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恋する笑顔に恋をした(4)
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蒼が大きく息を吐き、あたしの顔を見てにっこりと微笑んだ。
事が終わって急に恥ずかしさがこみ上げたけど、蒼が満足してくれたように見えたのは嬉しかった。
まるで頃合を計ったように、桂木さんがマンションの駐車場にバンを入れる。
黙って後始末をし着衣を整えた蒼は、ほら、着いたよ、とあたしを促し、何食わぬ顔をして車を降りた。
それから、彼は運転席側の窓に寄って桂木さんと明日の――ていうか、日付はもう今日だけど――打ち合わせらしきものをしばらくしていた。
それは、蒼の傷はラジオの録音には問題ないだろうとか、ドラマの収録には差し支えるけれど休むわけにはいかないからメイクを濃い目にしてもらおうとかいう内容だった。
蒼は、気にしなくていいよと言ってくれてはいたけど、そんな話を聞けば、やっぱり申し訳なく思えた。
「これに懲りたら、あまり無茶な真似するんじゃないぞ」
最後にそう桂木さんから釘を刺され、蒼は苦笑いしながら鼻の横を掻いた。
あたしも、少し咎めるような視線を向けられ、恐縮してぺこりと頭を下げた。
「それじゃあ、明日は昼過ぎに迎えに来る。今夜はゆっくり身体を休めることだけ考えろ」
そう言い残して桂木さんが去ってしまったあと、あたしと蒼は顔を見合わせて少し笑う。
多分、お互いに考えたことは同じだ。
それは、繋いだ手のひらからでもちゃんと伝わってきた。
部屋に戻り、長い足を投げ出すようにソファに腰を下ろすと、彼は自分のとなりにあたしを座らせた。
「さっきはありがとう、……藍の手、とても気持ちが良かった」
そんな風に、あらためてお礼なんて言われたら照れちゃう。
覗きこまれた瞳も、まともに見返すことができない。
「で、でも……あたし、ああいうの初めてで、どうしたら男の人が感じるのかとか全然わかんなかった……」
「違うんだ、テクとかそんなの関係ない」
「……?」
蒼は、怪訝な顔で見上げたあたしの頭を、その大きな手のひらでゆっくりと撫でた。
「初めて抱いたときからずっと思ってた……藍の身体、すごく自分に馴染むって……手触り、ぬくもり、におい、繋がっているときの内部の感じ、……文字通り、君のすべてが」
俺には心地良い、と彼は微笑む。
確かに、彼はあたしを抱く度にそんな意味のことをよく口にするし、あたし自身も、えっちに相性があるとしたら、蒼とあたしはすごくいいんじゃないかとは思ってた。
好きな人とするえっちって楽しいって、あたしに思わせてくれたのも蒼だ。
「あの朝、君が消えてしまって、何だか無性に名残惜しい気がしたのは、君の身体が良かったっていうのも、もちろんある。だけど……」
あたしの髪を弄びながら、彼は、いっとき言葉を選ぶように口をつぐんだ。
「もし、ただそれだけなら……それに続くものはきっとなかったと思う。肌は思惑なんて持ちやしない、惹かれ合うものがあったとすれば、それはやっぱりお互いの心だったんだ」
「……ココロ?」
頷く蒼。
いつになく思いつめたような口調に、少し緊張してしまう。
「俺も男だから、可愛い子や美味そうな女を見れば食指だって動くし、現に以前の俺ならそんなときは躊躇わずにそうしてた。でも、今はなぜか君の顔が浮かぶ。目の前にいる女よりも、その場にいない君を……藍を、抱きたいと思う」
「よくわかんない……どうして、あたしなの?」
蒼の周りには、きれいな女優さんや可愛いタレントさんがたくさんいる。
そんな人たちとあたしを比べて、あたしの方がいいなんて、そんなの絶対に有り得ない。
すると、蒼は何かを思い出したみたいにふっと笑った。
「その理由が知りたかったのは俺も同じで、ヒガシさんに相談したら、そんなわかりきったことを今さら他人に聞くなってどやされた」
髪を撫でていた手でうなじをつかまれ、あたしは俯いていた顔を上げた。
目が合って、蒼は言った。
「ヒガシさんの言葉を借りれば、どうやら俺は恋をしているらしい」
「……誰に?」
真面目に尋ねたつもりだったのに、それに返ってきたのは大きな溜息。
蒼は、これだから天然ちゃんは、と呆れたように呟いた。
「今は、誰と誰の話をしているのだっけ?」
「えーと、……あたしと蒼?」
「だとしたら、俺の恋の相手が誰かなんて、聞かなくてもわかると思うけど」
ここには俺と藍の2人しかいないんだから、と軽く額を小突かれる。
ということは、まさか……?
