泉界のアリア

佐宗

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番外編

かけがえのない日々㉕

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「――ああ、やっと追いついた。殿下!」
 後方からアシュレイドの声がする。幻嶺の手綱を引いて少し速度を緩めると、将軍が追いついてきた。

「何を笑っておいででありますか」
「ふふ、いや見ろ、父上が裸同然なのが面白くてな」
「陛下が? ちゃんと具足と装束を着けておられるように見えますが……?」
「そういう意味ではない。済まんすまん、そなたらには分かるまい」

 魔族たちは精霊の姿を見ることはできても、その精霊がいま双神の『どちらの使役下にあるのか』までは分からない。ナシェルと冥王が手持ちの精霊全部を押しつけあって遊んだとしても、その面白さは彼らにはいまいち伝わらないだろう。

「精霊を呼び集めておられますか? また何か一大事ではありませんでしょうな!」
 おびただしい数の精霊が集まっていることを察知したのか、アシュレイドは周囲に緊張気味の視線を投げた。地上界側の出口に近づくということで、いつぞやの悪夢が思い出されるのだろう。
「いや、ただの戯れだ。心配ない」
 ナシェルは神司を最大限にまき散らすのをやめた。精霊たちの唄声が少々、遠のいていく。

「殿下、いつになく上機嫌で在られますな!」
「否定はせんよ。陛下が砦を視察しに来たということは、だ」
 ナシェルは領主としての自分に立ち戻る。将軍と視線を見交す。
「――どうやら追加予算が取れそうだ」
「人員不足の件も、何とかしていただけそうですな」

 目を眇め、一号砦の遠景を視認したと思しき王が声を上げた。
「まるでハゲ山ではないか! 誰が何を、どう処理したらここまで遅れが生じるのだ。もう石組み工程に入っていると思っていたが」
「誰が、何をどう……。殿下が、書類を滞」
 ボソッと言いかけたアシュレイドをひと睨みで黙らせ、ナシェルは幻嶺の腹を蹴って冥王に追いつく。

「見てのとおりの状況です。だいたい崩落前の初期の砦を建造するのに数百年かかったというのに、たった100年で再建しろというのは無理な話です。ペラペラの薄さのハリボテなら何とかなるかもしれませんが」
「黒翼騎士団の駐屯地としての用を果たせない砦ならば、再建しても意味はないよ。よいか、建材をケチるでないぞ」
 ならばそちらも予算をケチらないで下さ……、つい言い返しかけてナシェルは言葉を呑み込み、下手したてに出る。

「ええ、ですので、追加の予算と人員を早急にお願いしたく陳情を出したのです」
「ふむ、まぁ現状は理解したよ。……せっかく視察に来たのだから工兵たちに褒美でも振舞ってやるとしよう」
「ありがたき仰せ。兵たちも喜ぶでしょう」

 王はナシェルの返した精霊たちを支配下に入れ、砦に向けて降下をはじめた。黒天馬の羽搏きが風とぶつかり、唸るような音が上がる。

 土台の上で働いている兵たちが指をさしてこちらを見上げている。やがてわらわらと人だかりができはじめた。
 彼らは一様に地面に額を擦りつけて主君一同を出迎えた……。



◇◇◇



 ナシェルの幻嶺は風を渦巻かせながら羽ばたき、砦の基礎の上にゆるやかに着地した。
 先に着地した王が闇嶺の背から降り立ち、ナシェルに手を差し出した。

「足元が危ないよ、ほら」
「ありがとうございます、でも皆が見てる……」
「構わぬ。兵たちはぬかづいておる。ほらおいで」

 微笑む王に促され、ナシェルは躊躇いがちにその手をとって馬上からひらりと身を躍らせた。

 巡察のつきそいに付いて来ようとする将軍たちを制し、双神は建設途中の骨組みの上に上がった。
 組んである足場の通路上を、先を歩む王に手を取られて行く。

 このあたりは洞窟の内径が大きいせいだろうか? 三途の河の方角から絶えず吹き付けてくる風が、少し和らいで今は微風のように感ずる。

 顔にかかる艶髪を掻きとりながら、ナシェルは王の指に己の指をからめ、強く握り返した。
 ここでは言葉にできない感情を、指先にのせて伝えてみる。ずっとずっと、愛してたこと。

