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いずれは涸れてしまうもの(2)
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友紀ちゃんに会った。
電話ではしょっちゅう話していたけど、実際に会うのは、あたしが甲斐くんの別荘に行く前の日以来だから、結構久しぶりになる。
お菓子やジュースをコンビニの袋いっぱいに買って、家に遊びに来た友紀ちゃんは、あたしの部屋に入るなり、周囲をぐるりと見回して溜息を吐いた。
「はあ~、相変わらず蒼だらけだね、藍の部屋は」
通りすがりに、壁に貼られた蒼のポスターを指先でとんと叩き、いくら熱上げたって手の届く人じゃないのにさ、と友紀ちゃんは言う。
まさか、実は付き合っていますとも言えず、あたしは笑ってごまかした。
壁の一角、蒼の笑顔に埋もれるようにして掛けられたコルクボード。
友達同士で写したスナップ写真やプリクラが折り重なって貼り付けられたそこに、不自然な空間があること、目ざとい友紀ちゃんはすぐに気がついた。
「藍、これって……」
「……うん、そうだよ」
そこは、甲斐くんと2人で撮った写真が貼ってあった場所だ。
別荘から帰った日、甲斐くんからの電話を切ったあとで、全部はがした。
「それじゃあ、甲斐くんとはやっぱり……?」
眉を顰めてそう聞き返す友紀ちゃんに、あたしは小さく首を振った。
「ごめん、友紀ちゃん……今はまだ、甲斐くんの話はしたくない」
「藍の気持ちもわからなくはないよ、でも、甲斐くんだって反省してるんだよ」
「反省?」
顔を上げて友紀ちゃんを見ると、彼女は真面目な顔であたしを見返してきた。
「そうだよ、別荘でのことは、藍にも悪いことをしたと思ってるって。でも、藍は話も聞いてくれないんだって、甲斐くん、すごく困ってた」
それを聞いて、ちょっと妙な感じがした。
友紀ちゃん、どうしてこんな甲斐くんの肩を持つような言い方するんだろう。
「友紀ちゃんが甲斐くんから何を聞いたか知らないけど、あたしは、その現場をちゃんと見ちゃったの。今さら、どんな言い訳されても意味ないよ」
「それは、そうかも知れないけど……」
友紀ちゃんは、そこで言葉に詰まったように俯いた。
友紀ちゃんが、親友のあたしを励ましに来てくれたとか、一緒になって甲斐くんに怒るというのならわかる、でも、彼女のこんな態度はちょっと変だ。
「友紀ちゃんさ、甲斐くんに何か言われてきたの? あたしのこと、説得してくれとか」
「そんなことないよ、甲斐くんに頼まれたわけじゃない、ただ……」
友紀ちゃんは、はいていたスカートを両手でぎゅっと握り締めた。
「甲斐くん、すごく辛そうで、放っとけないっていうか……」
甲斐くんが、時どき、友紀ちゃんに相談を持ちかけていたことは知っていた。
あたしが、別の女友達と夜遊びに夢中になって携帯が繋がらなかったりすると、友紀ちゃんに電話してみたりもしてたらしい。
次に会ったとき、また高塚に電話しちゃったよって、照れくさそうに言うこともあった。
「甲斐くんね、彼氏として、本当はもっと藍のこと束縛したいのに、鬱陶しがられるのが嫌で、なかなか言えないんだってこぼしてた。意気地なし、しっかり捕まえておかないと、そのうちどこかに飛んでっちゃうよって、あたし、忠告してあげたのに」
「……そう」
甲斐くんが、あまりあたしに干渉しないのは、彼が優しいからだと思ってた。
見るからにお坊ちゃまで人が良さそうで、そんな彼に独占欲があったなんて意外だった。
「えっちのことも、そうなんだって」
「え?」
まったくの第三者であるはずの友紀ちゃんに、いきなりそんなことを言われて驚いた。
甲斐くんは、そんなプライベートなことまで彼女に相談していたのだろうか。
「ホントはもっと主導権握って、藍に恥ずかしいことを言わせたり、させたりしたかったって。でも、藍ってえっちにはすごく淡白に見えて、言い出せなかったって言ってた」