え?
え?!
唖然としているあたしの耳に口を寄せ、囁きを注ぎ込むようにして蒼は言った。
「それとも、俺は君のことが好きだって、はっきり言わないとわからない?」
* * * * *
「う、…嘘だもん、蒼があたしを好きだなんて、そんなの有り得ない」
ずっと、言って欲しいと思っていた言葉。
きっと、願っても言ってもらえないと思っていた言葉。
その言葉を、今、耳元で囁かれてる。
だけど、それを素直には信じてしまえない自分がいた。
「どうして?」
彼は、あたしの瞳の中を覗き込むようにして、言う。
「ど、どうしてって……蒼とあたしじゃ、住む世界が違いすぎるよ……蒼は雲の上にいる人で、手が届くはずないことなんて最初から承知だったし、本気で想われてなくても構わない、ただ側にいれれば良かったの、なのに……」
あたしは、目の前にある蒼の胸をこぶしで打った。
彼がそれを止めようとしないから、あたしはますます悲しくなる。
「そんなこと言うなんてずるいよ。どうしてって聞きたいのはあたしの方。どうして、今さらそんな夢見させるようなこと言うの?」
「俺が……いいように君を弄んで、飽きたら捨てるとでも?」
「だって、実際にそうなんでしょう?!」
声を荒げたあたしを、彼は少し悲しそうな目で見つめ、やがて小さく溜息を吐いた。
「俺をどんな男だと思っているのか知らないけど、少なくとも藍と知り合って以来、俺には藍だけだよ」
傍目にはどう見えたって、実際の俺は、女を二股かけられるほど器用じゃない、と彼は言う。
それを聞いて、あたしは少し決まりの悪い思いをする。
彼と出会ったころ、あたしには甲斐くんという同級生の彼氏がいた。
蒼のことが大好きで、叶わない想いだとわかっていても彼に惹かれていくのを止められない反面、そんな自分の本当の気持ちを甲斐くんに告げることもできず、結果的に、蒼と甲斐くんを天秤にかけていたのはあたしの方だ。
「俺たちが初めて結ばれた夜、甲斐からメールが来てたよね、覚えてる?」
「うん……」
「泣いちゃうくらい俺が好きだって言ったくせに、その俺に抱かれながら、藍はずっと悲しそうな顔をしてた。この甲斐ってやつが彼氏だとして、そいつの前で君はどんな顔をするんだろう、どんな声で啼くんだろう、そんなことを考えたら、妙に胸がざわめいた。今思えば、あのときからすでに、俺は君に惹かれつつあったし、だからこそ甲斐に嫉妬したんだ」
思ってもみない言葉だった。
誰からも愛されて、国民的アイドルなんて呼ばれる彼が、よりにもよって一般人の甲斐くんに嫉妬する……それも、あたしなんかのせいで。
「その後も、自分がどんどん君に惹かれていくのは自覚してた。だけど、それは恋とは違うと思ってた。言ってみれば独占欲とか征服欲とか、そういう自己満足のための感情だと思ってた。それがそうじゃないと気づいたのは、やっぱり君が甲斐と2人きりでやつの別荘に行くと聞かされてからだ」
このまま蒼と会い続けていたら、別れ難くなくなるのは目に見えていて、だから、あたしは甲斐くんの誘いを受けて彼と一緒に野尻湖の別荘に行った。
東京を離れ、何日も甲斐くんと一緒に過ごせば、会わないうちに蒼のことも忘れられるなんて、浅はかなことを考えたあたしはものすごくバカだったと、今となっては思う。
実際には、忘れるどころか蒼のことばかり思い出していたのだから。
「あの日、気がついたら高速に乗っていたと言ったのも、あながち嘘じゃない。実際、車を走らせながら、自分がどこへ向かおうとしているのか、気づいたときには愕然としたよ」
そこで、蒼は自嘲気味に笑う。
