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エピローグ(1)
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蒼の部屋、蒼と2人きりで過ごす時間。
彼は、ソファに長い足を投げ出すようにして座り、薄い冊子を読んでいる。
時おり、声は出さずに唇だけを動かしているところなんかを見ると、ドラマの台本かも知れない。
あたしは、そんな彼の足の間に身体を置いて、彼の胸に凭れながら、観るとはなしにテレビの画面を眺めてる。
2人とも黙ったまま、それぞれ別のことをしている。
交わす言葉は特になくても、触れ合う肌のぬくもりが、お互いが近くにいることを感じさせてくれる。
それは、あたしをとても豊かな気持ちにさせる。
もちろん、彼と愛し合うのは好きだし、心地良いと思う。
だけど、あたしは、蒼と過ごすこういうのんびりした時間も、結構好きだ。
首を振り向けて彼を窺い見ると、彼も本のページから目を上げた。
「ん? どうしたの?」
微笑みながら、首を傾げるのは蒼の癖。
「ううん、何でもない……」
あたしは妙に気恥ずかしくなって俯く。
本当に、なんてきれいな人なんだろう。
間近で見つめられるだけで胸がドキドキする。
「そう? それにしちゃ、何だかすごく物言いたげな様子で、俺の顔を見ていたけど」
読んでいた冊子を無造作に投げ、彼は指先であたしの顎をくいと持ち上げた。
「放って置かれて退屈した?」
「そんなことない、あたしは……こうして、蒼の側にいれるだけで満足」
それを聞いて、蒼は小さくふふっと笑う。
「普通の顔してそういうこと言うから……、まったく、君って子は」
背中から腕を回して抱きしめられ、唇が塞がれる。
「んぅ…、蒼……」
あたしは甘えた鼻声を出して、彼の胸に身体を預ける。
そんなあたしを、彼は切れ長な目を細めて、見た。
「君が愛しくてたまらないよ、藍……掌中に収めたつもりで、手玉に取られているのは俺の方かもね」
そう言って、さらにキス。
甘く絡め取るような口づけに、全身の皮膚が粟立った。
「ねえ、君……10月最後の日曜日は空いている?」
しばらくして唇を離すと、彼はそう聞いてきた。
「どうかな、その頃なら体育祭も学祭も終わっているし、特に予定はないと思うよ」
あたしはそう答えたけど、たとえ他に用事があったって、蒼の方を優先するに決まってる。
あたしが今、何よりも大切にしたいと思うもの、それは蒼との時間だ。
優しい彼は、許される時間のすべてをあたしといることに充ててくれているけれど、日本一人気者のアイドル故に緊密なスケジュールをこなさなければならない彼とは、普通の恋人同士のように会いたいときに会う、というわけにはいかない。
いくら恋しくても、ただでさえ忙しい彼にこれ以上無理をさせることはできないし、彼の都合が良いときには、なるべくあたしがそれに合わせるようにしている。
文字通り、今のあたしの生活は、彼を中心にして回っていた。
それでも、あたしはそれを苦痛だとか面倒だとか考えたことはない。
蒼のために、少しでもあたしにできることがあるのならしたかった。
「その日がどうかしたの?」
「秋から冬にかけてのツアーが始まるだろ、その初日なんだよ」
「ああ、……そうだよね」
この時期の全国ツアーは毎年恒例のものだった。
首都圏での公演は、初日の東京と最終日の横浜のみ。
去年はあたしもチケットを手に入れようと頑張ったけれど、結局どちらもゲットできなかった。
かといって、高校生の分際では地方まで行くっていうのにも無理があって、泣く泣く諦めた覚えがある。
「行きたいなあ……」
あたしは、無意識に呟いた。
蒼の歌は、あたしにとって特別な意味を持つ。