友紀ちゃんは、あたしの顔じゃなく、自分の手を見つめながら喋っていた。
その声が、微かに震えていることに気がついたのはそのときだ。
「友紀ちゃん……」
言いかけたあたしを遮るようにして、友紀ちゃんは続けた。
「だから、あたし……甲斐くんに言ったんだよ。あたしなら、甲斐くんに余計な気なんて使わせないのに、甲斐くんの好きにしていいのにって」
それから、不意に顔を上げ、友紀ちゃんはあたしと正面から向き合った。
友紀ちゃんは、泣いていた。
「あのとき……甲斐くんと一緒にいたのは、あたしだよ」
一瞬、何を言われているのかわからなかった。
友紀ちゃんは、日本語を喋ってくれているのだろうかと思った。
でも、徐々にその言葉の意味を理解するうちに、驚くよりも何よりも、ああ、あれは友紀ちゃんだったのか、と妙に納得してる自分がいた。
「ごめんね、藍……あたし、藍と甲斐くんの仲を裂こうとか、そんなこと思ってなかった。甲斐くんが藍のこと好きなのはわかってたし、横恋慕するつもりもなかったの。最初のうちは、藍の代わりに時どき抱いてもらえれば良かった、甲斐くんが藍にしたくてできなかったことを、あたしにしてくれれば良かった、それなのに……」
友紀ちゃんは、泣きながらあたしに抱き付いてきた。
「2人が別荘に行くって聞いたとき、真っ先に、藍が甲斐くんのしたいと思っているようなことを、受け入れてしまったらどうしようって思った。甲斐くんも、せっかくの機会だから藍との仲を進展させたい、みたいなことは言ってたし、そしたらあたしはどうなるんだろう、甲斐くんともこのまま終わっちゃうのかな、そう考えたら居ても立ってもいられなくて……」
涙でぐちゃぐちゃに濡れた顔を、あたしの肩に押し付けて、友紀ちゃんは、ごめんねと何度も謝ったけど、彼女に対する怒りや憤りなんて、これっぽっちも湧いてこなかった。
あたしは、友紀ちゃんの背中を、小さい子をあやすようにそっと撫でた。
「謝ることなんてないよ、友紀ちゃんは何にも悪くない」
「藍……?」
しゃくり上げながら、友紀ちゃんはあたしを見た。
あたしは、そんな友紀ちゃんに笑いかけた。
「謝らなきゃいけない人がいるとすれば、それは友紀ちゃんでも甲斐くんでもない……あたし自身だよ。あたしが優柔不断だったから、みんなに辛い思いをさせたの」
あたしと蒼の経緯など何も知らない友紀ちゃんは、当然ながら、あたしの言う意味がわからずに、不審げに首を傾げた。
「どうして……? どうして、怒らないの?」
「友紀ちゃんは、悪いことしてないからだよ。あたしだって、甲斐くんのことすごく傷つけたの、だから……こんなあたしが言うのもなんだけど、友紀ちゃんが甲斐くんのことを好きでいてくれるなら、これから彼のことを支えてあげてほしい」
お願い……背中を抱きしめながらそう言うと、友紀ちゃんは、まだ少し半信半疑の様子ながら、それでも小さく頷いた。
愛情も、友情も、きっといつかは涸れてしまう。
だとしたら、「今」を大事にすることは間違いじゃない。
それを失ってしまったときに、あのときああすれば良かったと、後悔しないためにも。
* * * * *
「藍ちゃん、藍ちゃん!」
お風呂から出たばかりのあたしを、妹の茜が大声で呼ぶ。
あたしは、濡れた髪をバスタオルで拭きながら、リビングに顔を出した。
「うるさいなあ……何よ、茜?」
珍しく早く帰ったパパは、食卓でビールを飲んでいる。
ママは、そんなパパの差し向かいに座って、晩酌に付き合っている。
そして、テレビの前のソファに陣取った茜は、おいでおいでとあたしに手招きした。
「ほら、藍ちゃんの好きな蒼くんのドラマ、もうすぐ始まるよ!」
茜の言葉通り、テレビの画面には蒼の主演するドラマのタイトルが映し出され、そのバックには主題歌でもある彼の歌が流れていた。