「俺は何をしようとしているんだろう? ひとりの女にかかずらわされて、彼女が恋人と過ごす別荘に押しかけてどうするつもりだ? よしんばそこで彼女を抱いたとしても、それじゃ間男と同じだ、そんな情けない男になり下がってもいいのか?」
誰に言うともない問いに、戸惑って彼を見上げると、彼も困ったような顔をしていた。
あまり見せたことのない表情に、あたしまで切なくなる。
「正直言って葛藤したよ、甲斐の苗字なんて調べるんじゃなかったとも思った。だけど、結局は引き返さないことに決めた。甲斐の目を盗んで君に会いに行くんじゃない、君を東京に連れ戻すんだ、……俺の手でってね」
あたしは、あの夜、蒼が甲斐くんの別荘に現れた理由を、このとき初めて理解したような気がした。
今の今まで、ただの気紛れだと思っていたけど、ホントは蒼も悩んでた。
「一緒には帰れないと言われて、1度は引き下がるつもりになったけど、さすがにわざわざ信州くんだりまで行った徒労感が強くて、もしかしたら君の気が変わるかもなんて女々しく待ってみたりもした。しばらくして、君が別荘から飛び出してくるのが見えたときは、夢じゃないかと本気で思ったよ」
胸に飛び込んできた君を抱きしめながら、やたらと嬉しかったのを覚えてる、そう言って、そのときも彼はあたしをぎゅっと抱き寄せた。
「あたしも……蒼がいてくれて良かったって、思ったよ」
「別荘での出来事、君にとっては辛い経験だっただろう、でも……あのとき、君には悪いけど、俺……これで、藍は俺ひとりのものになるって確信した」
さすがに口にし辛かったのか、蒼は少し口ごもりながら言った。
あたしは、そんな彼の胸に顔を埋めて首を振る。
「ううん、悪いことなんて全然ないよ。あの夜のことがあったからこそ、あたしだって吹っ切れたし、蒼と今、こうしていられるのもそのおかげだもん」
そんなあたしの髪を、蒼の優しい手のひらが撫でる。
夢じゃ、ない……今この瞬間、あたしに触れている蒼の手は本物だ。
「信じても、いいんだよね? あたしがあなたを好きなように、あなたもあたしを好きでいてくれるの? 本当に、あたしなんかでいいの?」
あたしの言葉にも、蒼はしっかりと頷いてくれた。
「藍が藍だから、好きになったんだ。もう、俺がアイドルだからとか、そういうこと考えるのは止めにして。鷹宮蒼って名前の男が、樫村藍って名前の女の子と恋に落ちた、それのどこに、君が引け目を感じる必要がある?」
「ありがとう、蒼……あたし嬉しい、すごく嬉しい……」
絡まる視線。
ゆっくりと重なり合う唇。
「もう1度、言って……あたしのことが、好きだって」
甘えたあたしの囁きに、蒼は、何度でも言ってあげる、と笑顔で答えた。
「……好きだよ、藍」
耳に甘く響く彼の声は、まるで彼の歌うラブソングのように、あたしのココロに染み透る。
そう、それは……朝が来ても、覚めない夢のはじまり。
事が終わって急に恥ずかしさがこみ上げたけど、蒼が満足してくれたように見えたのは嬉しかった。
まるで頃合を計ったように、桂木さんがマンションの駐車場にバンを入れる。
黙って後始末をし着衣を整えた蒼は、ほら、着いたよ、とあたしを促し、何食わぬ顔をして車を降りた。
それから、彼は運転席側の窓に寄って桂木さんと明日の――ていうか、日付はもう今日だけど――打ち合わせらしきものをしばらくしていた。
それは、蒼の傷はラジオの録音には問題ないだろうとか、ドラマの収録には差し支えるけれど休むわけにはいかないからメイクを濃い目にしてもらおうとかいう内容だった。
