16 / 34
間違えた言葉(2)
しおりを挟む
『もしもし、藍?』
はたして、電話の相手は甲斐くんだった。
『良かった、やっと捕まえた』
電話が繋がってよほど安心したのか、はあ、という大きな溜息。
『急にいなくなるから心配したんだよ、もちろん無事なんだろうね、今どこにいる?』
矢継ぎ早に、耳元で響く声。
心配した、というのは嘘ではないと思う。
あたしが部屋にいないことに気づいてから、必死であちこち探し回っただろうことも、想像に難くない。
「……東京、だよ」
『東京?』
彼は一瞬、理解できない外国語を聞いたときのような、戸惑った声を出した。
まさか、あたしが東京に戻っているなんて思ってもみなかったのだろう。
現実として、あたしにはそうする手段(あし)がなかったはずだから、甲斐くんが驚くのも無理はない。
あたしだって、あのときは勢いで飛び出してしまったけど、あそこに蒼がいてくれなかったら、無事に帰って来れたか怪しいものだ。
『東京だって? 一体、何がどうなっているんだ、まるきりわけがわからない』
甲斐くんは、電話口でぶつぶつとそんなことを言った。
どうやってあたしがひとりで東京まで帰ったのか、訝しむような口調だった。
「心配かけたなら、謝るよ……ごめんね」
『ああ、いや……とにかく、藍が無事ならそれでいいんだ。朝早く散歩にでも出て、どこかで迷子になってたりしたら大変だと思っただけだから』
こういう言い方をするところが、甲斐くんらしいなと思った。
彼はきっと、まだあたしのことを想ってくれているんだろう。
あたしが彼の前から消えた理由も、皆目見当がつかないに違いない。
「大丈夫だよ、あたしはこの通り、元気でぴんぴんしてる」
『そう、それなら良かった。だけど、何も言わずにいなくなることはないと思うな』
苦笑交じりで、けれどどこか咎めるように、甲斐くんは言った。
ああ、やっぱりこの人は何も気がついてないんだ。
だったら、あたしは、彼に話すべきだろうか。
昨晩、自分が目にしたもののことを?
『まあ、いいや。僕もこれから帰るよ、藍がいないのにひとりで残っていても意味がないからね。東京に着いたその足で、藍の家に寄ることにする。君のご両親にも挨拶しなければならないし……』
「それは、いいの。とりあえず、一緒に帰ってきたことになってるし、親に余計な心配かけないように、甲斐くんからだって言ってお土産も渡してあるから」
そこまで言われて、甲斐くんは、やっと何かに感づいたようにしばらく口を噤む。
次に言葉を発したときには、探るような口調になっていた。
『藍……君、ひとりで帰ったのではないの?』
「……違うよ、迎えに来てくれた人がいたの」
それは誰かという問いを、口にするべきかどうか、甲斐くんは迷っているようだった。
聞かれても、答えられはしないけど。
「ねえ、甲斐くん……あたしたち、もう別れた方がいいと思う」
『え? 何を言い出すんだ、いきなり』
「甲斐君にとっては、藪から棒な話かも知れない。でもね、この数週間、ずっと考えてたことなんだ」
『数週間って、……だったら、どうして別荘まで着いて来たりしたんだよ? 藍だって、あんなに楽しんでたじゃないか』
甲斐くんの声が、微かな怒気を帯びる。
このことについては、反論できない。
いつまでもぐずぐず悩んで、甲斐くんと蒼、2人のうちのどちらかを選ぶことも、どちらを選ばないこともできなかったあたしが、1番悪い。
「あたし、好きな人ができて……でも、その人は本当なら好きになったらいけない人で、あたし……甲斐くんと別荘に行って、何日も一緒に過ごしたら、甲斐くんのこと、ちゃんと好きになれるかなって、そしたら、その人のことも忘れられるかなって思ったの」
『何だよ、それ』
そう言った甲斐くんは、今度は明らかに怒っていた。
