Love, Truth and Honesty

逢坂莉子

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無期限の待ちぼうけ(2)

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 別に、声なんかかけなくても良かった。
 知らん顔をして、通り過ぎても良かった。

 なのに、どうして足を止めてしまったんだろう。

 あの日、人気の絶えたころを見計らって裏口を出ると、外はいつの間にか篠つく大雨。
 その雨の中で、彼女を見つけた。
 汚れたコンクリートの壁際、背中を丸めて膝を抱え、縮こまるようにして。
 自分に似た格好をさせた事務所の後輩を、影武者としてバンに乗せてあったからファンの子たちはそっちを追いかけて行ったはずだし、どんなに疑り深い子でもこの時間までは待たないだろうと思っていた俺は、ドアを開けた途端、彼女の姿が目に飛び込んできたときには、さすがにぎょっとした。
 でも、膝に額をくっつけるようにして俯いていた彼女は、俺が出てきたことにも気づいていないようだった。
 だから、本当ならそのまま見過ごすこともできたはずだ。
 それなのに、気がつけば彼女の前に立って、声をかけていた。
「何やってんの、こんなとこで……風邪ひくよ?」
 いきなり声をかけられた彼女は、本当に驚いたようで、びくっと肩を震わせて顔を上げたけれど、もっと驚かされたのは俺の方だ。
 なぜなら、彼女は泣いていたから。
 俺を見上げた目はウサギみたいに真っ赤で、涙が頬にいくつもの筋をつけていた。
 俺は、咄嗟に手を伸ばして、その涙を指先で拭った。
 目の前にうずくまる彼女は、雨の中に置き去りにされた捨て猫のように哀しげで、なぜか無性に放っておけない気がした。
「蒼……?」
 夢と現実の区別もついていないような瞳で、彼女は俺の名前を呼んだ。
 お腹を空かせた子猫みたいな声だった。
 頷いた俺が、具合でも悪いのかと聞くと、彼女は、足が痛いのだというような意味のことをもごもごと口の中で呟いた。
 見れば、どこでどうしたのかは知らないが、捻ったか挫いたかしたのだろう、確かにそれとわかるくらいに足首が腫れていた。
 とりあえず、応急手当くらいは必要だと思えた。
 俺は、彼女を自分の車に乗せることに決めた。

 本当は、最寄の駅かタクシーの拾える大通り辺りまで送ってやるくらいのつもりだった。
 でも、車の中でも彼女はずっとしょんぼりしている感じで、もう少しもう少しと思いながらタイミングを逃し、結局は自分のマンションに辿り着いてしまった。
 口数は多くなかったけど、その言葉の端々から、彼女が俺の熱心なファンであろうことは窺い知れた。
 本来なら、そんな子を自宅に連れ帰るなんてことは絶対にタブーだった。
 熱心さが高じてストーカー行為にでも出られたら厄介だし、得意になって周囲の友達にでも吹聴されればそれも迷惑、おまけに最近の暴露ブームで、あることないことマスコミにでも喋られたら収拾がつかない。
 彼女も、そういうことをする人間であるかも知れなかった。
 けれど、そうではない可能性も十分にある。
 自分はわりと直感というものを信じる人間だが、このときも、それまで彼女と接した時間はほんの少しだったにもかかわらず、俺の気持ちは後者の方に動いていた。
 俺は、躊躇わず彼女を抱き上げて、自分の部屋へと連れて行った。

 戸惑う彼女を無理やりのようにバスルームに押し込み、コーヒーを淹れた。
 コーヒーといえば、いつもスタジオやロケ先で飲む、紙コップ入りのインスタントが常だから、こうして自宅でゆっくりできるときには、ちゃんとサイフォンで沸かすようにしている。
 忙しい自分の、数少ない楽しみのうちのひとつだ。

