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望ましくない光景(4)
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「…………!」
扉の陰、危うく声を上げそうになったあたしは、両手で口元を押さえた。
望ましくない光景。
見てはいけないものを、見たと思った。
薄暗いリビング。
壁際に置かれた陶製のスタンドから、淡い光が落ちている。
部屋の中央に、甲斐くんが立っている。
そして、彼と向かい合う位置で、絨毯の上に膝をついた女の人。
甲斐くんは、片手を腰に当て、もう片方の手を女性の頭の上に置いている。
こちらに背を向け、俯き加減の女性の顔は、見えない。
だけど……2人が全裸であることは、あたしの位置からでもわかった。
「僕のは、美味しいか?」
低く、抑えたような声は甲斐くんのものだ。
それに対し、女性がくぐもった声で何か答えるけれど、その内容までは聞き取れない。
そんな彼女を見下ろしながら、甲斐くんが薄く笑う。
「だったら、もっと音を立てて美味しそうに咥えろ」
言いながら、彼女の髪を鷲づかみにする甲斐くんの手。
同時に、女性が喉の奥に何か詰まったような苦しげな声を出す。
静かな部屋に響く唾液の音と、荒い息遣い。
はっきりとは見えなくても、2人が何をしているかくらいはわかる。
甲斐くんが、自分のアレを、女の人に……。
あたしは、瞬きをするのも忘れて、その光景に見入っていた。
あたし自身は、彼に強要されるどころか、求められたことさえない行為だ。
あれは、本当にあの優しい甲斐くんなの?
抑揚のない命令口調も、粗野な仕草も、あたしには見せたことのない彼の一面?
「イイ顔してる……本当に好きなんだな、僕のコレが」
女性の頭を押さえつけたまま、甲斐くんが2度3度と腰を揺らす。
その度に、彼女は苦しげに呻いて首を振った。
あんなものを口中に押し込まれて、苦しくはないのだろうか?
気持ち悪くはないのだろうか?
甲斐くんのモノが喉の奥を突くのか、時おり、彼女の背中が小さく戦慄く。
それでも、逃げようと抵抗したり、頭に置かれた手を払って顔を上げようとはしない。
彼の腰に両手を回し、むしろ積極的にそれを受け入れようとしているようだ。
これも、ひとつの……男女の愛し合うカタチなのだろうか?
蒼が、あたしのアソコを口で愛撫してくれたように?
「ああ、イイ……もうすぐ、出すよ?」
彼女の頭が上下し、それは頷いたようにも見えた。
「……くうぅっ」
眉を顰め天井を仰いだ甲斐くんが、激しく腰を突き出す。
その瞬間、どくどくと精の迸る音が聞こえたような気がした。
「僕のすべてを受け止めろ、一滴残らず飲み干すんだ」
掠れたような声で、彼は言った。
それはあたしが聞いたこともないような、満足げな声だった。
吐き気がする。
思わぬものを目にした驚きと、緊張のせいだ。
目の前で痴態を晒す2人への嫌悪感もあるかも知れない。
あたしは、確かに嫌悪していた。
こんな場所であんなことをする甲斐くんたちを、汚らわしいと思った。
自分だって、ついさっきまで蒼と抱き合っていたくせに、勝手なのはわかってる。
自分のことを棚に上げて、とはこういうことだ。
だけど……やっぱり、ものすごく裏切られたような気がした。
そこにいる甲斐くんは、あたしの知っている甲斐くんとはあまりにも違っていた。
甲斐くんが、あたしに激しいセックスを強要しないのは、彼が優しいから、あたしのことを気遣ってくれているから、そう思ってた。
でも、この光景を目にしてしまったら、もうそんな風には考えられない。
あたしは、踵を返してその場を離れた。
動転しているようで、足音を立てないように気をつけるという冷静な部分もあった。
部屋に駆け込み、荷造りをする。
ここを出るなら今だと思った。
朝が来て、甲斐くんがいつもと変わらぬ様子だったら、普段通りの優しい彼だったら、あたしはたった今この目で見た光景も、夢だったと思うことで納得してしまうかも知れない。
甲斐くんのことを問い詰めることもできず、また自分の罪を打ち明けることもできずに。
玄関までサンダルを取りに行く気には、到底なれなかった。
あのリビングには、もう近づくことさえ嫌だった。