悲しいときも、寂しいときも、疲れたときも、もちろん嬉しいときも楽しいときも、あたしは蒼の歌を聴いたし、その度に、慰められたり、元気付けられたり、癒されたりした。
それは、アイドルとしての彼に遠くから憧れていた頃も、こうして1番近くで彼を感じることができるようになった今も、全然変わってない。
こんな言い方をしたら臭く聞こえるかも知れないけど、蒼の歌は、まさにあたしの青春を彩るものだ。
「おいでよ、ていうか、もうそのつもりでチケットも手配してあるし」
「……え?」
きょとんとして聞き返したあたしに、蒼はちょっと苦笑した。
「コンサート、観においでって言ってるの」
「いいの? 大事な初日なのに」
「大事な日だからこそ、藍に観て欲しいんだよ」
彼がこんな風に言ってくれるなんて思ってもみなかったから驚いた。
蒼は、あたしの手に自分の手を重ねるようにして握り、来てくれるだろ、と聞く。
あたしは頷き、もちろん行く、と答えた。
「ああ、なんか夢みたい、蒼の歌が生で聴けるなんて」
「藍が聴きたいと言えば、いつだって歌ってあげるのに」
「そんな贅沢言ったら罰が当たっちゃう、蒼とこうしていられるだけでも、幸せすぎて怖いくらいなのに」
耳元に、蒼が洩らした小さい溜息が落ちる。
「……参ったな、やっぱり君はものすごく可愛い」
そう言って、彼はあたしをさらにぎゅっと力を込めて抱きしめた。
ぴったりと胸に引き寄せられた背中で、彼の鼓動を感じる。
お互いを隔てる衣服や、自らの肌さえも邪魔に思う。
このまま彼に取り込まれてひとつになってしまいたい……。
「蒼、大好き……」
「俺も……藍が好きだ」
そう囁いた彼が創り出す、どんなラブソングよりも甘いひとときに酔い痴れる。
あたしと同じように、彼の歌に癒されたり元気をもらったりする人はきっとたくさんいる。
だけど、こうして愛し合うときに彼が紡ぎだす調べは、あたしだけが享受したい。
そう願うことは、罪じゃないよね……?
* * * * *
蒼のコンサートが行われる会場の最寄り駅に着いたところで、あたしは彼に言われていた通り、桂木さんに電話をした。
「あの、藍です……今、駅に着いたんですけど」
「ああ、蒼から話は聞いているよ。ロータリーを出たところに喫茶店があるから、そこで落ち合おう」
「わかりました」
あたしは電話を切って、告げられた喫茶店へと向かう。
そこで、桂木さんからチケットを渡されることになっていた。
桂木さんも、コンサートの開演前で忙しいはずなのに、あたしなんかのために時間を取らせてしまって申し訳ないなあ、と思う。
でも、これは蒼が決めたことだから仕方がない。
「いつかみたいに、チケット忘れて会場に入れませんでした、なんてことになったら困る」
というのが蒼の言い分で、実際に、そういうドジを踏んでしまったことのあるあたしに拒否権はない。
落ち着いた雰囲気のこじんまりとした店内の、奥まった席に腰を下ろす。
民芸風の厚手のカップに入れられたコーヒーが運ばれてきてしばらくすると、桂木さんが姿を現した。
「すみません、お手数かけて」
あたしが頭を下げると、桂木さんは、構わないよと言って少し笑った。
「蒼が自分から誰かをコンサートに呼ぶなんて珍しいことだからね。家族さえ、気が散ると言って招待するのを嫌がるやつだから」
「そうなんですか? だったら、あたしも顔を出さない方がいいんじゃ……」
蒼には、体力的にも精神的にも、万全でコンサートに臨んで欲しかった。
あたしがその場にいることで、もしかしたら彼の集中力にも影響が出るのでは、とあたしが言うと、桂木さんはちょっと慌てて手を振った。
「それはだめだ、蒼自身が君を呼んだんだろう? だったら、君には責任持ってそこにいてもらわなくちゃ。舞台を放り出して探しにでも行かれたら、それこそ大変なことになる」