 しばらくして、彼女が風呂から上がってきた。
 濡れた服は乾かさなければいけないし、かといって女物の着替えなんてあるわけがないから、仕方なく俺のシャツを貸してあげたのだけど、見た感じ俺との身長差が20センチはありそうな彼女には少し大きすぎたようだ。
 だぶだぶの袖口からのぞく指先だとか、裾から見える丸い膝小僧だとかが、女の子なんだなあと思った。
 コーヒーを勧め、砂糖はいくつと尋ねると、意外なことに「お砂糖は入れないの」と彼女は答えた。
 女の子っていうのは、総じて甘党なのだと思っていたから、甘いものはあまり好きじゃないと言う彼女が、少し珍しくてしげしげと顔を覗き込んだ俺に、彼女は戸惑ったように赤くなって俯いた。
 それから、俺が足首にテーピングをしてやっている間も、黙ったまま石のように固くなってじっと俺を見下ろしていた。
 彼女は、確かに俺のファンであるかも知れない。
 だけど、彼女の持つ雰囲気は、俺の周りに集うグルーピーな女の子たちとは少し違っていた。
 変に卑屈だったり媚びたりするところがない代わりに、熱狂的な女の子たちがしばしば見せる「蒼になら身も心も捧げてもいい!」みたいな体当たり的な部分もない。
 ただ、大人しくとなりに腰を下ろして、俺のかける言葉に小さな声で受け答えをする。

 もしかすると、彼女はこれを現実の出来事として認識していないのではないかと思えるくらい、その瞳は夢見がちだった。

 彼女は、マロンブラウンの髪を、肩甲骨の辺りまで伸ばしていた。
 風呂上りでまだ湿っているそれを、ドライヤーで乾かしながら梳いてやると、撫でられて喉を鳴らす猫みたいに目を細める。
 指の間をさらさらと流れる彼女の髪はきれいだった。
 髪を伸ばしている理由を聞くと、俺が雑誌で「髪の長い女の子が好き」みたいなことを言っていたからだ、と彼女は答えた。
 本人の俺さえ、そんなインタビューを受けたことすら忘れていたのに、それに影響されて髪を伸ばしている子がいるってことが、なんだかちょっといじらしくて。
 気がついたら、彼女の髪に顔を寄せていた。
「こうしてみると、確かに髪の長い女の子も悪くない」
 耳元で囁くと、彼女はぶるっと身体を震わせた。
 まるで、今まで誰にもそうされたことのない初心な生娘みたいに。

 そのとき、俺は衝動的に思った。

 彼女を、手に入れたいって。

 彼女のどこが良くて、彼女の何が欲しいのかなんてわからなかった。
 ただ……とにかく自分のものにしたいと思った。

 だから、俺は彼女を抱いた。
 途中で、まだ彼女の名前も知らなかったことに気づいて尋ねると、彼女は蚊の鳴くような声で「あい」と答えた。
 漢字では、愛情の愛ではなくて、藍色の藍と書くらしい。
 俺と同じ……青の名前。
 深く沈んだ青を連想させるその名前は、彼女にぴったりだと俺は思った。

「どうして、あんなところで泣いてたの」
「……蒼に、会いたかった」
「泣いちゃうくらい好きなんだ、俺のこと」
 頬に触れる俺の指に、本当に泣きそうになりながら、「好き」と小さな声で彼女は言った。
 俺は、無性に彼女を抱きしめたい衝動に駆られた。
 あとはもう、止めようがなくて……彼女が抵抗しないのをいいことに、俺は彼女の泉に自分自身を打ち込んだ。
 熱く潤ったソコは、信じられないくらいに心地が良かった。
 柔らかいのに、すごくキツイ……周囲の壁は休みなく蠕動して、俺を締め付けた。
 抱いて気持ちの良かった女は何人もいた。
 でも、いつまでもこのまま中にいたいと思わせた女は彼女が初めてだ。

 俺の腕の中で甘く息を乱しながら、それでも彼女はずっと悲しそうな顔をしていた。
 ごめんね、と謝られても、俺にはその意味さえもわからなかった。
 どちらかといえば、謝らなくてはいけないのは、自分のようにも思えた。