あたしは、裸足のまま窓を乗り越え、夜露に濡れた草の上に飛び降りた。
道の先、黒い車がハザードを点滅させたまま停まっている。
そのボンネットに寄りかかるようにして立っている人がいる。
闇の中、彼の吸う煙草の火が、時どき、赤い。
彼は、あたしの姿を見つけると、その場で腕を広げてくれた。
まるで、こうなることを予期していたように。
彼に駆け寄り、その胸にしがみついたあたしの髪を、大きな手のひらがそっと梳く。
「どうして……?」
あたしの問いかけに、彼は首を傾げて小さく笑った。
「藍は、必ず来ると思ってたよ。だから、待ってた」
それから、さあ乗って、とあたしを助手席に押し込める。
彼の匂いがする、彼の車。
昂っていた気持ちが、すうっと落ち着いていく気がする。
「余計なことは聞かないつもりだけど」
車が走り出してから、彼は言った。
「……これが藍の正直な気持ちだって、思ってもいいね?」
運転席から伸ばされた手が、頬に触れる。
あたしはそれに自分の手を重ねて、小さく頷いた。
こんなの、自分勝手でひとりよがりな思い込みだってわかってる。
でもね、蒼……。
この世界に、あなたがいてくれて、良かった。
* * * * *
蒼は、黙って車を走らせ続けた。
余計なことは聞かないつもりだと言った言葉の通り、彼は何も尋ねようとはしなかった。
自分の口からそれを語ることには躊躇いがあったあたしにとっても、あえて詮索をしない蒼のデリカシーは有り難いものに思えた。
何も話さなくても、時おり向けられる視線や、信号待ちの合間にそっと触れてくる指先などから、彼の優しさは十分に感じられた。
蒼が、すごく近くにいるような気がした。
あんなにも、手の届かない遠い存在だと思っていたのに。
高速道路の大きなサービスエリアに車を入れると、彼は初めて口を開いた。
「降りて?」
「う、うん……でも、靴がない……」
口ごもったあたしの足元に視線を落として、呆れたように眉を上げる蒼。
「何があったにしたって、裸足で飛び出してくることはないだろうに」
それから、バックシートの下を探って、大きな革のサンダルを引っ張り出す。
「ちょっと大きいかも知れないけど」
履いてみると、それは、かも知れないどころか足が泳いでしまうくらいに大きかった。
蒼は、そんなあたしの顔と足元を交互に見て、ぷぷっと吹き出すようにして笑う。
「ホンットに小さいね、藍は」
「あたしは標準、蒼が大きすぎるのっ」
足のサイズだけじゃない。
初めて会った夜に貸してもらったシャツだって、すごく大きかった。
髪を撫でる手のひらも、抱き寄せられる胸も、覆い被さる肩も。
心だって、彼はきっと大きい。
「ペンギンみたいだ」
ぺたぺたとサンダルを鳴らしながら歩くあたしに、彼は言った。
「今にもつんのめりそう、危なっかしくて見ていられない」
ほら、と差し伸べられる手。
深夜のサービスエリア、さすがに人は多くない。
蒼も、ちゃんと帽子をかぶってサングラスもかけてる。
すれ違ったくらいじゃ、彼が本物の蒼だと気づく人はいないだろう。
でも、こんな公共の場で手を繋ぐなんて、やっぱり気が引ける。
戸惑っていると、彼はさっさとあたしの手をつかんで、自動ドアをくぐった。
「何か買うの?」
あたしが尋ねると、土産物の棚を物色していた彼は、またちょっと呆れた顔をした。
「まさか、家族に土産のひとつも買って帰らないつもりじゃないだろうね? それとも、甲斐よりも一足先に帰ってきたから、お土産はありませんと素直に言うの?」
「あ、そうか……」
確かに、お土産も買わずに帰ったら、家族に要らぬ心配をされてしまう。
別荘で見たことを家族には言えるわけがないし、そうである以上は、甲斐くんとは上手くいっているふりをしなくちゃならない。
だけど、そんなところにまで蒼が気を使ってくれるとは思わなかった。
あたしがそんなことを考えているうちに、蒼は、チョコレートとかお饅頭とかお蕎麦とか信州らしいお土産をいくつか選んで、それを買ってくれた。
「あ、あの……ありがとう……」
恐縮してお礼を言ったあたしに、彼はいつも通りに小さく首を傾げて笑った。
サングラスに遮られていても、彼が優しい瞳であたしを見ているのがわかる。
蒼……。
あたし、あなたに好かれてるって、ちょっとは思ってもいいのかな……。