 砦の再建状況を確かめるため彼方此方に目を向けていた王は、不意に振り返り、両瞳に熱を込めてナシェルを見た。神のみに許されたその凄然たる美貌に、屈託ない笑みが浮かぶ。

 ――もちろん知っていたよ。いつでもそなたが余を、愛していたこと。

 つないだままの指を持ち上げられて、そっと手の甲に口づけられた。
 いとも自然な仕草であったので、遠巻きに出迎える兵たちからは見えはすまい。

 幾数世のときを共に過ごしてきて、王へのすべての感情を出しきったナシェルの中にはもう、それ以外に、伝えたい想いなどなにも残っていないのだ。

 たくさん歯向かったりもしてきたし、憎んだり泣いたりもしたけれど。
 全ての複雑な感情は遠い過去のものとして、今は――貴方の隣にいるこの瞬間こそが、私の幸せ。

 ナシェルは風の吹く砦上からぐるりと己の大地を見渡す。
 守るべき広大な領があり、守るべき民たちがいて、そして隣に、愛する王がいる……。これほどの幸福があるだろうか?
 ずっと前からそれらはナシェルの元に存在していたのに、その幸福に気づくのにずいぶん時間がかかってしまったな、と思う。






 冥王とナシェルは、崩壊後に建てられた石碑に近づき、ここで奪われた多くの魔族の命を弔った。ナシェル不在時に、神々との戦いで、万にものぼる兵の命が奪われたのだった。騎士たちは神々との交戦で敗れ、兵たちは、崩壊した砦の下敷きとなったのだ。

 冥王が三号砦に駆けつけてなんとか間に合い、天の神々を殲滅したのであるが、三途の河に近い一号、二号砦は大きく損傷した。とくにこの一号砦はゼロからの再建が必要となり、こうして今も工事が続いている。

 魔族の魂は、死ねば個の意思を持たぬ精霊に生まれ変わる。
 そうして双神のかたわらに侍り、ともにこの冥界を護ってゆく。
 ひとつひとつは取るに足らぬ、小さき半透明の生き物だが、束となり神に使役されれば強大な力となる。

 死した万もの兵たちも今は、精霊となって王とナシェルのそばを浮遊していることだろう。

「風が湿っている」
 地上界側を眺め、王が呟く。
三途の河ステュクスが近いからでしょう」
「精霊たちがそなたに触れたがっている。きっとここにいた兵たちの魂だろう」

 王に言われて、ナシェルは外套の下から片手を虚空へと伸ばし、ふたたび神司つかさを解放した。
 闇の精たちと死の精たちが次々と集まってきて、ナシェルの上に向けた掌や頬や耳などに、口づけを残してゆく。
 愛しい主神に触れることは、彼ら精霊族だけに許された特権であり、幸せ。

 風以外にはなにも音のない風景のはずなのに、ぼうと蒼くけぶるナシェルの神司は音楽的なまでに生き生きして、精霊を集める音までもがきらきらとしそうなほどである。

 若き死の神の放つ司は気高く、金剛石の煌めきの如き威容に満ちていた。



 あたりの精霊たちが挨拶を終えるとナシェルは神司を収め、そっと自分のあるじに近づいた。その肩に凭れて慈愛を請えるのは、ナシェルだけに与えられた特権。

 泉下の全土を治める王は、深い暁闇色の衣を拡げて半身ナシェルの体を、大いなる愛で包み込んだ。
 下では臣たちが待っている。つかの間の忍びごとであった。


《かけがえのない日々》 了


 

―――
気づけば番外編で最長のエピソードとなりました。お付き合い下さりありがとうございました。
引き続き番外編『アムレス河畔にて』をお楽しみください。
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