「でもね、その人、あたしのこと探して、迎えに来てくれたの。そのときに、あたしも思ったんだ。ああ、あたし、この人のこと諦めきれないって。これ以上、自分の気持ちに嘘なんてつけないって。それに気がついたから、甲斐くんとも、きちんと話そうとしたんだよ」
『それでも、実際には僕に黙って姿を消した。今さらそんなこと言うなんて卑怯だ』
「卑怯……そうだね、卑怯かも知れない。だけど、あたしが何も言わずに、…ううん、何も言えずに別荘を出たのは、甲斐くんが――」
そこまで言って、その先はやっぱり口にし辛くて、思わず言葉に詰まる。
『僕? 僕が何だって言うの』
自分には非はないとでも言いたげな口調に、あたしの中で何かが切れた。
蒼のことを言えなかったあたしも、もちろん悪い。
だけど、甲斐くんだって同じようなものだ。
あたしが知らないと思って、リビングであんな……あんな不潔なこと。
「あたし、見ちゃったんだよ。昨日の夜、リビングで……」
甲斐くんが、はっと息を呑む気配が伝わってきた。
それから、長い間があった。
実際には、2秒か3秒だったのかも知れないけど、恐ろしく長い間のように、あたしには感じられた。
それは、昨夜の出来事があたしの見間違いなんかじゃなく、実際に起こったことだと、甲斐くん自身が認めたということに他ならない。
『まさか、君……』
甲斐くんは、一気に狼狽していた。
あれは違うんだ、誤解なんだとしどもど弁解しようとする。
『彼女とは、付き合ってるとかそういうんじゃないんだ、向こうが勝手に押しかけてきただけで、少なくとも、僕の方に恋愛感情なんかない、僕が好きなのは藍だけだから――』
「もういいよ、止めて!」
言い募る甲斐くんを、あたしは遮った。
自分にこんな強い声が出せるなんて意外だった。
「あたしも、甲斐くんも、ちょっと間違えちゃったんだよ。近くにいたから、好きだとか錯覚しちゃっただけ。でも、お互いの求める人は別のところにいたんだよ、きっと」
『藍が求める相手は、僕じゃなかったと言いたいの』
「そうだね……うん、多分そうだと思う」
甲斐くんは、また少し黙ってから、不意に口を開いた。
『だったら、そいつの求めている人が、藍じゃなかったらどうするつもり?』
……痛いところを突かれたと思った。
それは、まさにあたしが恐れていることだった。
間違えたのはあたしでも、甲斐くんでもないのかも知れない。
そもそも、あたしと蒼が出会ったこと自体が、間違いであったのなら。
* * * * *
その日の収録がすべて終わり、マンションに帰り着いたのは午後11時を過ぎていた。
早朝から深夜まで拘束され、気がついたら日付が変わっていた、なんてことも珍しくはないから、今日は早く帰れたと言うべきか。
エレベーターを待ちながら、もう1度、携帯電話を覗いてみる。
仕事中は、当然ながら電話を取ることができない。
撮影の合間に、何度か確認してみたが、藍からは電話もメールも入っていないようだった。
そして、今も彼女からの着信履歴は、ない。
昨夜……。
甲斐というボーイフレンドの別荘から、真夜中、裸足で飛び出してきた彼女。
一体、2人の間に何があったのだろう。
彼女は、泣いてはいなかったけれど。
本当は、そんな彼女を手離すのには抵抗があった。
何が起こったのかは知る由もないが、彼女が傷ついていたことは確かだ。
一緒にいることはできなくても、彼女を「俺の」テリトリーに置いておきたかった。
けれども、彼女は自分の家に帰ることを選んだ。
黙って姿を消した自分を探して、甲斐が家に電話をかけてくるかも知れない、そうなったら家族に余計な心配をさせてしまうから、という彼女の言い分はもっともで、頷く以外、俺に何ができただろう。
それでも、寂しくなったら電話をしてもいいか、と彼女は言った。
何があったにしろ、家族や友達に相談できるようなことなら、そもそも裸足で逃げ出してくることもない。
多分、今の彼女が頼れるのは俺ひとりだ。
それは、俺を見つめる彼女の瞳や、小さな仕草からでも十分に窺い知れた。