「そんな、いくらなんでも、それはないと思いますけど……」
そのくらい、蒼に想われているのだとすれば、もちろん嬉しい。
だけど、それはプロである蒼に対して、あたしが望んではいけないことだ。
「蒼は、ああ見えて思い込みの激しいところがあるからね。自分でこうと決めたら、その瞬間に周りなんて目に入らなくなってしまう。まあ、それがやつの成功を支えてきたものだということも事実なんだけれどね」
言いながら、桂木さんは小さく苦笑めいたものを洩らし、あたしに尋ねた。
「君は……蒼が、アイドルを目指した理由を知っている?」
「理由? いいえ、知りません」
あたしが蒼の存在を知ったとき、彼はすでに誰もが認める立派なアイドルだった。
恵まれた容貌、独特の歌声、人を惹き付けずにはおかないカリスマ、一目見て、蒼という人はアイドルになるべくしてなったんだと思ったことを覚えてる。
「やつには、年の離れたお兄さんがいてね、容姿端麗、成績優秀、スポーツ万能、おまけに性格の良さは周囲の折り紙つきっていう、まさに理想の兄貴で」
「お兄さん……」
蒼にお兄ちゃんがいたなんて初耳だった。
もともと、蒼がアイドルであること以外、あたしは彼自身のことを何も知らない。
「蒼のお父さんは医者でね、お兄さんも、同じ東都大の医学部を出て、大学病院の医師になった。周囲からも将来を嘱望される、大変有能な外科医だそうだ」
ふぅん……蒼の家って、お父さんもお兄ちゃんもお医者さんなんだ。
蒼のイメージとはすぐに結びつかなくて、あんまりピンとこないけど。
「意外かい?」
桂木さんに尋ねられて、あたしは咄嗟に首を横に振った。
「いえ、別に……ただ、だったらどうして蒼はお医者さんにならなかったのかなって」
「その心境には複雑なものがあったらしい。蒼自身、初めから医者になる気がなかったっていうのもあるけど、優秀な兄のあとでは何をしても、結局は兄のコピーとしか見てもらえない、それが悔しかったのだとは言っていたね」
「はあ……」
その気持ちは、なんとなくわかる。
あたしも、茜っていう自分よりずっとしっかりした妹を持って、たまに比べられたりするとすごく複雑な気分になるもの。
「やつはもちろん、お兄さんを愛していたし尊敬もしていたと思う。だけど、ことある毎に兄と比べられることには鬱屈が溜まっていたんだろう。自分は兄とは違うのだと、周囲に認めされるにはどうしたらいいか、考えあぐねたに違いない。だから、蒼は日本中が認めるアイドルになろうとした、そしてやつはそれを実現した」
「ああ、それで……」
あたしは思わず感嘆していた。
誰にだって夢はある、だけど、それが現実になるかどうかは、その人の頑張りに大きく左右される。
頑張りきれず、途中で諦めてしまう人も多いだろう。
あたしは、アイドルになろうと思ってそれを実現してしまう、蒼という人をあらためてすごいと思った。
「初めて事務所で顔を合わせたとき、あいつはまだ中学生のガキだった。それから10年、完璧すぎる兄といつも彼と自分を比べてばかりいた両親を見返したい、その一心で、やつは頑張り通した。その結果として今日の蒼がある」
あたしは黙って頷いた。
桂木さんは、テーブルに頬杖をついて、そんなあたしをまじまじと見た。
「蒼はいつだって、蒼自身のために頑張ってきたんだ。応援してくれるファンのため、なんて奇麗事じゃない。歌も、ドラマも、それを支えるためのトレーニングも、厳しいスケジュールをこなすことさえ、家族に自分を認めさせるための手段だと公言して憚らなかった」
「それは、……間違っていないと思います、それが、蒼のモチベーションだったなら」
それを聞いて、桂木さんは、目を細めるようにして微笑んだ。
「だけど、今は違う」
「違う……?」
あたしは、桂木さんの言っている意味がわからなくて首を傾げた。