車に戻る前に行ったトイレで、2人組みの女の子と居合わせた。
彼女たちは、鏡に向かって髪を直しながら、こんな話をしていた。
「ねえねえ、さっきの男の人、鷹宮蒼に似てたよね」
「ああ、あの背が高くてちょっとカッコいい人でしょ? あたしもそう思った」
「でも、別人だよね。蒼がこんなところにいるなんて有り得ないもん」
「そうだよねえ。あ~あ、ひと目でいいから本物の蒼に会いたいよ」
聞こえないふりをして手を洗いながら、ちょっとだけ笑った。
あれが、正真正銘、本物の蒼なのにって。
「今ね、女の子が2人、さっきの人、蒼に似てたねって話してたよ」
トイレから出たところであたしを待っていてくれた彼は、それを聞いてきれいな眉を少しだけ上げた。
「へえ、それで?」
「それでって、別にそれだけだけど……」
相変わらず、ぺたぺた歩くあたしの手を引きながら、蒼は小さく嘆息した。
「君さあ、ちょっとは優越感とか感じたりしないわけ?」
「優越感?」
「君はね、その『本物の蒼』ってやつを、その子が彼氏としけ込んでる別荘に迎えに行かせちまうくらい夢中にさせてるの」
そういう肝心なこと、ちゃんとわかってくれないと困る。
そんなことを呟きながら、蒼はリモコンでロックを解除してドアを開けると、あたしを助手席に座らせた。
「でも、まあ……そんな風に素でマイペースなところが、藍らしいと言えばそうなんだけど」
運転席に乗り込んだ彼が、サングラスを外して微笑む。
あたしの大好きな天井のポスターそのままに優しくて爽やかで、それよりももっともっと素敵な、生身の蒼の笑顔。
それが、今は――今だけは――あたしひとりに向けられていると自惚れてもいい?
「そんな顔をしないの」
どんな顔をしていたんだろうと思う前に、頬っぺたをつねられた。
「あんまり可愛いと、ところ構わず抱きたくなっちまうだろ?」
冗談とも本気ともつかない口調で、蒼は言う。
蒼に可愛いと言われるのは、嬉しい。
率直に抱きたいと言ってもらえるのも、もちろん嬉しい。
やっぱり……今の状態で、あたしは満足するべきなんだよね。
それ以上を期待するのは、きっと高望みすぎる。
例えば、彼に……可愛いや抱きたい以外の、もっと大事な言葉を、囁いて欲しいと願うことは。
扉の陰、危うく声を上げそうになったあたしは、両手で口元を押さえた。
望ましくない光景。
見てはいけないものを、見たと思った。
薄暗いリビング。
壁際に置かれた陶製のスタンドから、淡い光が落ちている。
部屋の中央に、甲斐くんが立っている。
そして、彼と向かい合う位置で、絨毯の上に膝をついた女の人。
甲斐くんは、片手を腰に当て、もう片方の手を女性の頭の上に置いている。
こちらに背を向け、俯き加減の女性の顔は、見えない。
だけど……2人が全裸であることは、あたしの位置からでもわかった。
「僕のは、美味しいか?」
低く、抑えたような声は甲斐くんのものだ。
それに対し、女性がくぐもった声で何か答えるけれど、その内容までは聞き取れない。
そんな彼女を見下ろしながら、甲斐くんが薄く笑う。
「だったら、もっと音を立てて美味しそうに咥えろ」
言いながら、彼女の髪を鷲づかみにする甲斐くんの手。
同時に、女性が喉の奥に何か詰まったような苦しげな声を出す。
静かな部屋に響く唾液の音と、荒い息遣い。
はっきりとは見えなくても、2人が何をしているかくらいはわかる。
甲斐くんが、自分のアレを、女の人に……。
あたしは、瞬きをするのも忘れて、その光景に見入っていた。
あたし自身は、彼に強要されるどころか、求められたことさえない行為だ。
あれは、本当にあの優しい甲斐くんなの?
抑揚のない命令口調も、粗野な仕草も、あたしには見せたことのない彼の一面?
「イイ顔してる……本当に好きなんだな、僕のコレが」
女性の頭を押さえつけたまま、甲斐くんが2度3度と腰を揺らす。
その度に、彼女は苦しげに呻いて首を振った。
あんなものを口中に押し込まれて、苦しくはないのだろうか?
気持ち悪くはないのだろうか?
甲斐くんのモノが喉の奥を突くのか、時おり、彼女の背中が小さく戦慄く。
それでも、逃げようと抵抗したり、頭に置かれた手を払って顔を上げようとはしない。
彼の腰に両手を回し、むしろ積極的にそれを受け入れようとしているようだ。
これも、ひとつの……男女の愛し合うカタチなのだろうか?