だから、彼女が本当に俺を必要としているのなら、必ず電話をしてくるはずだった。
玄関を開ける。
空調をつけっぱなしにしているせいで、いつもひんやりとしている室内。
上がり框で靴を脱ぎかけ、そこに自分のものではないサンダルが揃えられていることに気がついた。
小さくて底が厚い、明らかに女物のサンダル。
室内は暗かったが、ベランダに面した窓のカーテンが開いていて、その側に、女が立っていた。
電灯を点すと、彼女は眩しそうに瞬きしながら、俺の方を振り返った。
「……ホントに、来ちゃったよ……」
少しばつ悪そうに笑いながら、彼女は言った。
俺は、彼女にこの部屋の合鍵を渡していた。
赤の他人である彼女に対して、どうしてそんな真似をしてしまったのか、自分でもわからない。
けれども、彼女からの電話がなかったことに少なからず失望し、そして今、彼女がここにいたことで安堵している自分がいる。
それは、事実だった。
「ごめんね、黙って上がりこんで……怒ってない?」
「構わないよ、藍が来たいときに来ればいいと言ったのは俺だし」
となりに立って肩を抱き、つむじに軽く口づけると、彼女は俺の胸に頬を預けた。
「電話をくれれば良かったのに」
「だって、撮影中は出られないって言ってたし……メッセージ残しても、折り返し連絡あるまで待ってられそうもなくて、すごく……」
「すごく?」
「……会いたかったの、蒼に」
彼女と別れたのは、今朝だ。
まだ丸1日も経ってない。
それなのに、まるで3ヶ月も会ってなかったみたいな様子でそんなことを言う。
「嬉しいよ、来てくれて」
「ほんとう?」
「ああ……本当だとも」
顎を支えて上向けさせると、切なげに潤んだ瞳が俺を見た。
けれども、唇を重ねようとすると、戸惑ったように俯いてしまう。
「どうした?」
「……うん、その……えっち、する?」
「そうだね、……君が良ければ」
自分で言っておいて可笑しくなった。
君が良ければ、だって?
俺が今まで、女と抱き合うときに、相手の気持ちを慮ったことなどあっただろうか?
「男の人って、好きでもない女の子とでもえっちできるの?」
「は? どうしていきなりそんなことを聞く?」
藍は、それを俺に打ち明けるかどうか、少しの間躊躇ったようだったが、次に顔を上げたとき、彼女はこう切り出した。
「あたしね、昨日の夜、甲斐くんが知らない女の人に、その、ふぇ、…フェラチオさせてるところ、見ちゃったの。それでね、今朝、甲斐くんから電話があったとき、そう言ったの。そしたら、甲斐くん……向こうが勝手に押しかけてきただけだ、自分は彼女のことなんてなんとも思ってないって。あんなことさせておいてだよ?」
彼女が甲斐の別荘を飛び出してきた理由は、それか。
自分の彼氏のアレを他人が咥えていたとなれば、ショックを受けても無理はない。
だが、藍が怒った本当の理由は、甲斐の浮気よりも、問い詰められたときのやつの言い草だったようだ。
「男は女と違って、溜まったものは出さなきゃならないからね。同じ出すにしたって、ひとりよりは相手がいた方が気持ちがイイに決まっているし」
「……蒼も?」
「俺は、別に……誰でも構わないってほど飢えてもいないしね」
「あえて好きでもない女の子とスル必要なんてないってこと?」
「まあ、そういうことだね」
すると彼女は、やけに思いつめた顔で俺を見上げてきた。
「じゃあ、どうして? どうして、蒼はあたしとえっちしたいの?」
思わぬことを聞かれて、今度は俺が戸惑った。
どうして?
彼女を抱きたいと思う気持ちに理由なんてない。
「藍が可愛いから、というのは理由にならないか? 俺は、自分の手で藍が気持ち良くなるのを見るのが楽しいんだけど」
そう言って首を傾げて見せた俺に、彼女は小さく嘆息した。
少しだけ、寂しそうにも見えた。
そんな彼女の表情が、俺には予想外だった。
俺は、間違えたことを言ってしまったのだろうか?