桂木さんは続けた。
「蒼は、誰かのために頑張るということを覚えた。そして、それをあいつに教えてくれたのは、樫村藍さん、君だよ」
彼は、ソファに長い足を投げ出すようにして座り、薄い冊子を読んでいる。
時おり、声は出さずに唇だけを動かしているところなんかを見ると、ドラマの台本かも知れない。
あたしは、そんな彼の足の間に身体を置いて、彼の胸に凭れながら、観るとはなしにテレビの画面を眺めてる。
2人とも黙ったまま、それぞれ別のことをしている。
交わす言葉は特になくても、触れ合う肌のぬくもりが、お互いが近くにいることを感じさせてくれる。
それは、あたしをとても豊かな気持ちにさせる。
もちろん、彼と愛し合うのは好きだし、心地良いと思う。
だけど、あたしは、蒼と過ごすこういうのんびりした時間も、結構好きだ。
首を振り向けて彼を窺い見ると、彼も本のページから目を上げた。
「ん? どうしたの?」
微笑みながら、首を傾げるのは蒼の癖。
「ううん、何でもない……」
あたしは妙に気恥ずかしくなって俯く。
本当に、なんてきれいな人なんだろう。
間近で見つめられるだけで胸がドキドキする。
「そう? それにしちゃ、何だかすごく物言いたげな様子で、俺の顔を見ていたけど」
読んでいた冊子を無造作に投げ、彼は指先であたしの顎をくいと持ち上げた。
「放って置かれて退屈した?」
「そんなことない、あたしは……こうして、蒼の側にいれるだけで満足」
それを聞いて、蒼は小さくふふっと笑う。
「普通の顔してそういうこと言うから……、まったく、君って子は」
背中から腕を回して抱きしめられ、唇が塞がれる。
「んぅ…、蒼……」
あたしは甘えた鼻声を出して、彼の胸に身体を預ける。
そんなあたしを、彼は切れ長な目を細めて、見た。
「君が愛しくてたまらないよ、藍……掌中に収めたつもりで、手玉に取られているのは俺の方かもね」
そう言って、さらにキス。
甘く絡め取るような口づけに、全身の皮膚が粟立った。
「ねえ、君……10月最後の日曜日は空いている?」
しばらくして唇を離すと、彼はそう聞いてきた。
「どうかな、その頃なら体育祭も学祭も終わっているし、特に予定はないと思うよ」
あたしはそう答えたけど、たとえ他に用事があったって、蒼の方を優先するに決まってる。
あたしが今、何よりも大切にしたいと思うもの、それは蒼との時間だ。
優しい彼は、許される時間のすべてをあたしといることに充ててくれているけれど、日本一人気者のアイドル故に緊密なスケジュールをこなさなければならない彼とは、普通の恋人同士のように会いたいときに会う、というわけにはいかない。
いくら恋しくても、ただでさえ忙しい彼にこれ以上無理をさせることはできないし、彼の都合が良いときには、なるべくあたしがそれに合わせるようにしている。
文字通り、今のあたしの生活は、彼を中心にして回っていた。
それでも、あたしはそれを苦痛だとか面倒だとか考えたことはない。
蒼のために、少しでもあたしにできることがあるのならしたかった。
「その日がどうかしたの?」
「秋から冬にかけてのツアーが始まるだろ、その初日なんだよ」
「ああ、……そうだよね」
この時期の全国ツアーは毎年恒例のものだった。
首都圏での公演は、初日の東京と最終日の横浜のみ。
去年はあたしもチケットを手に入れようと頑張ったけれど、結局どちらもゲットできなかった。
かといって、高校生の分際では地方まで行くっていうのにも無理があって、泣く泣く諦めた覚えがある。
「行きたいなあ……」
あたしは、無意識に呟いた。
蒼の歌は、あたしにとって特別な意味を持つ。
悲しいときも、寂しいときも、疲れたときも、もちろん嬉しいときも楽しいときも、あたしは蒼の歌を聴いたし、その度に、慰められたり、元気付けられたり、癒されたりした。
