泉界のアリア

佐宗

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番外編

かけがえのない日々①

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(※番外編のなかでは最も長いエピソードになります。10頁以上行くかも。昨年のんびりと連載していたものです。父子の日常話と少々のハプニング、という感じです)



◇◇◇



 どうにも抑えきれない情熱に突き動かされ、ナシェルはこの日、黒天馬を駆って久方ぶりに冥王宮を訪れた。

 突然姿をみせて王を驚かせようと、道中、慎重に神司けはいを消して騎行した。追従したがる精霊たちを振り切り、この日に限っては供もつけず、小悪獣の横行する窟門をたった一騎で駆け抜けながら、ナシェルは王の驚き喜ぶ様子を思って微笑した。
 早く逢いたい。顔を見せてやりたい。



 このごろ、冥王のことを考えると本当に苦しい気持ちになる。
 王はナシェルのことを常日頃から『この世に在るための唯一の糧』だと言ってくれる。

「私は貴方の、たった一つの、生きる糧」

 風を切るように黒天馬を疾駆はしらせながら、ナシェルは短く言葉を区切って、つぶやいてみる。王が、自分をそのように想ってくれている。それだけで、生まれてきた甲斐があったと思うことができる。まだまだ若輩にして不肖の三流神に過ぎぬ自分が、『存在する』たったそれだけのことで大切な者を癒やし、救済している……という気づきは、穏やかな自己肯定感につながっていた。

 ただ、ナシェルはこうも思う。

(私の存在だけが貴方を、現世に、留まらせる理由。もしも私がいなければきっと貴方はとうの昔に、この三界を捨てていただろう)

 ……万が一冥王が消滅すれば、この三界に訪れるのは恐らく『崩壊』以外にない、ということも今のナシェルには分かる。王のことで時おり胸がざわつくのは、こうした考えのせいだ。冥王は三界最高位の神、かつナシェルにとっての絶対的な父神でありながら、狂気や混沌、そしていわゆる孤独恐怖と呼べるような不安定要素を併せ持つ。神色泰然とした振る舞いの裏にある、癒えない傷をナシェルは知っている。

 だからこそ王には自分が必要なのだし、妃神の命を犠牲にして生まれた自分は、生まれながらに父の偏愛という宿命を背負った。
 ――だがその愛は、今やナシェルにとっても、かけがえのない自身の構成要素だ。

 この上なく愛されている。包まれ、守られて、許されている……。望むときは満たしてくれ、行き過ぎれば諭してくれ、常日頃は好きなようにさせてくれる王の寛容を、ナシェルはもう充分、理解している。いささか溺愛が過ぎるとは思うが、近ごろの王は父親としてとても理想的だ。(ベッドの上での教示をのぞけば。)


 ――特にナシェルが『恵まれている』と感じるのは、それはしるべとすべき存在があるという点だ。本質は愛に火照った狂気そのものだというのに、王はナシェルが迷うときには、常に的確で明確な導きをくれる。

 ……しかし冥王自身には先駆者も手本も、頼れるものも存在しなかった。世の起こりとともに泉界に堕とされ、たった独りだった。唯一彼を愛してくれた女神はまさに愛し合ったことが原因で、ナシェルの命を遺して消滅した。それ以降、冥王は絶望も痛みも、世界が彼に与えた試練をも、すべてを一身に引き受けて生きてきた。ナシェルを悲しみから守るためにあえて詳細は告げず、ひとりでこの不完全な世界の欠点と対峙してきた……。

 唯一の支えとなるべきだった自分が、王の愛と期待とを、重荷と感じて反発してきたことを、ナシェルは今は激しく後悔している。

 そして最早ためらうこともなく、逢いたいと思う気持ちに突き動かされるままに、黒天馬の背に跨ったのだ。







 地上でいうところの一昼夜ほどの羇旅を経て、ナシェルは冥府へと帰着した。

 宙天から冥王宮を眺めおろせば、王が『審判』の最中であることが直ぐに分かった。彼の神司が、王宮の最下層のほうから感じ取れたので。


 つむじ風を起こしながら中庭の一角に幻嶺を着地させる。前触れもなく突然里帰りしたナシェルに、侍官が数名、慌てて駆け寄ってくる。ナシェルはそれらを制して唇に指を当てた。

「しぃ。私が帰城したことは、父上に伝えてはならぬ。そなたらは何も見ていないふりをせよ。よいな? 
 ――あ、だが幻嶺だけは厩舎に連れていって休ませてやってくれ。こっそりとな」

 勝手気ままな世継ぎに対応しかねて侍官らがぽかんとする中、ナシェルは耳の横髪を指に絡ませ、鼻歌まじりに歩き出した。神司けはいは消したまま、廊下でいたずらな悪童のようにきょろきょろと周囲を確認してから、王の居室に体を滑り込ませる。

 よし、ここまでは完璧に忍ぶことができた。王は己の帰還に、気づいていないだろう。

 ナシェルは父の広大な続き間を歩き回り、喉がかわいていたので水差しから水を、ついで飾り棚から酒を少々、失敬した。円卓の上の果物を勝手にかじってヘタを露台から外へ抛り捨てたところで、ふと姿見に映った自分の姿が冥王に謁見するにはあまりに、身綺麗ではないと気づく。

 つまり一昼夜に及ぶ騎行でナシェルの絹のような黒髪はところどころ絡み、袖に刺繍の入った乗馬服にはひどくシワが寄っていて、長靴には着地したときの土が付着していた。風を受けつづけた唇はカサカサにひび割れ、頬は粉をふいたように白くなっている。
 けれど鏡の奥から自分を見つめる眼差しだけはぎらぎらと蒼く輝いて、情炎の色を映していた。

 ナシェルは鏡に向かって数寸あごを持ち上げ、片眉を上げてきりりと、皮肉げにとり澄ました表情を作った。次いで頬を持ち上げ、父の機嫌を取るときのにこやかな笑顔を練習し、極めつけに少し顔を傾けて上目遣いも確認した。
――いやこれは少々あざといな、使うのはやめにしよう。


 それにしても王が執務を終えて戻ってくるまでに、風呂に入って少しは身だしなみを整える時間があるだろうか? 審判が終わる時間はいつもながら読めないので、こればかりは分からない。

 風呂に入りたいが、どうしようかな……、と顎に手をやって考えているところへ冥王の神司が近づいてきて、扉の向こうに立った。ナシェルは驚き、とっさに寝台の高い天蓋の襞にくるまるように隠れた。



 扉の向こうで談笑する声がする。王ひとりではないようだ。

「では、公の熟練の用兵術を披露してもらうとしようか」
「いえいえ拙官の駒捌きなど陛下の足元にも。ここ100戦の勝率も二割のまま一向に」

 ……どうやら執務を終え、この後は腹心の某公爵と盤駒に興じる予定であったらしい。
 まずい状況だ。ナシェルは天蓋のかげで唾を呑み込む。
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