蒼は、気にしなくていいよと言ってくれてはいたけど、そんな話を聞けば、やっぱり申し訳なく思えた。
「これに懲りたら、あまり無茶な真似するんじゃないぞ」
最後にそう桂木さんから釘を刺され、蒼は苦笑いしながら鼻の横を掻いた。
あたしも、少し咎めるような視線を向けられ、恐縮してぺこりと頭を下げた。
「それじゃあ、明日は昼過ぎに迎えに来る。今夜はゆっくり身体を休めることだけ考えろ」
そう言い残して桂木さんが去ってしまったあと、あたしと蒼は顔を見合わせて少し笑う。
多分、お互いに考えたことは同じだ。
それは、繋いだ手のひらからでもちゃんと伝わってきた。
部屋に戻り、長い足を投げ出すようにソファに腰を下ろすと、彼は自分のとなりにあたしを座らせた。
「さっきはありがとう、……藍の手、とても気持ちが良かった」
そんな風に、あらためてお礼なんて言われたら照れちゃう。
覗きこまれた瞳も、まともに見返すことができない。
「で、でも……あたし、ああいうの初めてで、どうしたら男の人が感じるのかとか全然わかんなかった……」
「違うんだ、テクとかそんなの関係ない」
「……?」
蒼は、怪訝な顔で見上げたあたしの頭を、その大きな手のひらでゆっくりと撫でた。
「初めて抱いたときからずっと思ってた……藍の身体、すごく自分に馴染むって……手触り、ぬくもり、におい、繋がっているときの内部の感じ、……文字通り、君のすべてが」
俺には心地良い、と彼は微笑む。
確かに、彼はあたしを抱く度にそんな意味のことをよく口にするし、あたし自身も、えっちに相性があるとしたら、蒼とあたしはすごくいいんじゃないかとは思ってた。
好きな人とするえっちって楽しいって、あたしに思わせてくれたのも蒼だ。
「あの朝、君が消えてしまって、何だか無性に名残惜しい気がしたのは、君の身体が良かったっていうのも、もちろんある。だけど……」
あたしの髪を弄びながら、彼は、いっとき言葉を選ぶように口をつぐんだ。
「もし、ただそれだけなら……それに続くものはきっとなかったと思う。肌は思惑なんて持ちやしない、惹かれ合うものがあったとすれば、それはやっぱりお互いの心だったんだ」
「……ココロ?」
頷く蒼。
いつになく思いつめたような口調に、少し緊張してしまう。
「俺も男だから、可愛い子や美味そうな女を見れば食指だって動くし、現に以前の俺ならそんなときは躊躇わずにそうしてた。でも、今はなぜか君の顔が浮かぶ。目の前にいる女よりも、その場にいない君を……藍を、抱きたいと思う」
「よくわかんない……どうして、あたしなの?」
蒼の周りには、きれいな女優さんや可愛いタレントさんがたくさんいる。
そんな人たちとあたしを比べて、あたしの方がいいなんて、そんなの絶対に有り得ない。
すると、蒼は何かを思い出したみたいにふっと笑った。
「その理由が知りたかったのは俺も同じで、ヒガシさんに相談したら、そんなわかりきったことを今さら他人に聞くなってどやされた」
髪を撫でていた手でうなじをつかまれ、あたしは俯いていた顔を上げた。
目が合って、蒼は言った。
「ヒガシさんの言葉を借りれば、どうやら俺は恋をしているらしい」
「……誰に?」
真面目に尋ねたつもりだったのに、それに返ってきたのは大きな溜息。
蒼は、これだから天然ちゃんは、と呆れたように呟いた。
「今は、誰と誰の話をしているのだっけ?」
「えーと、……あたしと蒼?」
「だとしたら、俺の恋の相手が誰かなんて、聞かなくてもわかると思うけど」
ここには俺と藍の2人しかいないんだから、と軽く額を小突かれる。
ということは、まさか……?