はたして、電話の相手は甲斐くんだった。
『良かった、やっと捕まえた』
電話が繋がってよほど安心したのか、はあ、という大きな溜息。
『急にいなくなるから心配したんだよ、もちろん無事なんだろうね、今どこにいる?』
矢継ぎ早に、耳元で響く声。
心配した、というのは嘘ではないと思う。
あたしが部屋にいないことに気づいてから、必死であちこち探し回っただろうことも、想像に難くない。
「……東京、だよ」
『東京?』
彼は一瞬、理解できない外国語を聞いたときのような、戸惑った声を出した。
まさか、あたしが東京に戻っているなんて思ってもみなかったのだろう。
現実として、あたしにはそうする手段(あし)がなかったはずだから、甲斐くんが驚くのも無理はない。
あたしだって、あのときは勢いで飛び出してしまったけど、あそこに蒼がいてくれなかったら、無事に帰って来れたか怪しいものだ。
『東京だって? 一体、何がどうなっているんだ、まるきりわけがわからない』
甲斐くんは、電話口でぶつぶつとそんなことを言った。
どうやってあたしがひとりで東京まで帰ったのか、訝しむような口調だった。
「心配かけたなら、謝るよ……ごめんね」
『ああ、いや……とにかく、藍が無事ならそれでいいんだ。朝早く散歩にでも出て、どこかで迷子になってたりしたら大変だと思っただけだから』
こういう言い方をするところが、甲斐くんらしいなと思った。
彼はきっと、まだあたしのことを想ってくれているんだろう。
あたしが彼の前から消えた理由も、皆目見当がつかないに違いない。
「大丈夫だよ、あたしはこの通り、元気でぴんぴんしてる」
『そう、それなら良かった。だけど、何も言わずにいなくなることはないと思うな』
苦笑交じりで、けれどどこか咎めるように、甲斐くんは言った。
ああ、やっぱりこの人は何も気がついてないんだ。
だったら、あたしは、彼に話すべきだろうか。
昨晩、自分が目にしたもののことを?
『まあ、いいや。僕もこれから帰るよ、藍がいないのにひとりで残っていても意味がないからね。東京に着いたその足で、藍の家に寄ることにする。君のご両親にも挨拶しなければならないし……』
「それは、いいの。とりあえず、一緒に帰ってきたことになってるし、親に余計な心配かけないように、甲斐くんからだって言ってお土産も渡してあるから」
そこまで言われて、甲斐くんは、やっと何かに感づいたようにしばらく口を噤む。
次に言葉を発したときには、探るような口調になっていた。
『藍……君、ひとりで帰ったのではないの?』
「……違うよ、迎えに来てくれた人がいたの」
それは誰かという問いを、口にするべきかどうか、甲斐くんは迷っているようだった。
聞かれても、答えられはしないけど。
「ねえ、甲斐くん……あたしたち、もう別れた方がいいと思う」
『え? 何を言い出すんだ、いきなり』
「甲斐君にとっては、藪から棒な話かも知れない。でもね、この数週間、ずっと考えてたことなんだ」
『数週間って、……だったら、どうして別荘まで着いて来たりしたんだよ? 藍だって、あんなに楽しんでたじゃないか』
甲斐くんの声が、微かな怒気を帯びる。
このことについては、反論できない。
いつまでもぐずぐず悩んで、甲斐くんと蒼、2人のうちのどちらかを選ぶことも、どちらを選ばないこともできなかったあたしが、1番悪い。
「あたし、好きな人ができて……でも、その人は本当なら好きになったらいけない人で、あたし……甲斐くんと別荘に行って、何日も一緒に過ごしたら、甲斐くんのこと、ちゃんと好きになれるかなって、そしたら、その人のことも忘れられるかなって思ったの」
『何だよ、それ』
そう言った甲斐くんは、今度は明らかに怒っていた。
「でもね、その人、あたしのこと探して、迎えに来てくれたの。そのときに、あたしも思ったんだ。ああ、あたし、この人のこと諦めきれないって。これ以上、自分の気持ちに嘘なんてつけないって。それに気がついたから、甲斐くんとも、きちんと話そうとしたんだよ」
『それでも、実際には僕に黙って姿を消した。今さらそんなこと言うなんて卑怯だ』
「卑怯……そうだね、卑怯かも知れない。だけど、あたしが何も言わずに、…ううん、何も言えずに別荘を出たのは、甲斐くんが――」
そこまで言って、その先はやっぱり口にし辛くて、思わず言葉に詰まる。
『僕? 僕が何だって言うの』
自分には非はないとでも言いたげな口調に、あたしの中で何かが切れた。
蒼のことを言えなかったあたしも、もちろん悪い。
だけど、甲斐くんだって同じようなものだ。
あたしが知らないと思って、リビングであんな……あんな不潔なこと。
「あたし、見ちゃったんだよ。昨日の夜、リビングで……」
甲斐くんが、はっと息を呑む気配が伝わってきた。
それから、長い間があった。
実際には、2秒か3秒だったのかも知れないけど、恐ろしく長い間のように、あたしには感じられた。
