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恋する笑顔に恋をした(1)
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「行ってきます」
玄関からキッチンのママに声をかけ、あたしは、いつも通りに家を出た。
夏休みだからって、毎日遊んでばかりじゃだめよってママは言う。
だけど、まさか自分の娘がアイドルの部屋に通っているなんて、思ってもみないだろう。
こうして蒼の部屋に向かうことは、ほとんど日課のようになっていた。
実際には、彼だって忙しい身体だから、部屋に行けばいつでも会えるってわけじゃない。
ロケのある日なんかは、早朝に出かけて、帰宅は深夜を過ぎることも多い。
そういうときは、留守電にメッセージを入れておけば、必ず仕事の合間に電話をくれるけど、彼から合鍵をもらってからは、勝手に上がりこんでいることの方が多くなった。
結局は会えずに帰ることになっても、あたしはそれなりに満足だった。
だって……彼は、鷹宮蒼なんだもの。
玄関を出たところで、不意にクラクションを鳴らされた。
驚いて音のした方を振り向くと、うちの門の前に大きな車が停まっている。
後部座席のドアが開いて、降り立ったのは甲斐くんだった。
「……やあ」
少しはにかんだような表情で、甲斐くんは片手を上げた。
会いたくないと思っていたのに、現実には、こうして彼の顔を見ても、心が揺れることはないのが不思議だった。
あらためて、甲斐くんはもう過去の人なんだって思う。
「久しぶり、だね」
ちょっとぎこちなく手を振り返すと、彼も笑顔になった。
「どうしたの、わざわざ訪ねてくるなんて」
あの旅行を境に、我が家にも顔を見せなくなった甲斐くんを、ママはずいぶんと心配していたけど、さすがに「家にどうぞ」とは言えない。
そんなあたしの胸中を察したのか、彼は、苦笑しながら車のドアを目で示した。
「少し、……話せる?」
「う、うん……」
今さら、話すことなんてないように思える。
あの夜、別荘を飛び出した時点で、あたしの気持ちは決まっていたし、翌朝、彼と電話で話したときにも、きちんとそれは伝えたつもりだ。
後部座席に並んで座ると、運転手は静かにベンツを発進させた。
「とりあえず、これ……忘れないうちに返しておこうと思って」
「え……?」
甲斐くんから渡された紙袋の中身は、あたしが別荘に忘れてきたサンダルだった。
「ああ……どうせ安物だし、捨てちゃっても良かったのに」
「うん、まあ……でも、こうして君に会いにくる口実にはなった」
甲斐くんは、そんな冗談とも本気ともつかない言い方をして、同じ口調で続けた。
「高塚から、聞いたんだろ」
「…………」
この場合、その通りだよって言うべきか、何のことって白を切るべきか。
「隠すことないよ、あいつ、君に会ったあとだろうけど、泣きながら電話かけてきたし……藍にも、僕にも悪いことをしたって、何度も何度も謝ってさ」
自分のせいで、僕たちの仲が壊れるなんてやり切れないって。
言いながら、甲斐くんはあたしの心中を量るような眸で見た。
「別に……甲斐くんにも、もちろん友紀ちゃんにも怒ってないよ。それに、あたしが甲斐くんと別れた方がいいって思ったのも、友紀ちゃんのことが原因じゃないし」
「前に電話で言ってた、……好きになったらいけないってやつのせい?」
「うん……」
あたしが頷くと、甲斐くんは小さく嘆息した。
「今さら女々しく説得しようと思って来たわけじゃないけど、そうもあっさりと心変わりを肯定されると、さすがにへこむ」
「あ、ご、…ごめん」
「ハハ、冗談冗談、……藍らしいなと思っただけ」
甲斐くんは、何かを吹っ切ったような顔になって、朗らかに笑った。
「藍ってさ、入学してすぐ、憧れの人は鷹宮蒼ですって自己紹介したろ? それ聞いて今どき何言ってんだ、こいつって呆れたんだ、実は。その後も、女友達と話しているのを聞いたって、ことある毎に蒼、蒼って騒いでてさ、バカじゃないの、とか思ってた」
「そ、そうなんだ……」
調子を合わせて笑ってみたけど、バカはひどい。
「でも、鷹宮蒼の話をしているときの藍、やたらと楽しそうで、瞳とかキラキラさせちゃって、なんて言うか、こう……恋してる女の子って感じで、すごく可愛かった」
甲斐くんは、外を流れていく景色を眺めながら、言った。
「いつから君に惹かれていたのか、自分でもわからないけど、気がついたら……その笑顔を僕にも向けて欲しいと思ってた。手の届かないアイドルなんかじゃなく、近くにいる僕を見て欲しいって」
車窓からあたしに視線を戻した甲斐くんは、手のひらであたしの髪をそっと撫でた。
「僕は所詮、敵わなかったようだけど、君が好きになったという人は、鷹宮蒼を超えたのだろうね、きっと」
まさか、その当人ですとも言えず、あたしは黙って俯く。
「こういう結果になってしまっても、僕が、藍を好きだった気持ちに嘘はないよ」
「あたしも、こんなあたしを好きになってくれたことは感謝してる」
甲斐くんの望むものを与えられなかったのは、あたしだ。
彼には、これからもっと素敵な恋を見つけてもらいたい。
車は、いつの間にか駅のロータリーに入り、やがて走り出したときと同じように静かに動きを止めた。
「送ってくれてありがとう、甲斐くん」
車を降りたあたしに、甲斐くんは窓を開けて手を振った。
大きな車体が見えなくなると、あたしは、手にした紙袋をゴミ箱に捨てた。
少しだけ胸がちくんとして、これも失恋の痛みというのかな、と思ったら苦笑が洩れた。
蒼に、会いたい。
あたしは、逸る気持ちを抱きしめて、足早に改札口を通り抜けた。
* * * * *
今日は、外で飯を食おうぜ、と蒼が言う。
彼が連れ出してくれるのは嬉しいけど、あたしはやっぱりちょっと躊躇う。
彼は、日本中の人に顔を知られているから、あたしみたいなのを連れて歩いているところを誰かに見られたり、写真に撮られたりしたら大変なことになる。
そういう意味のことをあたしが言ったら、蒼は、子供は余計な心配しなくていいんだよ、と笑って、あたしを急かすようにして部屋を出た。
「駐車場がないから、タクシーで行こう」
そう言って、蒼はマンションの下で、通りがかったタクシーを拾った。
今夜の蒼、薄い色のサングラスをかけているだけで、変装らしい変装をしていない。
見る人が見れば、すぐに彼だとわかってしまうだろう。
現に、彼が行く先を告げたとき、うしろを振り向いて頷いた運転手さんは、一瞬、驚いた顔になって、その後もバックミラー越しに半信半疑といった視線をちらちらと向けていた。
蒼は、そんなことには頓着しない様子で窓の外を眺めていたけど、あたしは、運転手さんが今にも「あんた、鷹宮蒼だよね」と言い出さないか、気が気ではなかった。
幸い、そんなことにはならないうちに目的地に着いてホッとした反面、もしそう聞かれていたら、彼はなんと答えていたんだろう、とも思った。
着いた場所は、繁華街の真ん中にあるテナントビル。
「……どこに来たの?」
ビルの入り口に掲げられたいくつかのお店の看板を見ながら、あたしは尋ねた。
「この店」
蒼が指差した先に目をやって、あたしは思わず絶句した。
地階のフロアを占めるその店は「J」といい、看板の謳い文句を読むなら「ホストクラブ」だったから。
確かに、蒼の所属するプロダクションは、若手のイケメンばかりを集めていることで有名だし、社長をはじめタレント同士の男色の噂もちらほらと耳にする。
だからと言って、蒼にもその気があるなんて思えないし、考えたくもないけど……。
そう思っていることが表情から読めたのか、目が合った蒼は苦笑した。
「安心していいよ、俺、ノンケだから」
「ノンケ……?」
「俺の恋愛対象は女、男には興味ないってこと」
……だったら、どうしてホストクラブなんかに来たのか。
「まあ、ここでグズグズしていても埒は明かないし、……行こうか?」
行こうかって、肩なんて抱かれても。
そんなあたしの戸惑いにはお構いなしで、蒼は地階への階段を下りた。
重厚な革張りの扉の上に、店名がネオン管で掲げられている。
側の壁には、今月の人気ホスト、なんてパネルも貼ってある。
そのまま、その重そうな扉を開けるのかと思ったら、蒼はなぜかそこを素通りして、狭い通路を通って店の裏手に回った。
STAFF ONLY と書かれたドアの前で、携帯電話を取り出し、操作する。
やがて相手が出たようで、蒼は偉い人と話すみたいにちょっとだけ姿勢を正した。
「あ、おはようございます、蒼ですけど……はい、今もう、店の前に――」
蒼が言い終らないうちに目の前のドアが開き、男の人が顔を出した。
30代くらいだろうか、細身で、思わず見上げてしまうほど背が高い。
「おう、来たな」
唇の端に細いタバコを咥えたまま、その人はにやりと笑った。
「ま、ここじゃ話もできないから、入れば」
促されて、蒼と一緒に狭い室内に足を踏み入れる。
スチールの机の上には書類や帳簿類が載っていて、店の事務所らしかった。
「この人はヒガシさんといってね、この店のオーナーなんだ」
蒼がそっと耳打ちしてくれる。
殺風景な部屋を横切って、そのヒガシさんは、反対側にあるドアを開けた。
次の瞬間、どこか別の場所に来てしまったのかと思った。
淡い間接照明の落ちる廊下には、臙脂色の絨毯が敷き詰められ、その突き当たりに置かれた凝った作りのテーブルの上には、見事な大輪のカサブランカが飾られている。
レースを模したクロスの貼られた壁、洒落た形のランプシェード、そしていくつか並んだ重厚な扉……まるで、高級ホテルにいるみたいだ。
「クラブJのビップルームへようこそ」
ヒガシさんはおどけるように言って、あたしたちをその扉の奥に招き入れた。
室内はそう広くはないけど、革張りのソファや落ち着いた内装が高級感を漂わせている。
「いつもお手数かけて、スミマセン」
「バカ言え、こんなの手数のうちに入るか。今をときめく人気アイドル・鷹宮蒼が、ホストクラブに出入りしてる、なんて噂が立ったら、それこそ一大事だ。その点、ここなら他の客の目に触れることもないからな」
言いながら、ヒガシさんは蒼の肩を親しげに叩いた。
蒼とヒガシさんは、とても仲が良いように見える。
蒼が、こうしてヒガシさんの店を訪れるのも、初めてではないようだし。
ホストクラブ、というからにはホストに囲まれて高いお酒を飲むだけがメインの場所だと思っていたけど、ヒガシさん以外はだれも現れず、次々と運ばれてくるお料理は本格的で美味しかった。
蒼の知り合いの店とはいえ、初めての場所に緊張していたあたしも、だんだんと気分が解れてきた。
そんなあたしをニコニコ顔で眺めながら、ヒガシさんは言った。
「今日、蒼にここへ来るように言ったのは俺なんだよ」
「……はあ」
「ふとしたきっかけで子猫を拾った、すごくなついてて可愛いんだって、得意そうに言うものだから、だったらここにも見せにつれて来いよって言ってね」
「子猫ですか……」
蒼が猫を拾ったなんて初耳だった。
蒼のマンションで、動物は飼っちゃいけない決まりだ。
「確かに、可愛い猫ちゃんだ」
そう言ってヒガシさんは、あたしに向かって目を細めて見せた。
「は?」
今日は、猫なんて連れて来てないけど、と思ってとなりに座る蒼を見る。
「藍……君、相変わらず天然すぎだ」
きょとんとしたあたしに、蒼は呆れたような溜息を吐いた。
あたしと蒼のやり取りに、ヒガシさんまでが吹き出す。
「蒼の言う通りだ、面白い。こいつが夢中になるのも無理はないと思った」
「面白い、…ですか、あたしが?」
あたしが聞き返すと、ヒガシさんはとうとうお腹を抱えて笑い始めた。
蒼が、堪りかねたように横から口を出す。
「あのね、ヒガシさんの言ってる子猫っていうのは、君のことなの」
「え、あたし……?」
まだ話の良く飲み込めていないあたしの頭を、蒼は、大きな手のひらで力任せにぐしゃぐしゃと撫でた。
「そうだよ、今日は俺、君のことを見せびらかしに来たんだ、ヒガシさんに」
玄関からキッチンのママに声をかけ、あたしは、いつも通りに家を出た。
夏休みだからって、毎日遊んでばかりじゃだめよってママは言う。
だけど、まさか自分の娘がアイドルの部屋に通っているなんて、思ってもみないだろう。
こうして蒼の部屋に向かうことは、ほとんど日課のようになっていた。
実際には、彼だって忙しい身体だから、部屋に行けばいつでも会えるってわけじゃない。
ロケのある日なんかは、早朝に出かけて、帰宅は深夜を過ぎることも多い。
そういうときは、留守電にメッセージを入れておけば、必ず仕事の合間に電話をくれるけど、彼から合鍵をもらってからは、勝手に上がりこんでいることの方が多くなった。
結局は会えずに帰ることになっても、あたしはそれなりに満足だった。
だって……彼は、鷹宮蒼なんだもの。
玄関を出たところで、不意にクラクションを鳴らされた。
驚いて音のした方を振り向くと、うちの門の前に大きな車が停まっている。
後部座席のドアが開いて、降り立ったのは甲斐くんだった。
「……やあ」
少しはにかんだような表情で、甲斐くんは片手を上げた。
会いたくないと思っていたのに、現実には、こうして彼の顔を見ても、心が揺れることはないのが不思議だった。
あらためて、甲斐くんはもう過去の人なんだって思う。
「久しぶり、だね」
ちょっとぎこちなく手を振り返すと、彼も笑顔になった。
「どうしたの、わざわざ訪ねてくるなんて」
あの旅行を境に、我が家にも顔を見せなくなった甲斐くんを、ママはずいぶんと心配していたけど、さすがに「家にどうぞ」とは言えない。
そんなあたしの胸中を察したのか、彼は、苦笑しながら車のドアを目で示した。
「少し、……話せる?」
「う、うん……」
今さら、話すことなんてないように思える。
あの夜、別荘を飛び出した時点で、あたしの気持ちは決まっていたし、翌朝、彼と電話で話したときにも、きちんとそれは伝えたつもりだ。
後部座席に並んで座ると、運転手は静かにベンツを発進させた。
「とりあえず、これ……忘れないうちに返しておこうと思って」
「え……?」
甲斐くんから渡された紙袋の中身は、あたしが別荘に忘れてきたサンダルだった。
「ああ……どうせ安物だし、捨てちゃっても良かったのに」
「うん、まあ……でも、こうして君に会いにくる口実にはなった」
甲斐くんは、そんな冗談とも本気ともつかない言い方をして、同じ口調で続けた。
「高塚から、聞いたんだろ」
「…………」
この場合、その通りだよって言うべきか、何のことって白を切るべきか。
「隠すことないよ、あいつ、君に会ったあとだろうけど、泣きながら電話かけてきたし……藍にも、僕にも悪いことをしたって、何度も何度も謝ってさ」
自分のせいで、僕たちの仲が壊れるなんてやり切れないって。
言いながら、甲斐くんはあたしの心中を量るような眸で見た。
「別に……甲斐くんにも、もちろん友紀ちゃんにも怒ってないよ。それに、あたしが甲斐くんと別れた方がいいって思ったのも、友紀ちゃんのことが原因じゃないし」
「前に電話で言ってた、……好きになったらいけないってやつのせい?」
「うん……」
あたしが頷くと、甲斐くんは小さく嘆息した。
「今さら女々しく説得しようと思って来たわけじゃないけど、そうもあっさりと心変わりを肯定されると、さすがにへこむ」
「あ、ご、…ごめん」
「ハハ、冗談冗談、……藍らしいなと思っただけ」
甲斐くんは、何かを吹っ切ったような顔になって、朗らかに笑った。
「藍ってさ、入学してすぐ、憧れの人は鷹宮蒼ですって自己紹介したろ? それ聞いて今どき何言ってんだ、こいつって呆れたんだ、実は。その後も、女友達と話しているのを聞いたって、ことある毎に蒼、蒼って騒いでてさ、バカじゃないの、とか思ってた」
「そ、そうなんだ……」
調子を合わせて笑ってみたけど、バカはひどい。