え?
え?!
唖然としているあたしの耳に口を寄せ、囁きを注ぎ込むようにして蒼は言った。
「それとも、俺は君のことが好きだって、はっきり言わないとわからない?」
* * * * *
「う、…嘘だもん、蒼があたしを好きだなんて、そんなの有り得ない」
ずっと、言って欲しいと思っていた言葉。
きっと、願っても言ってもらえないと思っていた言葉。
その言葉を、今、耳元で囁かれてる。
だけど、それを素直には信じてしまえない自分がいた。
「どうして?」
彼は、あたしの瞳の中を覗き込むようにして、言う。
「ど、どうしてって……蒼とあたしじゃ、住む世界が違いすぎるよ……蒼は雲の上にいる人で、手が届くはずないことなんて最初から承知だったし、本気で想われてなくても構わない、ただ側にいれれば良かったの、なのに……」
あたしは、目の前にある蒼の胸をこぶしで打った。
彼がそれを止めようとしないから、あたしはますます悲しくなる。
「そんなこと言うなんてずるいよ。どうしてって聞きたいのはあたしの方。どうして、今さらそんな夢見させるようなこと言うの?」
「俺が……いいように君を弄んで、飽きたら捨てるとでも?」
「だって、実際にそうなんでしょう?!」
声を荒げたあたしを、彼は少し悲しそうな目で見つめ、やがて小さく溜息を吐いた。
「俺をどんな男だと思っているのか知らないけど、少なくとも藍と知り合って以来、俺には藍だけだよ」
傍目にはどう見えたって、実際の俺は、女を二股かけられるほど器用じゃない、と彼は言う。
それを聞いて、あたしは少し決まりの悪い思いをする。
彼と出会ったころ、あたしには甲斐くんという同級生の彼氏がいた。
蒼のことが大好きで、叶わない想いだとわかっていても彼に惹かれていくのを止められない反面、そんな自分の本当の気持ちを甲斐くんに告げることもできず、結果的に、蒼と甲斐くんを天秤にかけていたのはあたしの方だ。
「俺たちが初めて結ばれた夜、甲斐からメールが来てたよね、覚えてる?」
「うん……」
「泣いちゃうくらい俺が好きだって言ったくせに、その俺に抱かれながら、藍はずっと悲しそうな顔をしてた。この甲斐ってやつが彼氏だとして、そいつの前で君はどんな顔をするんだろう、どんな声で啼くんだろう、そんなことを考えたら、妙に胸がざわめいた。今思えば、あのときからすでに、俺は君に惹かれつつあったし、だからこそ甲斐に嫉妬したんだ」
思ってもみない言葉だった。
誰からも愛されて、国民的アイドルなんて呼ばれる彼が、よりにもよって一般人の甲斐くんに嫉妬する……それも、あたしなんかのせいで。
「その後も、自分がどんどん君に惹かれていくのは自覚してた。だけど、それは恋とは違うと思ってた。言ってみれば独占欲とか征服欲とか、そういう自己満足のための感情だと思ってた。それがそうじゃないと気づいたのは、やっぱり君が甲斐と2人きりでやつの別荘に行くと聞かされてからだ」
このまま蒼と会い続けていたら、別れ難くなくなるのは目に見えていて、だから、あたしは甲斐くんの誘いを受けて彼と一緒に野尻湖の別荘に行った。
東京を離れ、何日も甲斐くんと一緒に過ごせば、会わないうちに蒼のことも忘れられるなんて、浅はかなことを考えたあたしはものすごくバカだったと、今となっては思う。