「……別に無理して今観ることないよ、録画もしてあるし」
となりに腰を下ろしながらも、気のない風でそんなことを言うあたしに、茜は怪訝そうな顔を向けた。
「変なのォ。ちょっと前までは、15秒のCMにまで、蒼だ蒼だって騒いでた人が」
茜がそう言うのももっともだった。
少なくとも、蒼とあんなことになる前のあたしは、画面にほんのちょっとでも蒼が映ろうものなら、歌番組だろうがバラエティーだろうが、それが彼のゴシップを扱ったワイドショーだったとしても、歓声を上げて喜んだ。
それが、今は……。
CMでタレントの女の子と笑い合う、ドラマで相手役の女優さんに微笑みかける、そんな彼を目にするだけで、胸が無性に苦しくなる。
こういう心の動きを、嫉妬というのだろうか。
彼への憧れだけがすべてだったころには、持ち合わせていなかった感情。
『あんたがわかってくれるまで、何度だって言うよ』
画面の中で、少し眉を顰めた蒼が言う。
『俺はあんたが好きだ、……好きだ、好きだ、好きだ!』
叫びながら、ヒロインを抱きしめる蒼。
沈みかけた夕日を背にして、2人のシルエットが寄り添う。
……それ以上は見ていられなくなって、思わず俯いた。
これはドラマだ、演技なんだ、蒼は与えられたシナリオの通りに、その役柄を演じているだけだ。
そんなこと、あらためて考えてみるまでもなくわかってる。
なのに、苦しくて悲しくて悔しくて……これが嫉妬というものなら、なんて切ない感情だろうと思う。
とりわけ、あたしのように、対象が定まらない場合には。
ドラマの台詞なら、あんなに簡単なのに。
どうして……あたしは、あなたの口からそれを聞くことができないんだろう。
何度も言ってくれなくていい、たった1度だけでもいい、その場限りの嘘でも構わない、ただひと言……好きだよと囁いて欲しい。
「あれ、最後まで観ないの?」
物語の途中で腰を上げたあたしを、茜はまた不思議そうに見た。
「うん、もういい……髪、早く乾かさないと傷むから」
答えるうちに涙が出そうになって、あたしは2階へ駆け上がった。
それは、初めて会った夜に、蒼があたしに言ったのと同じ台詞だった。
ドライヤーの温かい風、髪を梳く蒼の優しい指、うなじの窪みに押し付けられた唇の感触まで……今でも手に取るように思い出すことができる。
あの夜から、あたしの人生は、本当に180度変わってしまった。
躊躇いもあった、戸惑いもあった、忘れようと努力したときもあった、でも……憧れはいつしか恋に成長し、今、あたしはもう後戻りのできないところまで来ている。
机の上、携帯のランプが、着信のあることを知らせていた。
「もしもし……」
浮かない表情のまま電話を耳に当てたあたしに聞こえてきたのは、大好きな人の澄んだ声。
はじめのうちは、こんな風に彼から電話がある度にドキドキしてた。
でも今は、当たり前みたいに受け答えができる。
何事にも慣れというものはあるんだなあ、と変に納得してしまう。
「俺だけど、……今、何してた?」
あなたのことを考えてた、なんて言えるわけない。
「ちょうど、お風呂から上がったとこ……蒼は?」
「俺も、さっきロケから帰ってきたばっかなんだけど、一息ついたら、なんか疲れがどばっと出たって感じでさ……そしたら急に、藍の声聞きたくなった」
藍の声って、意外と癒し系、と彼は言う。
あたしだって、例えば蒼の歌を聴くだけでもすごく癒されるのに、その彼にこんな風に言われるなんて、くすぐったいような妙な気分だ。
「今からおいでよなんて言っても、無理な話だよなあ……もう遅いし」
電話口、ひとりごとのように彼は呟く。
それを聞いて、胸のずっと奥の方がきゅうっと痛くなった。
「……行こうかな……」
「え?」
「あたしも……蒼に会いたくなっちゃった」
「俺、明日も朝早いよ?」
「ううん、構わない……1時間でも2時間でも、蒼と一緒にいられるなら……」
甘えたあたしの言葉に、電話の向こうで蒼が苦笑する気配。