蒼が、あたしのアソコを口で愛撫してくれたように?
「ああ、イイ……もうすぐ、出すよ?」
彼女の頭が上下し、それは頷いたようにも見えた。
「……くうぅっ」
眉を顰め天井を仰いだ甲斐くんが、激しく腰を突き出す。
その瞬間、どくどくと精の迸る音が聞こえたような気がした。
「僕のすべてを受け止めろ、一滴残らず飲み干すんだ」
掠れたような声で、彼は言った。
それはあたしが聞いたこともないような、満足げな声だった。
吐き気がする。
思わぬものを目にした驚きと、緊張のせいだ。
目の前で痴態を晒す2人への嫌悪感もあるかも知れない。
あたしは、確かに嫌悪していた。
こんな場所であんなことをする甲斐くんたちを、汚らわしいと思った。
自分だって、ついさっきまで蒼と抱き合っていたくせに、勝手なのはわかってる。
自分のことを棚に上げて、とはこういうことだ。
だけど……やっぱり、ものすごく裏切られたような気がした。
そこにいる甲斐くんは、あたしの知っている甲斐くんとはあまりにも違っていた。
甲斐くんが、あたしに激しいセックスを強要しないのは、彼が優しいから、あたしのことを気遣ってくれているから、そう思ってた。
でも、この光景を目にしてしまったら、もうそんな風には考えられない。
あたしは、踵を返してその場を離れた。
動転しているようで、足音を立てないように気をつけるという冷静な部分もあった。
部屋に駆け込み、荷造りをする。
ここを出るなら今だと思った。
朝が来て、甲斐くんがいつもと変わらぬ様子だったら、普段通りの優しい彼だったら、あたしはたった今この目で見た光景も、夢だったと思うことで納得してしまうかも知れない。
甲斐くんのことを問い詰めることもできず、また自分の罪を打ち明けることもできずに。
玄関までサンダルを取りに行く気には、到底なれなかった。
あのリビングには、もう近づくことさえ嫌だった。
あたしは、裸足のまま窓を乗り越え、夜露に濡れた草の上に飛び降りた。
道の先、黒い車がハザードを点滅させたまま停まっている。
そのボンネットに寄りかかるようにして立っている人がいる。
闇の中、彼の吸う煙草の火が、時どき、赤い。
彼は、あたしの姿を見つけると、その場で腕を広げてくれた。
まるで、こうなることを予期していたように。
彼に駆け寄り、その胸にしがみついたあたしの髪を、大きな手のひらがそっと梳く。
「どうして……?」
あたしの問いかけに、彼は首を傾げて小さく笑った。
「藍は、必ず来ると思ってたよ。だから、待ってた」
それから、さあ乗って、とあたしを助手席に押し込める。
彼の匂いがする、彼の車。
昂っていた気持ちが、すうっと落ち着いていく気がする。
「余計なことは聞かないつもりだけど」
車が走り出してから、彼は言った。
「……これが藍の正直な気持ちだって、思ってもいいね?」
運転席から伸ばされた手が、頬に触れる。
あたしはそれに自分の手を重ねて、小さく頷いた。
こんなの、自分勝手でひとりよがりな思い込みだってわかってる。
でもね、蒼……。
この世界に、あなたがいてくれて、良かった。
* * * * *
蒼は、黙って車を走らせ続けた。
余計なことは聞かないつもりだと言った言葉の通り、彼は何も尋ねようとはしなかった。
自分の口からそれを語ることには躊躇いがあったあたしにとっても、あえて詮索をしない蒼のデリカシーは有り難いものに思えた。
何も話さなくても、時おり向けられる視線や、信号待ちの合間にそっと触れてくる指先などから、彼の優しさは十分に感じられた。
蒼が、すごく近くにいるような気がした。
あんなにも、手の届かない遠い存在だと思っていたのに。
高速道路の大きなサービスエリアに車を入れると、彼は初めて口を開いた。
「降りて?」
「う、うん……でも、靴がない……」
口ごもったあたしの足元に視線を落として、呆れたように眉を上げる蒼。
「何があったにしたって、裸足で飛び出してくることはないだろうに」
それから、バックシートの下を探って、大きな革のサンダルを引っ張り出す。
「ちょっと大きいかも知れないけど」
履いてみると、それは、かも知れないどころか足が泳いでしまうくらいに大きかった。