実際には、忘れるどころか蒼のことばかり思い出していたのだから。
「あの日、気がついたら高速に乗っていたと言ったのも、あながち嘘じゃない。実際、車を走らせながら、自分がどこへ向かおうとしているのか、気づいたときには愕然としたよ」
そこで、蒼は自嘲気味に笑う。
「俺は何をしようとしているんだろう? ひとりの女にかかずらわされて、彼女が恋人と過ごす別荘に押しかけてどうするつもりだ? よしんばそこで彼女を抱いたとしても、それじゃ間男と同じだ、そんな情けない男になり下がってもいいのか?」
誰に言うともない問いに、戸惑って彼を見上げると、彼も困ったような顔をしていた。
あまり見せたことのない表情に、あたしまで切なくなる。
「正直言って葛藤したよ、甲斐の苗字なんて調べるんじゃなかったとも思った。だけど、結局は引き返さないことに決めた。甲斐の目を盗んで君に会いに行くんじゃない、君を東京に連れ戻すんだ、……俺の手でってね」
あたしは、あの夜、蒼が甲斐くんの別荘に現れた理由を、このとき初めて理解したような気がした。
今の今まで、ただの気紛れだと思っていたけど、ホントは蒼も悩んでた。
「一緒には帰れないと言われて、1度は引き下がるつもりになったけど、さすがにわざわざ信州くんだりまで行った徒労感が強くて、もしかしたら君の気が変わるかもなんて女々しく待ってみたりもした。しばらくして、君が別荘から飛び出してくるのが見えたときは、夢じゃないかと本気で思ったよ」
胸に飛び込んできた君を抱きしめながら、やたらと嬉しかったのを覚えてる、そう言って、そのときも彼はあたしをぎゅっと抱き寄せた。
「あたしも……蒼がいてくれて良かったって、思ったよ」
「別荘での出来事、君にとっては辛い経験だっただろう、でも……あのとき、君には悪いけど、俺……これで、藍は俺ひとりのものになるって確信した」
さすがに口にし辛かったのか、蒼は少し口ごもりながら言った。
あたしは、そんな彼の胸に顔を埋めて首を振る。
「ううん、悪いことなんて全然ないよ。あの夜のことがあったからこそ、あたしだって吹っ切れたし、蒼と今、こうしていられるのもそのおかげだもん」
そんなあたしの髪を、蒼の優しい手のひらが撫でる。
夢じゃ、ない……今この瞬間、あたしに触れている蒼の手は本物だ。
「信じても、いいんだよね? あたしがあなたを好きなように、あなたもあたしを好きでいてくれるの? 本当に、あたしなんかでいいの?」
あたしの言葉にも、蒼はしっかりと頷いてくれた。
「藍が藍だから、好きになったんだ。もう、俺がアイドルだからとか、そういうこと考えるのは止めにして。鷹宮蒼って名前の男が、樫村藍って名前の女の子と恋に落ちた、それのどこに、君が引け目を感じる必要がある?」
「ありがとう、蒼……あたし嬉しい、すごく嬉しい……」
絡まる視線。
ゆっくりと重なり合う唇。
「もう1度、言って……あたしのことが、好きだって」
甘えたあたしの囁きに、蒼は、何度でも言ってあげる、と笑顔で答えた。
「……好きだよ、藍」
耳に甘く響く彼の声は、まるで彼の歌うラブソングのように、あたしのココロに染み透る。
そう、それは……朝が来ても、覚めない夢のはじまり。
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