それは、アイドルとしての彼に遠くから憧れていた頃も、こうして1番近くで彼を感じることができるようになった今も、全然変わってない。
こんな言い方をしたら臭く聞こえるかも知れないけど、蒼の歌は、まさにあたしの青春を彩るものだ。
「おいでよ、ていうか、もうそのつもりでチケットも手配してあるし」
「……え?」
きょとんとして聞き返したあたしに、蒼はちょっと苦笑した。
「コンサート、観においでって言ってるの」
「いいの? 大事な初日なのに」
「大事な日だからこそ、藍に観て欲しいんだよ」
彼がこんな風に言ってくれるなんて思ってもみなかったから驚いた。
蒼は、あたしの手に自分の手を重ねるようにして握り、来てくれるだろ、と聞く。
あたしは頷き、もちろん行く、と答えた。
「ああ、なんか夢みたい、蒼の歌が生で聴けるなんて」
「藍が聴きたいと言えば、いつだって歌ってあげるのに」
「そんな贅沢言ったら罰が当たっちゃう、蒼とこうしていられるだけでも、幸せすぎて怖いくらいなのに」
耳元に、蒼が洩らした小さい溜息が落ちる。
「……参ったな、やっぱり君はものすごく可愛い」
そう言って、彼はあたしをさらにぎゅっと力を込めて抱きしめた。
ぴったりと胸に引き寄せられた背中で、彼の鼓動を感じる。
お互いを隔てる衣服や、自らの肌さえも邪魔に思う。
このまま彼に取り込まれてひとつになってしまいたい……。
「蒼、大好き……」
「俺も……藍が好きだ」
そう囁いた彼が創り出す、どんなラブソングよりも甘いひとときに酔い痴れる。
あたしと同じように、彼の歌に癒されたり元気をもらったりする人はきっとたくさんいる。
だけど、こうして愛し合うときに彼が紡ぎだす調べは、あたしだけが享受したい。
そう願うことは、罪じゃないよね……?
* * * * *
蒼のコンサートが行われる会場の最寄り駅に着いたところで、あたしは彼に言われていた通り、桂木さんに電話をした。
「あの、藍です……今、駅に着いたんですけど」
「ああ、蒼から話は聞いているよ。ロータリーを出たところに喫茶店があるから、そこで落ち合おう」
「わかりました」
あたしは電話を切って、告げられた喫茶店へと向かう。
そこで、桂木さんからチケットを渡されることになっていた。
桂木さんも、コンサートの開演前で忙しいはずなのに、あたしなんかのために時間を取らせてしまって申し訳ないなあ、と思う。
でも、これは蒼が決めたことだから仕方がない。
「いつかみたいに、チケット忘れて会場に入れませんでした、なんてことになったら困る」
というのが蒼の言い分で、実際に、そういうドジを踏んでしまったことのあるあたしに拒否権はない。
落ち着いた雰囲気のこじんまりとした店内の、奥まった席に腰を下ろす。
民芸風の厚手のカップに入れられたコーヒーが運ばれてきてしばらくすると、桂木さんが姿を現した。
「すみません、お手数かけて」
あたしが頭を下げると、桂木さんは、構わないよと言って少し笑った。
「蒼が自分から誰かをコンサートに呼ぶなんて珍しいことだからね。家族さえ、気が散ると言って招待するのを嫌がるやつだから」
「そうなんですか? だったら、あたしも顔を出さない方がいいんじゃ……」
蒼には、体力的にも精神的にも、万全でコンサートに臨んで欲しかった。
あたしがその場にいることで、もしかしたら彼の集中力にも影響が出るのでは、とあたしが言うと、桂木さんはちょっと慌てて手を振った。
「それはだめだ、蒼自身が君を呼んだんだろう? だったら、君には責任持ってそこにいてもらわなくちゃ。舞台を放り出して探しにでも行かれたら、それこそ大変なことになる」
「そんな、いくらなんでも、それはないと思いますけど……」
そのくらい、蒼に想われているのだとすれば、もちろん嬉しい。