「今夜、こうして俺と出会えて良かったと思う、藍?」
 行為のあと、背中から抱きしめながらそう尋ねた俺に、彼女は力なく首を振った。
 思い出してみれば、あのとき、俺はすでに予感してたんだ。

 朝になったら、彼女はもう、この腕の中にいないだろうって。

* * * * *

 お昼過ぎになって、甲斐くんが家に来た。

 階下にいて、昨夜のこととか甲斐くんのこととか、ママにあれこれ聞かれるのは嫌だったから、整骨院から帰ったあとは、また自室にこもったあたし。
 天井で微笑む、蒼の優しい笑顔を眺めながら、ベッドの上に仰向けになって、しばらくひとりでぼんやりしてた。

 指を、自分の口元に当ててみる。
 蒼の、薄くて形のいい唇が、昨夜はあたしのここに触れて……。
 あたしは、そのときでも彼の唇の柔らかな感触をありありと思い出すことができた。
 唇だけじゃない……自分の身体のあちこちに、抱きしめられたぬくもりや愛し合った名残を感じることができた。
 昨夜のことは、夢じゃないんだとあらためて思う。
 自分で昨夜の出来事を夢だったと思い込もうとすればするほど、それは痛みすら伴うリアルさで、まるで映画のフラッシュバックのように、心の中に甦った。

 どうしよう……忘れられないよ。
 忘れられるわけないよ、蒼……。

 軽いノックの音がして、あたしはやっと我にかえる。
 ドアが開いて、顔を出したのはママと甲斐くんで、あたしは慌てて起き上がった。
 蒼のことを考えていて、玄関のチャイムが鳴ったのも、2人が階段を上ってくる音も聞こえなかった。
 それじゃ、ごゆっくり、と言い残してママが下りていくと、甲斐くんは部屋に入って静かにドアを閉めた。
「……呼んでくれれば、あたしが下まで行ったのに」
「構わないよ。怪我人は、大人しくしてればいいの」
 甲斐くんは、ニコニコと笑ってそう言い、ベッドの端っこに腰を下ろした。
 そして、唇にちゅっと軽いキス。
 いつもなら面映いばかりのこんな仕草も、今日はなんだか後ろめたい。
「ああ、ちゃんとお医者に行ったんだね」
 包帯を巻かれた足首に目を留めて、甲斐くんは「痛々しいな」と気の毒そうに言う。
「ううん、たいしたことないって整骨院の先生も言ってた。4・5日で治るだろうって」
「そっか、それ聞いて安心したよ。実際にこの目で見るまで、心配でいても立ってもいられなかった」
 言いながら、胸に抱き寄せられる。
 だけど……甲斐くんにそうされても、少しもときめかない自分に戸惑った。
「好きだよ、藍……」
「甲斐くん……」
 もう1度、キス。
 今度は、少し深いやつ。
 あたしをベッドに押し倒した甲斐くんが、ゆっくりと覆いかぶさってくる。
「そろそろ、手の届かないアイドルなんかに気を取られるのはやめにして……ちゃんと僕を見て欲しいな。こんなに、藍のことを想っている僕をね」

 甲斐くんはあたしを抱いた。
 そして、あたしは安心した。
 蒼とのときに感じたような、胸が痛くなるような切なさや、心の底からこみ上げるような罪悪感や、知らず涙が溢れてくるような哀しさを、露ほども思い出させない甲斐君とのそれは、あたしにとってものすごく気楽なものだった。

「所詮、僕たちとは住む世界が違うやつのことなんて忘れてしまって。僕はいつだって藍の側にいるし、藍だけを見てるんだから」

 ……甲斐くんの言う通りかも知れない。
 蒼は、願っても手の届かない人。
 そんな蒼を想い続けることは、無期限の待ちぼうけに違いないのだから。
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