それは、昨夜の出来事があたしの見間違いなんかじゃなく、実際に起こったことだと、甲斐くん自身が認めたということに他ならない。
『まさか、君……』
甲斐くんは、一気に狼狽していた。
あれは違うんだ、誤解なんだとしどもど弁解しようとする。
『彼女とは、付き合ってるとかそういうんじゃないんだ、向こうが勝手に押しかけてきただけで、少なくとも、僕の方に恋愛感情なんかない、僕が好きなのは藍だけだから――』
「もういいよ、止めて!」
言い募る甲斐くんを、あたしは遮った。
自分にこんな強い声が出せるなんて意外だった。
「あたしも、甲斐くんも、ちょっと間違えちゃったんだよ。近くにいたから、好きだとか錯覚しちゃっただけ。でも、お互いの求める人は別のところにいたんだよ、きっと」
『藍が求める相手は、僕じゃなかったと言いたいの』
「そうだね……うん、多分そうだと思う」
甲斐くんは、また少し黙ってから、不意に口を開いた。
『だったら、そいつの求めている人が、藍じゃなかったらどうするつもり?』
……痛いところを突かれたと思った。
それは、まさにあたしが恐れていることだった。
間違えたのはあたしでも、甲斐くんでもないのかも知れない。
そもそも、あたしと蒼が出会ったこと自体が、間違いであったのなら。
* * * * *
その日の収録がすべて終わり、マンションに帰り着いたのは午後11時を過ぎていた。
早朝から深夜まで拘束され、気がついたら日付が変わっていた、なんてことも珍しくはないから、今日は早く帰れたと言うべきか。
エレベーターを待ちながら、もう1度、携帯電話を覗いてみる。
仕事中は、当然ながら電話を取ることができない。
撮影の合間に、何度か確認してみたが、藍からは電話もメールも入っていないようだった。
そして、今も彼女からの着信履歴は、ない。
昨夜……。
甲斐というボーイフレンドの別荘から、真夜中、裸足で飛び出してきた彼女。
一体、2人の間に何があったのだろう。
彼女は、泣いてはいなかったけれど。
本当は、そんな彼女を手離すのには抵抗があった。
何が起こったのかは知る由もないが、彼女が傷ついていたことは確かだ。
一緒にいることはできなくても、彼女を「俺の」テリトリーに置いておきたかった。
けれども、彼女は自分の家に帰ることを選んだ。
黙って姿を消した自分を探して、甲斐が家に電話をかけてくるかも知れない、そうなったら家族に余計な心配をさせてしまうから、という彼女の言い分はもっともで、頷く以外、俺に何ができただろう。
それでも、寂しくなったら電話をしてもいいか、と彼女は言った。
何があったにしろ、家族や友達に相談できるようなことなら、そもそも裸足で逃げ出してくることもない。
多分、今の彼女が頼れるのは俺ひとりだ。
それは、俺を見つめる彼女の瞳や、小さな仕草からでも十分に窺い知れた。
だから、彼女が本当に俺を必要としているのなら、必ず電話をしてくるはずだった。
玄関を開ける。
空調をつけっぱなしにしているせいで、いつもひんやりとしている室内。
上がり框で靴を脱ぎかけ、そこに自分のものではないサンダルが揃えられていることに気がついた。
小さくて底が厚い、明らかに女物のサンダル。
室内は暗かったが、ベランダに面した窓のカーテンが開いていて、その側に、女が立っていた。
電灯を点すと、彼女は眩しそうに瞬きしながら、俺の方を振り返った。
「……ホントに、来ちゃったよ……」
少しばつ悪そうに笑いながら、彼女は言った。
俺は、彼女にこの部屋の合鍵を渡していた。
赤の他人である彼女に対して、どうしてそんな真似をしてしまったのか、自分でもわからない。
けれども、彼女からの電話がなかったことに少なからず失望し、そして今、彼女がここにいたことで安堵している自分がいる。
それは、事実だった。
「ごめんね、黙って上がりこんで……怒ってない?」
「構わないよ、藍が来たいときに来ればいいと言ったのは俺だし」
となりに立って肩を抱き、つむじに軽く口づけると、彼女は俺の胸に頬を預けた。
「電話をくれれば良かったのに」
「だって、撮影中は出られないって言ってたし……メッセージ残しても、折り返し連絡あるまで待ってられそうもなくて、すごく……」
「すごく?」
「……会いたかったの、蒼に」
彼女と別れたのは、今朝だ。
まだ丸1日も経ってない。
それなのに、まるで3ヶ月も会ってなかったみたいな様子でそんなことを言う。
「嬉しいよ、来てくれて」
「ほんとう?」
「ああ……本当だとも」
顎を支えて上向けさせると、切なげに潤んだ瞳が俺を見た。
けれども、唇を重ねようとすると、戸惑ったように俯いてしまう。
「どうした?」
「……うん、その……えっち、する?」
「そうだね、……君が良ければ」
自分で言っておいて可笑しくなった。
君が良ければ、だって?