「OK。それじゃあ、少しでも長くいられるように、急いでおいで」
ああ、いつだってこんな風に。
彼が拒まないから、あたしも退けなくなってしまうのに。
電話ではしょっちゅう話していたけど、実際に会うのは、あたしが甲斐くんの別荘に行く前の日以来だから、結構久しぶりになる。
お菓子やジュースをコンビニの袋いっぱいに買って、家に遊びに来た友紀ちゃんは、あたしの部屋に入るなり、周囲をぐるりと見回して溜息を吐いた。
「はあ~、相変わらず蒼だらけだね、藍の部屋は」
通りすがりに、壁に貼られた蒼のポスターを指先でとんと叩き、いくら熱上げたって手の届く人じゃないのにさ、と友紀ちゃんは言う。
まさか、実は付き合っていますとも言えず、あたしは笑ってごまかした。
壁の一角、蒼の笑顔に埋もれるようにして掛けられたコルクボード。
友達同士で写したスナップ写真やプリクラが折り重なって貼り付けられたそこに、不自然な空間があること、目ざとい友紀ちゃんはすぐに気がついた。
「藍、これって……」
「……うん、そうだよ」
そこは、甲斐くんと2人で撮った写真が貼ってあった場所だ。
別荘から帰った日、甲斐くんからの電話を切ったあとで、全部はがした。
「それじゃあ、甲斐くんとはやっぱり……?」
眉を顰めてそう聞き返す友紀ちゃんに、あたしは小さく首を振った。
「ごめん、友紀ちゃん……今はまだ、甲斐くんの話はしたくない」
「藍の気持ちもわからなくはないよ、でも、甲斐くんだって反省してるんだよ」
「反省?」
顔を上げて友紀ちゃんを見ると、彼女は真面目な顔であたしを見返してきた。
「そうだよ、別荘でのことは、藍にも悪いことをしたと思ってるって。でも、藍は話も聞いてくれないんだって、甲斐くん、すごく困ってた」
それを聞いて、ちょっと妙な感じがした。
友紀ちゃん、どうしてこんな甲斐くんの肩を持つような言い方するんだろう。
「友紀ちゃんが甲斐くんから何を聞いたか知らないけど、あたしは、その現場をちゃんと見ちゃったの。今さら、どんな言い訳されても意味ないよ」
「それは、そうかも知れないけど……」
友紀ちゃんは、そこで言葉に詰まったように俯いた。
友紀ちゃんが、親友のあたしを励ましに来てくれたとか、一緒になって甲斐くんに怒るというのならわかる、でも、彼女のこんな態度はちょっと変だ。
「友紀ちゃんさ、甲斐くんに何か言われてきたの? あたしのこと、説得してくれとか」
「そんなことないよ、甲斐くんに頼まれたわけじゃない、ただ……」
友紀ちゃんは、はいていたスカートを両手でぎゅっと握り締めた。
「甲斐くん、すごく辛そうで、放っとけないっていうか……」
甲斐くんが、時どき、友紀ちゃんに相談を持ちかけていたことは知っていた。
あたしが、別の女友達と夜遊びに夢中になって携帯が繋がらなかったりすると、友紀ちゃんに電話してみたりもしてたらしい。
次に会ったとき、また高塚に電話しちゃったよって、照れくさそうに言うこともあった。
「甲斐くんね、彼氏として、本当はもっと藍のこと束縛したいのに、鬱陶しがられるのが嫌で、なかなか言えないんだってこぼしてた。意気地なし、しっかり捕まえておかないと、そのうちどこかに飛んでっちゃうよって、あたし、忠告してあげたのに」
「……そう」
甲斐くんが、あまりあたしに干渉しないのは、彼が優しいからだと思ってた。
見るからにお坊ちゃまで人が良さそうで、そんな彼に独占欲があったなんて意外だった。
「えっちのことも、そうなんだって」
「え?」
まったくの第三者であるはずの友紀ちゃんに、いきなりそんなことを言われて驚いた。
甲斐くんは、そんなプライベートなことまで彼女に相談していたのだろうか。
「ホントはもっと主導権握って、藍に恥ずかしいことを言わせたり、させたりしたかったって。でも、藍ってえっちにはすごく淡白に見えて、言い出せなかったって言ってた」
友紀ちゃんは、あたしの顔じゃなく、自分の手を見つめながら喋っていた。
その声が、微かに震えていることに気がついたのはそのときだ。
「友紀ちゃん……」
言いかけたあたしを遮るようにして、友紀ちゃんは続けた。
「だから、あたし……甲斐くんに言ったんだよ。あたしなら、甲斐くんに余計な気なんて使わせないのに、甲斐くんの好きにしていいのにって」
それから、不意に顔を上げ、友紀ちゃんはあたしと正面から向き合った。
友紀ちゃんは、泣いていた。
「あのとき……甲斐くんと一緒にいたのは、あたしだよ」
一瞬、何を言われているのかわからなかった。
友紀ちゃんは、日本語を喋ってくれているのだろうかと思った。
でも、徐々にその言葉の意味を理解するうちに、驚くよりも何よりも、ああ、あれは友紀ちゃんだったのか、と妙に納得してる自分がいた。
「ごめんね、藍……あたし、藍と甲斐くんの仲を裂こうとか、そんなこと思ってなかった。甲斐くんが藍のこと好きなのはわかってたし、横恋慕するつもりもなかったの。最初のうちは、藍の代わりに時どき抱いてもらえれば良かった、甲斐くんが藍にしたくてできなかったことを、あたしにしてくれれば良かった、それなのに……」
友紀ちゃんは、泣きながらあたしに抱き付いてきた。
「2人が別荘に行くって聞いたとき、真っ先に、藍が甲斐くんのしたいと思っているようなことを、受け入れてしまったらどうしようって思った。甲斐くんも、せっかくの機会だから藍との仲を進展させたい、みたいなことは言ってたし、そしたらあたしはどうなるんだろう、甲斐くんともこのまま終わっちゃうのかな、そう考えたら居ても立ってもいられなくて……」
涙でぐちゃぐちゃに濡れた顔を、あたしの肩に押し付けて、友紀ちゃんは、ごめんねと何度も謝ったけど、彼女に対する怒りや憤りなんて、これっぽっちも湧いてこなかった。
あたしは、友紀ちゃんの背中を、小さい子をあやすようにそっと撫でた。
「謝ることなんてないよ、友紀ちゃんは何にも悪くない」
「藍……?」
しゃくり上げながら、友紀ちゃんはあたしを見た。
あたしは、そんな友紀ちゃんに笑いかけた。
「謝らなきゃいけない人がいるとすれば、それは友紀ちゃんでも甲斐くんでもない……あたし自身だよ。あたしが優柔不断だったから、みんなに辛い思いをさせたの」
あたしと蒼の経緯など何も知らない友紀ちゃんは、当然ながら、あたしの言う意味がわからずに、不審げに首を傾げた。
「どうして……? どうして、怒らないの?」
「友紀ちゃんは、悪いことしてないからだよ。あたしだって、甲斐くんのことすごく傷つけたの、だから……こんなあたしが言うのもなんだけど、友紀ちゃんが甲斐くんのことを好きでいてくれるなら、これから彼のことを支えてあげてほしい」
お願い……背中を抱きしめながらそう言うと、友紀ちゃんは、まだ少し半信半疑の様子ながら、それでも小さく頷いた。
愛情も、友情も、きっといつかは涸れてしまう。
だとしたら、「今」を大事にすることは間違いじゃない。
それを失ってしまったときに、あのときああすれば良かったと、後悔しないためにも。
* * * * *
「藍ちゃん、藍ちゃん!」
お風呂から出たばかりのあたしを、妹の茜が大声で呼ぶ。
あたしは、濡れた髪をバスタオルで拭きながら、リビングに顔を出した。
「うるさいなあ……何よ、茜?」
珍しく早く帰ったパパは、食卓でビールを飲んでいる。
ママは、そんなパパの差し向かいに座って、晩酌に付き合っている。
そして、テレビの前のソファに陣取った茜は、おいでおいでとあたしに手招きした。
「ほら、藍ちゃんの好きな蒼くんのドラマ、もうすぐ始まるよ!」
茜の言葉通り、テレビの画面には蒼の主演するドラマのタイトルが映し出され、そのバックには主題歌でもある彼の歌が流れていた。
「……別に無理して今観ることないよ、録画もしてあるし」
となりに腰を下ろしながらも、気のない風でそんなことを言うあたしに、茜は怪訝そうな顔を向けた。
