義務感。
稚いころの純粋な思慕と忠誠。
途切れることのなかった尊敬。
継母を間に置いたことによる嫉妬。
父の、堕神の宿命への憐憫。
父と子に有りがちな反撥。
堕とされたことへの憎しみ。
狂気への辟易。
寵への猜疑。
神司への欲望。
華麗な美への崇拝。
決して並び得ぬという敗北感。
はじめは植えつけられ、いつしか己の一部となっていった劣情。
そしてそれら全てを差し置いて擁き続けた「甘え」……。
冥王はナシェルの、移ろい易きそれらの感情と態度に対し、常に一貫した答をもって応じてきた。
思えば迷うべき小路のない、一本の大道のような導きであった。
ナシェルはあらためて感ずる。己が千々に思い乱れ、時としてその葛藤を激しく王にぶつけてきた理由は全て、それらの感情を、その先にあるひとくくりの「傑出した言葉」に集約することを、ためらっていたからこそなのだと。
そう……。そうした様々な感情はすべて、今こうして轡をならべているとき自分が王に対して抱いている、この激しい究極の想いに繋がるために次々と生まれ、そして役目を終えて消えていったのだ。
身の内から湧き立つような、ほとばしるようなこの究極の感情を、愛などというそのたった一つの単語に封じ込めるのは至難の業だ。……そんな言葉では、とうてい無理だ。
だが今、心に満ちているこの穏やかな激情を、それ以外に、いったいどのように表せば良いのだろう……。
私の王よ。我が血のあるじよ。貴方を今、心の底からかけがえのないものだと思う。
わたしに命を与えてくれ、育み、さまざまな愛を教えてくれた貴方を……。
時にその重みと、血の束縛は私を苦しめるものであった。
けれど今はもう、私の内に迷いはない。
貴方の背を見つめてこうして行くことを、寸分も躊躇わない。
……いや、違う。
貴方の背後ではなく、貴方の隣にちゃんと立ち、これからは貴方とともに舳を見つめて往こう。
貴方に与えられたものを私の中で育み、これからは同じ強さで貴方に返してゆこう……。
新たな境地に立ち得た歓びに、軽い興奮すら覚えた。
ナシェルは乗騎に拍車をかけ、速度を上げて闇嶺の隣に並んだ。
『夜のなかの夜』を吹き荒ぶ風は、耳先を凍りつかせるほどに冷たく澄んでいた。
王は、馬首を揃えてきたナシェルを、曇りなき眼差しで捉えた。
視線で愛を訴えかけるナシェルに、王は泰然と……、ただ慈しみのこもった肯きで応ずる。
その紅炎の瞳に穿たれるときの甘い痺れ。
それによって、ナシェルの身の内の疼きは静かに、満たされていった。
この世に数多ある言葉の全ては、この限りない究極の想いの前にはどれも、なんと空虚である事だろう。どの言語を用いても、どれだけ尽くしても足りぬ気がする。
ならば貴方への愛を表すのに言葉は要らぬ。
ただ貴方と私、……傍らに……互いが在ればよい。
***
……漆黒の神々の騎行する先は、炎獄界であった。
つい先頃まで身を切るほどに冷たかった風は今や、肌を汗ばませる熱風へと変じていた。
言葉もなく冥王に添って騎行していたナシェルは、<怒れる河>……つまり赤き溶岩河の向こうに領主家の城館が見えてくると、やや声を張って王に尋ねた。
「炎獄界に何の用があると……ヴァニオンに何かあったのですか」
「ヴァニオン? 公爵家の倅なんぞに用はないよ。向かうのはあちらだ」
冥王が目を眇めた遙か先には、この世界の熱波の由来である大火山が聳え立っている。
あまりにも高い火山であるため、火口はここ冥界からは見えぬ。地上界側に開いているのだ。ここから視認できるのは黒い瘴気の靄につつまれた、山の中腹までであった。
「大火山……?」
幼神の頃たびたびヴァニオンの屋敷で過ごしたナシェルも、実をいうと大火山にははっきりと近づいたことはない。危険だからときつく戒められていたし、第一近づこうという気を失せさせるほどの灼熱地獄なのだ。
冥王は顔色ひとつ変えず瘴気の靄を掻いくぐり、山肌を目指す。闇嶺も慣れたものだ。
ナシェルも熱さのあまり速度を弛めがちになる幻嶺を叱咤し、なんとかこれに続く。
瘴気の層を抜けると、山の中腹には、火口内部に至るひとつの洞穴が開いていた。漏れだしてくる内部の橙光が目を焼くようだ。
ナシェルは天上界から連れ戻された折に感じた、あの灼熱を思い出していた。
冥王はかの忌々しき天空より戻る折り、ナシェルを抱いてこの大火山の火口に飛び込み、岩漿に融解する寸前であの中腹の洞穴から脱出してきたのである。
洞穴の先からは、わずかばかりだが異邦の気が漏れだしている。
異邦の気……すなわちそれは地上界と天上界への道が拓けているという証拠だ。
敏感にそれを察知し、はっと息を詰めたナシェルであるが、声を出すよりもまず先に、黒天馬たちが焦げた山肌に着地した。
蹄を掻く幻嶺をなだめてその背から降り、ナシェルは坂の上に開いているその洞穴を凝視した。
……サリエルたちを追って疑似天から地上へ抜けたとき、ナシェルは確かに、これによく似た穴を通った。それをまざまざと思い出す。
(二界を繋ぐ、本来、存在してはならない穴だ)
ナシェルの表情がこわばるのを見て取った冥王が、馬上から声を投げる。
「……そういうことだ。これをそのままにはしておけぬ。そなたを連れて参ったのは、この場所の封印について話しておかねばならぬからだよ」
翼を畳んだ闇嶺の鞍上で、冥王の漆黒の髪が熱風に煽られ靡いていた。
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