俺が今まで、女と抱き合うときに、相手の気持ちを慮ったことなどあっただろうか?
「男の人って、好きでもない女の子とでもえっちできるの?」
「は? どうしていきなりそんなことを聞く?」
藍は、それを俺に打ち明けるかどうか、少しの間躊躇ったようだったが、次に顔を上げたとき、彼女はこう切り出した。
「あたしね、昨日の夜、甲斐くんが知らない女の人に、その、ふぇ、…フェラチオさせてるところ、見ちゃったの。それでね、今朝、甲斐くんから電話があったとき、そう言ったの。そしたら、甲斐くん……向こうが勝手に押しかけてきただけだ、自分は彼女のことなんてなんとも思ってないって。あんなことさせておいてだよ?」
彼女が甲斐の別荘を飛び出してきた理由は、それか。
自分の彼氏のアレを他人が咥えていたとなれば、ショックを受けても無理はない。
だが、藍が怒った本当の理由は、甲斐の浮気よりも、問い詰められたときのやつの言い草だったようだ。
「男は女と違って、溜まったものは出さなきゃならないからね。同じ出すにしたって、ひとりよりは相手がいた方が気持ちがイイに決まっているし」
「……蒼も?」
「俺は、別に……誰でも構わないってほど飢えてもいないしね」
「あえて好きでもない女の子とスル必要なんてないってこと?」
「まあ、そういうことだね」
すると彼女は、やけに思いつめた顔で俺を見上げてきた。
「じゃあ、どうして? どうして、蒼はあたしとえっちしたいの?」
思わぬことを聞かれて、今度は俺が戸惑った。
どうして?
彼女を抱きたいと思う気持ちに理由なんてない。
「藍が可愛いから、というのは理由にならないか? 俺は、自分の手で藍が気持ち良くなるのを見るのが楽しいんだけど」
そう言って首を傾げて見せた俺に、彼女は小さく嘆息した。
少しだけ、寂しそうにも見えた。
そんな彼女の表情が、俺には予想外だった。
俺は、間違えたことを言ってしまったのだろうか?
0
あなたにおすすめの小説
ソウシソウアイ?
野草こたつ/ロクヨミノ
恋愛
政略結婚をすることになったオデット。
その相手は初恋の人であり、同時にオデットの姉アンネリースに想いを寄せる騎士団の上司、ランヴァルド・アーノルト伯爵。
拒否に拒否を重ねたが強制的に結婚が決まり、
諦めにも似た気持ちで嫁いだオデットだが……。
皇帝陛下の寵愛は、身に余りすぎて重すぎる
若松だんご
恋愛
――喜べ、エナ! お前にも縁談が来たぞ!
数年前の戦で父を、病で母を亡くしたエナ。
跡継ぎである幼い弟と二人、後見人(と言う名の乗っ取り)の叔父によりずっと塔に幽閉されていたエナ。
両親の不在、後見人の暴虐。弟を守らねばと、一生懸命だったあまりに、婚期を逃していたエナに、叔父が(お金目当ての)縁談を持ちかけてくるけれど。
――すまないが、その縁談は無効にさせてもらう!
エナを救ってくれたのは、幼馴染のリアハルト皇子……ではなく、今は皇帝となったリアハルト陛下。
彼は先帝の第一皇子だったけれど、父帝とその愛妾により、都から放逐され、エナの父のもとに身を寄せ、エナとともに育った人物。
――結婚の約束、しただろう?