「変なのォ。ちょっと前までは、15秒のCMにまで、蒼だ蒼だって騒いでた人が」
茜がそう言うのももっともだった。
少なくとも、蒼とあんなことになる前のあたしは、画面にほんのちょっとでも蒼が映ろうものなら、歌番組だろうがバラエティーだろうが、それが彼のゴシップを扱ったワイドショーだったとしても、歓声を上げて喜んだ。
それが、今は……。
CMでタレントの女の子と笑い合う、ドラマで相手役の女優さんに微笑みかける、そんな彼を目にするだけで、胸が無性に苦しくなる。
こういう心の動きを、嫉妬というのだろうか。
彼への憧れだけがすべてだったころには、持ち合わせていなかった感情。
『あんたがわかってくれるまで、何度だって言うよ』
画面の中で、少し眉を顰めた蒼が言う。
『俺はあんたが好きだ、……好きだ、好きだ、好きだ!』
叫びながら、ヒロインを抱きしめる蒼。
沈みかけた夕日を背にして、2人のシルエットが寄り添う。
……それ以上は見ていられなくなって、思わず俯いた。
これはドラマだ、演技なんだ、蒼は与えられたシナリオの通りに、その役柄を演じているだけだ。
そんなこと、あらためて考えてみるまでもなくわかってる。
なのに、苦しくて悲しくて悔しくて……これが嫉妬というものなら、なんて切ない感情だろうと思う。
とりわけ、あたしのように、対象が定まらない場合には。
ドラマの台詞なら、あんなに簡単なのに。
どうして……あたしは、あなたの口からそれを聞くことができないんだろう。
何度も言ってくれなくていい、たった1度だけでもいい、その場限りの嘘でも構わない、ただひと言……好きだよと囁いて欲しい。
「あれ、最後まで観ないの?」
物語の途中で腰を上げたあたしを、茜はまた不思議そうに見た。
「うん、もういい……髪、早く乾かさないと傷むから」
答えるうちに涙が出そうになって、あたしは2階へ駆け上がった。
それは、初めて会った夜に、蒼があたしに言ったのと同じ台詞だった。
ドライヤーの温かい風、髪を梳く蒼の優しい指、うなじの窪みに押し付けられた唇の感触まで……今でも手に取るように思い出すことができる。
あの夜から、あたしの人生は、本当に180度変わってしまった。
躊躇いもあった、戸惑いもあった、忘れようと努力したときもあった、でも……憧れはいつしか恋に成長し、今、あたしはもう後戻りのできないところまで来ている。
机の上、携帯のランプが、着信のあることを知らせていた。
「もしもし……」
浮かない表情のまま電話を耳に当てたあたしに聞こえてきたのは、大好きな人の澄んだ声。
はじめのうちは、こんな風に彼から電話がある度にドキドキしてた。
でも今は、当たり前みたいに受け答えができる。
何事にも慣れというものはあるんだなあ、と変に納得してしまう。
「俺だけど、……今、何してた?」
あなたのことを考えてた、なんて言えるわけない。
「ちょうど、お風呂から上がったとこ……蒼は?」
「俺も、さっきロケから帰ってきたばっかなんだけど、一息ついたら、なんか疲れがどばっと出たって感じでさ……そしたら急に、藍の声聞きたくなった」
藍の声って、意外と癒し系、と彼は言う。
あたしだって、例えば蒼の歌を聴くだけでもすごく癒されるのに、その彼にこんな風に言われるなんて、くすぐったいような妙な気分だ。
「今からおいでよなんて言っても、無理な話だよなあ……もう遅いし」
電話口、ひとりごとのように彼は呟く。
それを聞いて、胸のずっと奥の方がきゅうっと痛くなった。
「……行こうかな……」
「え?」
「あたしも……蒼に会いたくなっちゃった」
「俺、明日も朝早いよ?」
「ううん、構わない……1時間でも2時間でも、蒼と一緒にいられるなら……」
甘えたあたしの言葉に、電話の向こうで蒼が苦笑する気配。
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