「でも、鷹宮蒼の話をしているときの藍、やたらと楽しそうで、瞳とかキラキラさせちゃって、なんて言うか、こう……恋してる女の子って感じで、すごく可愛かった」
甲斐くんは、外を流れていく景色を眺めながら、言った。
「いつから君に惹かれていたのか、自分でもわからないけど、気がついたら……その笑顔を僕にも向けて欲しいと思ってた。手の届かないアイドルなんかじゃなく、近くにいる僕を見て欲しいって」
車窓からあたしに視線を戻した甲斐くんは、手のひらであたしの髪をそっと撫でた。
「僕は所詮、敵わなかったようだけど、君が好きになったという人は、鷹宮蒼を超えたのだろうね、きっと」
まさか、その当人ですとも言えず、あたしは黙って俯く。
「こういう結果になってしまっても、僕が、藍を好きだった気持ちに嘘はないよ」
「あたしも、こんなあたしを好きになってくれたことは感謝してる」
甲斐くんの望むものを与えられなかったのは、あたしだ。
彼には、これからもっと素敵な恋を見つけてもらいたい。
車は、いつの間にか駅のロータリーに入り、やがて走り出したときと同じように静かに動きを止めた。
「送ってくれてありがとう、甲斐くん」
車を降りたあたしに、甲斐くんは窓を開けて手を振った。
大きな車体が見えなくなると、あたしは、手にした紙袋をゴミ箱に捨てた。
少しだけ胸がちくんとして、これも失恋の痛みというのかな、と思ったら苦笑が洩れた。
蒼に、会いたい。
あたしは、逸る気持ちを抱きしめて、足早に改札口を通り抜けた。
* * * * *
今日は、外で飯を食おうぜ、と蒼が言う。
彼が連れ出してくれるのは嬉しいけど、あたしはやっぱりちょっと躊躇う。
彼は、日本中の人に顔を知られているから、あたしみたいなのを連れて歩いているところを誰かに見られたり、写真に撮られたりしたら大変なことになる。
そういう意味のことをあたしが言ったら、蒼は、子供は余計な心配しなくていいんだよ、と笑って、あたしを急かすようにして部屋を出た。
「駐車場がないから、タクシーで行こう」
そう言って、蒼はマンションの下で、通りがかったタクシーを拾った。
今夜の蒼、薄い色のサングラスをかけているだけで、変装らしい変装をしていない。
見る人が見れば、すぐに彼だとわかってしまうだろう。
現に、彼が行く先を告げたとき、うしろを振り向いて頷いた運転手さんは、一瞬、驚いた顔になって、その後もバックミラー越しに半信半疑といった視線をちらちらと向けていた。
蒼は、そんなことには頓着しない様子で窓の外を眺めていたけど、あたしは、運転手さんが今にも「あんた、鷹宮蒼だよね」と言い出さないか、気が気ではなかった。
幸い、そんなことにはならないうちに目的地に着いてホッとした反面、もしそう聞かれていたら、彼はなんと答えていたんだろう、とも思った。
着いた場所は、繁華街の真ん中にあるテナントビル。
「……どこに来たの?」
ビルの入り口に掲げられたいくつかのお店の看板を見ながら、あたしは尋ねた。
「この店」
蒼が指差した先に目をやって、あたしは思わず絶句した。
地階のフロアを占めるその店は「J」といい、看板の謳い文句を読むなら「ホストクラブ」だったから。
確かに、蒼の所属するプロダクションは、若手のイケメンばかりを集めていることで有名だし、社長をはじめタレント同士の男色の噂もちらほらと耳にする。
だからと言って、蒼にもその気があるなんて思えないし、考えたくもないけど……。
そう思っていることが表情から読めたのか、目が合った蒼は苦笑した。
「安心していいよ、俺、ノンケだから」
「ノンケ……?」
「俺の恋愛対象は女、男には興味ないってこと」
……だったら、どうしてホストクラブなんかに来たのか。
「まあ、ここでグズグズしていても埒は明かないし、……行こうか?」
行こうかって、肩なんて抱かれても。
そんなあたしの戸惑いにはお構いなしで、蒼は地階への階段を下りた。