蒼は、そんなあたしの顔と足元を交互に見て、ぷぷっと吹き出すようにして笑う。
「ホンットに小さいね、藍は」
「あたしは標準、蒼が大きすぎるのっ」
足のサイズだけじゃない。
初めて会った夜に貸してもらったシャツだって、すごく大きかった。
髪を撫でる手のひらも、抱き寄せられる胸も、覆い被さる肩も。
心だって、彼はきっと大きい。
「ペンギンみたいだ」
ぺたぺたとサンダルを鳴らしながら歩くあたしに、彼は言った。
「今にもつんのめりそう、危なっかしくて見ていられない」
ほら、と差し伸べられる手。
深夜のサービスエリア、さすがに人は多くない。
蒼も、ちゃんと帽子をかぶってサングラスもかけてる。
すれ違ったくらいじゃ、彼が本物の蒼だと気づく人はいないだろう。
でも、こんな公共の場で手を繋ぐなんて、やっぱり気が引ける。
戸惑っていると、彼はさっさとあたしの手をつかんで、自動ドアをくぐった。
「何か買うの?」
あたしが尋ねると、土産物の棚を物色していた彼は、またちょっと呆れた顔をした。
「まさか、家族に土産のひとつも買って帰らないつもりじゃないだろうね? それとも、甲斐よりも一足先に帰ってきたから、お土産はありませんと素直に言うの?」
「あ、そうか……」
確かに、お土産も買わずに帰ったら、家族に要らぬ心配をされてしまう。
別荘で見たことを家族には言えるわけがないし、そうである以上は、甲斐くんとは上手くいっているふりをしなくちゃならない。
だけど、そんなところにまで蒼が気を使ってくれるとは思わなかった。
あたしがそんなことを考えているうちに、蒼は、チョコレートとかお饅頭とかお蕎麦とか信州らしいお土産をいくつか選んで、それを買ってくれた。
「あ、あの……ありがとう……」
恐縮してお礼を言ったあたしに、彼はいつも通りに小さく首を傾げて笑った。
サングラスに遮られていても、彼が優しい瞳であたしを見ているのがわかる。
蒼……。
あたし、あなたに好かれてるって、ちょっとは思ってもいいのかな……。
車に戻る前に行ったトイレで、2人組みの女の子と居合わせた。
彼女たちは、鏡に向かって髪を直しながら、こんな話をしていた。
「ねえねえ、さっきの男の人、鷹宮蒼に似てたよね」
「ああ、あの背が高くてちょっとカッコいい人でしょ? あたしもそう思った」
「でも、別人だよね。蒼がこんなところにいるなんて有り得ないもん」
「そうだよねえ。あ~あ、ひと目でいいから本物の蒼に会いたいよ」
聞こえないふりをして手を洗いながら、ちょっとだけ笑った。
あれが、正真正銘、本物の蒼なのにって。
「今ね、女の子が2人、さっきの人、蒼に似てたねって話してたよ」
トイレから出たところであたしを待っていてくれた彼は、それを聞いてきれいな眉を少しだけ上げた。
「へえ、それで?」
「それでって、別にそれだけだけど……」
相変わらず、ぺたぺた歩くあたしの手を引きながら、蒼は小さく嘆息した。
「君さあ、ちょっとは優越感とか感じたりしないわけ?」
「優越感?」
「君はね、その『本物の蒼』ってやつを、その子が彼氏としけ込んでる別荘に迎えに行かせちまうくらい夢中にさせてるの」
そういう肝心なこと、ちゃんとわかってくれないと困る。
そんなことを呟きながら、蒼はリモコンでロックを解除してドアを開けると、あたしを助手席に座らせた。
「でも、まあ……そんな風に素でマイペースなところが、藍らしいと言えばそうなんだけど」
運転席に乗り込んだ彼が、サングラスを外して微笑む。
あたしの大好きな天井のポスターそのままに優しくて爽やかで、それよりももっともっと素敵な、生身の蒼の笑顔。
それが、今は――今だけは――あたしひとりに向けられていると自惚れてもいい?
「そんな顔をしないの」
どんな顔をしていたんだろうと思う前に、頬っぺたをつねられた。
「あんまり可愛いと、ところ構わず抱きたくなっちまうだろ?」
冗談とも本気ともつかない口調で、蒼は言う。
蒼に可愛いと言われるのは、嬉しい。
率直に抱きたいと言ってもらえるのも、もちろん嬉しい。
やっぱり……今の状態で、あたしは満足するべきなんだよね。
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