だけど、それはプロである蒼に対して、あたしが望んではいけないことだ。
「蒼は、ああ見えて思い込みの激しいところがあるからね。自分でこうと決めたら、その瞬間に周りなんて目に入らなくなってしまう。まあ、それがやつの成功を支えてきたものだということも事実なんだけれどね」
言いながら、桂木さんは小さく苦笑めいたものを洩らし、あたしに尋ねた。
「君は……蒼が、アイドルを目指した理由を知っている?」
「理由? いいえ、知りません」
あたしが蒼の存在を知ったとき、彼はすでに誰もが認める立派なアイドルだった。
恵まれた容貌、独特の歌声、人を惹き付けずにはおかないカリスマ、一目見て、蒼という人はアイドルになるべくしてなったんだと思ったことを覚えてる。
「やつには、年の離れたお兄さんがいてね、容姿端麗、成績優秀、スポーツ万能、おまけに性格の良さは周囲の折り紙つきっていう、まさに理想の兄貴で」
「お兄さん……」
蒼にお兄ちゃんがいたなんて初耳だった。
もともと、蒼がアイドルであること以外、あたしは彼自身のことを何も知らない。
「蒼のお父さんは医者でね、お兄さんも、同じ東都大の医学部を出て、大学病院の医師になった。周囲からも将来を嘱望される、大変有能な外科医だそうだ」
ふぅん……蒼の家って、お父さんもお兄ちゃんもお医者さんなんだ。
蒼のイメージとはすぐに結びつかなくて、あんまりピンとこないけど。
「意外かい?」
桂木さんに尋ねられて、あたしは咄嗟に首を横に振った。
「いえ、別に……ただ、だったらどうして蒼はお医者さんにならなかったのかなって」
「その心境には複雑なものがあったらしい。蒼自身、初めから医者になる気がなかったっていうのもあるけど、優秀な兄のあとでは何をしても、結局は兄のコピーとしか見てもらえない、それが悔しかったのだとは言っていたね」
「はあ……」
その気持ちは、なんとなくわかる。
あたしも、茜っていう自分よりずっとしっかりした妹を持って、たまに比べられたりするとすごく複雑な気分になるもの。
「やつはもちろん、お兄さんを愛していたし尊敬もしていたと思う。だけど、ことある毎に兄と比べられることには鬱屈が溜まっていたんだろう。自分は兄とは違うのだと、周囲に認めされるにはどうしたらいいか、考えあぐねたに違いない。だから、蒼は日本中が認めるアイドルになろうとした、そしてやつはそれを実現した」
「ああ、それで……」
あたしは思わず感嘆していた。
誰にだって夢はある、だけど、それが現実になるかどうかは、その人の頑張りに大きく左右される。
頑張りきれず、途中で諦めてしまう人も多いだろう。
あたしは、アイドルになろうと思ってそれを実現してしまう、蒼という人をあらためてすごいと思った。
「初めて事務所で顔を合わせたとき、あいつはまだ中学生のガキだった。それから10年、完璧すぎる兄といつも彼と自分を比べてばかりいた両親を見返したい、その一心で、やつは頑張り通した。その結果として今日の蒼がある」
あたしは黙って頷いた。
桂木さんは、テーブルに頬杖をついて、そんなあたしをまじまじと見た。
「蒼はいつだって、蒼自身のために頑張ってきたんだ。応援してくれるファンのため、なんて奇麗事じゃない。歌も、ドラマも、それを支えるためのトレーニングも、厳しいスケジュールをこなすことさえ、家族に自分を認めさせるための手段だと公言して憚らなかった」
「それは、……間違っていないと思います、それが、蒼のモチベーションだったなら」
それを聞いて、桂木さんは、目を細めるようにして微笑んだ。
「だけど、今は違う」
「違う……?」
あたしは、桂木さんの言っている意味がわからなくて首を傾げた。
桂木さんは続けた。
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