重厚な革張りの扉の上に、店名がネオン管で掲げられている。
側の壁には、今月の人気ホスト、なんてパネルも貼ってある。
そのまま、その重そうな扉を開けるのかと思ったら、蒼はなぜかそこを素通りして、狭い通路を通って店の裏手に回った。
STAFF ONLY と書かれたドアの前で、携帯電話を取り出し、操作する。
やがて相手が出たようで、蒼は偉い人と話すみたいにちょっとだけ姿勢を正した。
「あ、おはようございます、蒼ですけど……はい、今もう、店の前に――」
蒼が言い終らないうちに目の前のドアが開き、男の人が顔を出した。
30代くらいだろうか、細身で、思わず見上げてしまうほど背が高い。
「おう、来たな」
唇の端に細いタバコを咥えたまま、その人はにやりと笑った。
「ま、ここじゃ話もできないから、入れば」
促されて、蒼と一緒に狭い室内に足を踏み入れる。
スチールの机の上には書類や帳簿類が載っていて、店の事務所らしかった。
「この人はヒガシさんといってね、この店のオーナーなんだ」
蒼がそっと耳打ちしてくれる。
殺風景な部屋を横切って、そのヒガシさんは、反対側にあるドアを開けた。
次の瞬間、どこか別の場所に来てしまったのかと思った。
淡い間接照明の落ちる廊下には、臙脂色の絨毯が敷き詰められ、その突き当たりに置かれた凝った作りのテーブルの上には、見事な大輪のカサブランカが飾られている。
レースを模したクロスの貼られた壁、洒落た形のランプシェード、そしていくつか並んだ重厚な扉……まるで、高級ホテルにいるみたいだ。
「クラブJのビップルームへようこそ」
ヒガシさんはおどけるように言って、あたしたちをその扉の奥に招き入れた。
室内はそう広くはないけど、革張りのソファや落ち着いた内装が高級感を漂わせている。
「いつもお手数かけて、スミマセン」
「バカ言え、こんなの手数のうちに入るか。今をときめく人気アイドル・鷹宮蒼が、ホストクラブに出入りしてる、なんて噂が立ったら、それこそ一大事だ。その点、ここなら他の客の目に触れることもないからな」
言いながら、ヒガシさんは蒼の肩を親しげに叩いた。
蒼とヒガシさんは、とても仲が良いように見える。
蒼が、こうしてヒガシさんの店を訪れるのも、初めてではないようだし。
ホストクラブ、というからにはホストに囲まれて高いお酒を飲むだけがメインの場所だと思っていたけど、ヒガシさん以外はだれも現れず、次々と運ばれてくるお料理は本格的で美味しかった。
蒼の知り合いの店とはいえ、初めての場所に緊張していたあたしも、だんだんと気分が解れてきた。
そんなあたしをニコニコ顔で眺めながら、ヒガシさんは言った。
「今日、蒼にここへ来るように言ったのは俺なんだよ」
「……はあ」
「ふとしたきっかけで子猫を拾った、すごくなついてて可愛いんだって、得意そうに言うものだから、だったらここにも見せにつれて来いよって言ってね」
「子猫ですか……」
蒼が猫を拾ったなんて初耳だった。
蒼のマンションで、動物は飼っちゃいけない決まりだ。
「確かに、可愛い猫ちゃんだ」
そう言ってヒガシさんは、あたしに向かって目を細めて見せた。
「は?」
今日は、猫なんて連れて来てないけど、と思ってとなりに座る蒼を見る。
「藍……君、相変わらず天然すぎだ」
きょとんとしたあたしに、蒼は呆れたような溜息を吐いた。
あたしと蒼のやり取りに、ヒガシさんまでが吹き出す。
「蒼の言う通りだ、面白い。こいつが夢中になるのも無理はないと思った」
「面白い、…ですか、あたしが?」
あたしが聞き返すと、ヒガシさんはとうとうお腹を抱えて笑い始めた。
蒼が、堪りかねたように横から口を出す。
「あのね、ヒガシさんの言ってる子猫っていうのは、君のことなの」
「え、あたし……?」
まだ話の良く飲み込めていないあたしの頭を、蒼は、大きな手のひらで力任せにぐしゃぐしゃと撫でた。
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