昔と違って、堂々と王者らしい風格を備えたリアハルト。驚くエナに妻になってくれと結婚を申し込むけれど。
(わたし、いつの間に、結婚の約束なんてしてたのっ!?)
記憶がない。記憶にない。
姉弟のように育ったけど。彼との別れに彼の無事を願ってハンカチを渡したけれど! それだけしかしてない!
都会の洗練された娘でもない。ずっと幽閉されてきた身。
若くもない、リアハルトより三つも年上。婚期を逃した身。
後ろ盾となる両親もいない。幼い弟を守らなきゃいけない身。
(そんなわたしが? リアハルト陛下の妻? 皇后?)
ずっとエナを慕っていたというリアハルト。弟の後見人にもなってくれるというリアハルト。
エナの父は、彼が即位するため起こした戦争で亡くなっている。
だから。
この求婚は、その罪滅ぼし? 昔世話になった者への恩返し?
弟の後見になってくれるのはうれしいけれど。なんの取り柄もないわたしに求婚する理由はなに?
ずっと好きだった彼女を手に入れたかったリアハルトと、彼の熱愛に、ありがたいけれど戸惑いしかないエナの物語。
課長のケーキは甘い包囲網
花里 美佐
恋愛
田崎すみれ 二十二歳 料亭の娘だが、自分は料理が全くできない負い目がある。
えくぼの見える笑顔が可愛い、ケーキが大好きな女子。
×
沢島 誠司 三十三歳 洋菓子メーカー人事総務課長。笑わない鬼課長だった。
実は四年前まで商品開発担当パティシエだった。
大好きな洋菓子メーカーに就職したすみれ。
面接官だった彼が上司となった。
しかも、彼は面接に来る前からすみれを知っていた。
彼女のいつも買うケーキは、彼にとって重要な意味を持っていたからだ。
心に傷を持つヒーローとコンプレックス持ちのヒロインの恋(。・ω・。)ノ♡
靴屋の娘と三人のお兄様
こじまき
恋愛
靴屋の看板娘だったデイジーは、母親の再婚によってホークボロー伯爵令嬢になった。ホークボロー伯爵家の三兄弟、長男でいかにも堅物な軍人のアレン、次男でほとんど喋らない魔法使いのイーライ、三男でチャラい画家のカラバスはいずれ劣らぬキラッキラのイケメン揃い。平民出身のにわか伯爵令嬢とお兄様たちとのひとつ屋根の下生活。何も起こらないはずがない!?
※小説家になろうにも投稿しています。
財閥御曹司は左遷された彼女を秘めた愛で取り戻す
花里 美佐
恋愛
榊原財閥に勤める香月菜々は日傘専務の秘書をしていた。
専務は御曹司の元上司。
その専務が社内政争に巻き込まれ退任。
菜々は同じ秘書の彼氏にもフラれてしまう。
居場所がなくなった彼女は退職を希望したが
支社への転勤(左遷)を命じられてしまう。
ところが、ようやく落ち着いた彼女の元に
海外にいたはずの御曹司が現れて?!
ヤンデレ王子を闇落ちから救ったら愛執まみれの独占欲に囚われました
大江戸ウメコ
恋愛
幼い頃に精霊の祝福である未来視の力が開花し、「夫である第二王子ナハルドに殺される」という己の運命を知った伯爵令嬢ツィーラ。この悲惨な未来を変えるべく、ツィーラは彼を避けようとしたが、ひょんなことから婚約者に選ばれてしまった! ならば、ナハルドが将来闇落ちしないよう、側で彼を支えることを決意する。そんな努力の甲斐あって、ツィーラへの好意を隠さず伝えてくるほど、ナハルドとの関係は良好になった。だけど、彼の並々ならぬ執着心のすべてを、ツィーラはまだ知らなくて――
月の後宮~孤高の皇帝の寵姫~
真木
恋愛
新皇帝セルヴィウスが即位の日に閨に引きずり込んだのは、まだ十三歳の皇妹セシルだった。大好きだった兄皇帝の突然の行為に混乱し、心を閉ざすセシル。それから十年後、セシルの心が見えないまま、セルヴィウスはある決断をすることになるのだが……。
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる