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《81》
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朝、なのかは極夜のため感覚としては分からない。が、時計の針が朝5時をさした時。
チャコールは上司でもあるコフィ、クリーム、そして家令代行のレドベリィの前で片膝を付いていた。家令であるオペラは本日の昼から復帰する予定であるが、チャコールはその方には告げるつもりはなかった。
「ジャロリーノ様を思いっきりひっぱたきました」
「……」
「……」
「……」
無表情で告白すれば、雲の上の奴隷である三名は、やはり無表情で沈黙した。
最初に口を開いたのはクリームで、
「うーん、……主従関係に外部から口を挟むのは基本的にしないんだが、……何があった?」
と少しだけ気安く言ったのだが、コフィは
「場合によっては処罰は免れないぞ?」
と冷たく言い捨てた。
普段からは考え付かない冷え冷えとした声に、少しだけ恐怖を感じる。
「処罰は甘んじて受けます」
「謹慎程度では済まないことを念頭に置いているか?」
「はい」
降格、もしくはジャロリーノ第四王子付きから外され、ネイプルスからも追放されるかもしれないが、もう一度同じ場面になってもやはりひっぱたくだろう。むしろ殴らなかったことが奇跡であるし、二発目を堪えた己に驚いている。
「叩いてしまった理由は、単純に私が感情に振り回された未熟さのためです」
すると今度はレドベリィが言った。
「その懺悔のために、私たちを呼び出したのか?」
家令代行とは、身分として最上位に近い。本来であれば、チャコール程度では話しかけることも憚られる身分だ。
「ご報告する必要がある情報を得ました。出来るだけ周りに知られてはならない内容だと判断いたしましたので、無礼を承知でお集まりいただいた次第でございます」
「主従関係外に報告をする程の重要案件なんだな? 本来、主従間でのやり取りはどんなことでも口外しない。その禁忌を破るが、それでも良いのだな?」
主と付き奴隷の関係はそれ程までに密である。
犯罪はもとより、人殺しや反逆であっても口外厳禁であり、チャコールは十二分に承知していた。
「……、ジャロリーノ王子殿下とオーカー王太子殿下の関係性についてです」
「……それこそ口外してはならない内容なのでは?」
レドベリィが腕組みをする。
そうかもしれない、とチャコールは決意が揺れた。
だが、このままジャロリーノとオルカの関係が続くのはどうにかして阻止しなければならなかった。
「彼らの関係性には、とある契約が結ばれております。口約束だと思われます。……正式な契約では決してありえない契約だからです」
今度はコフィが言う。
「ジャロリーノ殿下が精霊を産む苗床になった話しかい? ならばすでに知り得ている内容だが?」
現に処理をすべく、仮の儀式をグロウ王と行った。
「……どのようにして、苗床となる事態になったかまで、ご存知でいらっしゃいますのでしょうか……?」
それを知っていてなにも問題にしていないとしたら、チャコールの腸は何万回煮えくりかえっても治まらない。
「……それは知り得ていない。あの時は人払いが徹底されていた。それこそ精霊でもなければ入り込めやしないだろうな」
「ジャロリーノ様は、決して……、……、……全うな手順で処女を失ったわけではありません」
男に対して処女という単語を用いるのはおかしいが、ことにジャロリーノにとっては重要な事柄だった。
男性との受け入れる側としての性交は、ジャロリーノの人生を構成する要素として、なくてはならない通過儀礼だった。
あの悲惨な事件を無かったことにし、やり直すための、重要な儀式だった。
処女なんてものはとうに破壊されている。
おかしな精神状態の時には、自分を含め何人もの男に抱かれているし、時には無理やり押し込まれてさえいるだろう。
けれど、正常な精神状態では経験は無かった。
まともでいられる時間が増え、同時に知らぬ間に作り上げられている性指向に怯えはじめ、気づいていなかった同性への恋心をも自覚した。
もはや異性愛者として生きることが難しい。
だからこそ、出来るだけ後悔のない初体験をさせてあげたかったし、そうあるべきだった。
やり直しをさせたかった。
相談してくれればきちんとセッティングした。
望む相手を連れてきたし、でなければ、より良い相手を探し出したし、手順を踏んでから相応しい場所を用意したのに。
ちゃんとした、誰からも羨まれる初体験を準備してやったのに!
「……、引き換えに差し出したのです」
なんとか絞り出した声は、掠れていた。
しかしそこからなかなか言葉が出てこなかった。
息もままならない。ただただ押し黙っていると、ため息と共にクリームが先を促した。
「何と何を?」
ケツと、奴隷を。
「処女と……」
「……」
「……オーカー付きの、奴隷です」
「……」
「……」
「……奴隷?」
と呟いたのはコフィだった。
「はい」
返事をすれば涙が込み上げてきた。
「あいつ、……、抱かせてくれたら奴隷を譲るって唆されて、カーテンの中で、……尻だけだして、ヤッたって……」
訪れた沈黙。
時が止まったかのような静寂。
コフィ、クリーム、レドベリィは目だけを動かし、それぞれの反応を見ていた。
沈痛としか言い様のない顔をそれぞれが浮かべていた。
「……いや、待て。待て待て待て、その奴隷ってまさかシンフォニー・ブラックスワンのことか?」
クリームが戸惑いながら言った。
チャコールは声がだせず、ただ頷いた。
「あいつなら、もうジャロリーノの物になるのは決まってるぞ!」
「……っ」
チャコールは唇を噛んだ。
「じゃあ、……ほんとにあいつは、ただのヤられ損だったんですか……?」
「……、」
「っ、」
「……」
「あいつ、王子のくせに、奴隷欲しさに奴隷の変わりになったんです」
「……代わりに……」
そう呟いたのはクリームだったが、続けたのはレドベリィだった。
「奴隷の役割を引き受けた、とかではないよな?」
「……あいつらの関係は、対等な王子同士ではないんです。主と奴隷の関係なんです……」
三人の奴隷達はまた押し黙った。
「あいつ……それを臆面なく言うし、……少し考えれば、いや考えなくたって、おかしいって分かるはずなのに、……、どうして……、」
どうして。
チャコールの頭にはそれしか浮かんで来なかった。
きっと恋人同士でもなく、指輪の関係でもない。
ご主人様と奴隷の関係性の中の、よりによって奴隷の場所にするり収まって、なんの疑問も抱いていないのだ。
つまり、とコフィが言った。
「つまり、ジャロリーノ様は、本来自分の物であるシンフォニー・ブラックスワンという奴隷を貰うために、オーカー王太子の言うがままに、求められるがままに性的な行為を受け入れた。それは……自らの意思なのか?」
重要であるとばかりに、コフィが聞き直す。
「唆されたとお前は言ったが、本当に唆されたと言って間違いないのか?」
「意思……かもしれませんが、しかし、でも! …………、自分が男に抱かれたい変態だとオルカは知ってた、……そう言ってました。……、抱かれたら……奴隷にも抱いて貰えるからと……そう言われたみたいです」
その事をチャコールにも言えと、自分にも伝えて抱いて貰えと言われたとは、さすがに口には出来なかった。
コフィが額を押さえている。
「……、性指向という弱味につけこんで強要したとも捉えることがで気はする、……。しかも、物で釣って。その物が、あたかも自分のものであるかのように偽って、か……」
「……、その奴隷の変わりに、精霊を産むと……。……多分産み続けることも了承してます。…………、か、代わりになるから、奴隷を貰うことを条件にしたのに、本来の所有者のスマルト王には、ちゃんと産めたかどうか分かるまでは会わせられないと……、……、」
「……色々まずいことやってるな、あのクソガキ」
「あいつ、……、ヤれる相手が増えてしかも本命の奴隷が貰えてラッキーくらいにしか考えてなかったんでしょうか……、」
「だとしたら、あんなに落ち込んではいないと思うよ?」
とクリームが言ったが、
「……あいつの価値観が、……もう、……、……思ってた以上に……、ダメで……、……、どうしたらいいのか……、まともでも、……、なんで、自分のことを平然と奴隷だなんて言えるんだ……、正気なのに。正気なのに!」
チャコールは耐えられなかった。
おかしくなってる時ならまだ耐えられる。けれど、正気でさえも、なにかが壊れたままだった。
うずくまるチャコールにコフィが声を投げつける。
「で、お前はどうするんだ? 私たちにそれを報告して、それで終わりか?」
「……」
「ただ泣きべそかくために呼び出したわけじゃないよなあ?」
「……、いえ。…………、どうか、…………報復を」
チャコールは顔を上げてコフィの目を見た。コフィがヒクッと唇の端を歪めたのが見えた。
「私の位と格では、ビスマス王家へ報復も糾弾も抗議すらまだできません。どうか、皆様のお力でジャロリーノ様への仕打ちに対する報復をしてはいただけませんでしょうか。それが無理ならば、……私が、……」
チャコールはふっと表情を消した
「オーカーを殺しに行ってもよろしいですか?」
殺す。
オーカー・ビスマス。
殺す。
三名の奴隷は息を飲んだ。
これは本当に殺しに行く。三人とも直感した。
そしてそれが可能な程に、この奴隷にはその実力と技術があることに震えた。
「……正式にビスマス王家に抗議をしよう。ユーサリー・グロウから話しを通してもらうよう要請するので、無断で実行をしないように」
家令代行のレドベリィが言った。
「なぜユーサリー・グロウ王陛下が? ジャロリーノを正式に公妾になさるのですか?」
「……、ジョーヌ・ブリアン・ネイプルス王が不在の場合、ユーサリー・グロウ王がネイプルス王家の指揮をとることになっている」
「わかりました。……抗議による進捗は、私にきちんと知らせてくださいますか? でなければ、抗議なされなかったと判断し、私自身で決着をつけに参ります」
「進捗はお前にも伝えよう。また、結果はジャロリーノ殿下にもお伝えすることも約束しよう。そもそも、私たちもジャロリーノ様が苗床になることには承服しかねるのでね、抗議するつもりで動いていたんだ」
「承知いたしました。……なるべく早く、教えて下るよう、お願いいたします」
「……、情報の提供を感謝しよう。材料が足りなかったから助かったよ」
「……勿体無いお言葉です、閣下」
そしてチャコールは背筋を伸ばしてから、再度頭を下げた。
「……つきましては、私に罰をお与えください」
「罰? ……ああ、主人を叩いたことへの罰のことか」
「はい」
「……そうだな。……、どうしようか」
三人の奴隷は顔を見合わせる。
三名は、この若い奴隷が王家への抗議と契約の撤回と正式な謝罪を求めると意見してくるかと踏んでいた。が、そんな考えを軽く飛び越えて報復を望んでいたので、若干の恐怖を禁じ得なかった。
下手に手綱を緩めたら衝動のままに王太子暗殺を決行するかも知れなかった。
降格、謹慎、ましてや左遷といった、時間と隙を与えてはならない。
禁固刑にでもしてやろうかとさえ思った。
もしくは飼い主の側から離れないようにしてしまうか。
そして、思い付いたようにクリームが言った。
「今回は喧嘩両成敗方式でいこう。なんかスッキリしない案件だしね。どう?」
聞かれてレドベリィが答えた。
「確かに、どんな罰を与えれば適当か悩むところだからな」
そしてコフィが少しだけ砕けた調子に戻って続ける。
「つまり、同じ場所を殴らせるということか?」
「そうだとも」
「名案だ」
少なくとも自分たちの監視下に置けるし、傷つけられたかわいそうなご主人様の側からしばらくは離れないだろうから、勝手に王宮に忍び込んだりはしないはずである。
そうだと信じたい。
しかしながら、コフィは肩をすくめた。
「あー、けどそれだと甘過ぎじゃないか? ジャロリーノ様は殴れと言ってもきっと自分の後ろめたさや落ち度とか考えて、殴りたくないとか言いそうだ。例え殴ったとしても手加減するだろうね。……第一あの細腕じゃ、本気で殴ってもたかが知れてる」
クリームが呆れたようにニヤリと笑う。
「なに言ってるんだ? ジャロリーノ様に殴っていただこうだなんて言うはずがないだろう? 不公平だろ。ジャロリーノ様に対して、チャコールの体格差と筋力差がどれだけあるか分からないわけじゃない。……だから、似たような差のある奴に殴らせるんだよ」
「似たような」
「差……」
数分後、刑は執行された。
チャコールはメイズに全力で殴られた。
さて、朝の6時になる少し前、ネイプルス城に一台の車がやってきた。車から降りたのはネイプルス城家令のオペラである。黒いロングコートの裾をはばたかせ、出迎えのない玄関からするりと中に入った。
城内は暗く、冷えていた。
しかし少し歩けば明かりが灯る通路や部屋があり、普段は表に出てこない下級使用人たちが忙しそうにしている。
下級使用人は主の前に出ることは不敬とされ、仕事は深夜や早朝に行うことが多かった。
オペラは気配を消して奴隷専用の天井裏部屋を移動し、彼らの様子を伺った。
掃除係達のようだ。
「ね、さっきというかちょっと前に珍しいもの見ちゃった」
ひそひそ、そして可笑しそうに囁く女の声。なになに? と聞き返す複数の声。
「ジャロリーノ王子がパジャマで徘徊してたの」
その言葉にオペラは一瞬凍りついた。
「へー、どう? やっぱりおかしい感じ?」
「裸じゃなかったんだ?」
「兵士を誘ったりしてたんじゃないの? そっちの趣味なんでしょ?」
「おかしい感じだった。おかしい、おかしい」
きゃははは、と甲高い笑い声がする。
「裸じゃなかったんだけどね、パジャマの……あそこ、……膨らんでた」
「あそこ?」
「膨らんで? なになに、それ」
「だからー、……立たせてたの。あはは、やだー」
「うそでしょー? やだー」
「それで徘徊してたの? 最悪じゃない?」
「やっぱり兵士にやらしいことさせにいったんだ、いやー!」
クスクス、きゃははは、
「そんな王子様に仕えるなんて嫌だよね」
「早く地下のお部屋に幽閉しちゃえばいいのに」
「気色悪いし、こう言ってはなんだけどさ、恥だよね」
「ほんとほんと。……でもさ、……貴族って、そーゆーのが好きなんでしょ?」
「気持ち悪いー。そう考えると、貴族に生まれなくて良かった」
「あんなのがお好きなのかしら」
「ねー、だって……あそこ……立たせながら徘徊するんでしょ?」
クスクス、クスクス、
「最悪ー」
「他のお城でもこんなことあるのかな」
ひそひそ、クスクス、
遠ざかってゆく下級使用人たち。
オペラは苦い思いで今の情報を反芻していた。下級使用人たちを処罰するのは後だ。仕事に戻る前に仮眠をとろうと思っていたが、そんなことよりもジャロリーノ様の様子を確認するのが先だ。
チャコールは夜の従事から外しているとは聞いていたので、今のジャロリーノ様は無防備に違いない。
本当に兵士と性的行為に及んでいたら大変だ。
しかし、幸いなことにジャロリーノは自身の部屋にいた。
部屋の中、寝室には幾つかランプが灯り、暗くはあるが歩くことはできる。その先のバスルームにつながる扉の隙間からより強い明かりが漏れていた。
シャワーの音はしないが、水音はする。
洗面台でお顔でも洗っているのだろうか。
「ジャロリーノ様? オペラです。おはようございます」
返事はない。
「失礼しますね」
扉を開けると、広い洗面室と脱衣室の床にビショビショの大量のリネンがくしゃりと置かれ、その中に立ち、ジャロリーノが裸の状態で洗面台で布を洗っていた。
「……ジャロリーノ様……?」
この異様さは、初めてだ。
なにが起こってるんだ。
「な、なにをされてるんです……?」
ジャロリーノはうつむいたまま、パシャパシャと音を立てながら洗い物を続けている。
「……汚れたから……」
「……そのようなことは私どもがしますから……」
やめさせようと手を伸ばすと、
「触るな!」
と、思いがけず鋭い声で命令された。
「汚いから……触るな……」
床にくしゃくしゃビショビショに置かれているのはシーツ、タオル、枕カバー、クッションカバー。
そしてパジャマと、下着。
今洗っているのは、タオル地の風呂上がりよく着ているガウンだ。
ジャロリーノの髪が濡れている。
シャワーを浴び、そして着るはずのガウンを洗っている。
「ジャロリーノ様、やめましょう」
ジャロリーノから返事はなく、ガウンを洗い続けようとする。
「やめてください」
強めに言うと、やっと手を止めた。
「なんでこんなことしてるんです?」
「……汚れたから」
沈んだ声が返ってきた。
「汚れたって……。なにか溢したんですか? しかも裸で……。暖房が効いてますが、裸だと流石に寒いですよ。新しくガウンをお持ちしますから、……もう一度シャワーを浴び直してきてください」
「……、……、……、服、着たら……また汚す……。また洗わなきゃ」
これは、以前にも何度かあった、自分の汚さを感じて潔癖になる状態だろうか。
「汚くなんてありませんよ」
と慰めようとすると、
「汚したんだ……、」
といきなり踞った。
「止まらないんだよ、……、何回、出しても、止まらなくて、ベッドでも、……シャワーでも、……スッキリしたはずなのに、ガウン着たらまた、……、」
なにを言ってるのか分からないが、分かってしまった。
さっきの下級使用人達の会話が脳裏を掠めていく。
そしてジャロリーノは逃げるようにシャワーに走ってゆく。
そして頭からシャワーをかぶり、床にしゃがみこんでなにかをし始める。
チャコールは一瞬だけ目をぎゅっと瞑ってから、ゆっくりを目を開けた。
鳴き声とも泣き声ともつかない微かな声がシャワー音の隙間から耳に届いた。
一旦寝室に戻り、明かりをつけてからぐるりと見渡す。荒らされたベッドは一旦スルーし、別部屋に続く扉を見る。そこは際側近が使う寝室で、第一付き奴隷が主に使う。
これまで主不在だったが、今はチャコールという主がいるはずだ。だが、チャコールは滅多にこの部屋は使わず、上にある奴隷の空間に用意された自室を使っている。
「……」
この部屋にいれば、主たるジャロリーノの異変に気づいたであろう。こうやって主を放置しているということは、自室で休んでいるに違いない。
オペラはその部屋をノックもせずに開けた。案の定無人だった。
だが以前と比べて生活感がある。クローゼットにはネイプルス城の下級付き奴隷の制服が十着入っており、装飾品もきれいに並べられていた。
付き奴隷としてのやる気はちゃんとあるようではある。
デスクにはジャロリーノのスケジュールや、勉強の進み具合、体調の変化や観察メモがびっしりと書かれた表が置いてあるし、アロマやハーブティの調合研究ノートが開かれたまま放置してあった。ジャロリーノの精神状態にあわせて香り成分を変えているらしかった。
服用する薬との禁忌の香りの研究もしているらしい。
良かった、真剣に主のことを考えている。
安堵はしたものの、責任放棄気味であるのは許せることではない。
しかし今重要なのはそこではない。
薬品棚を開けた。
そこにはジャロリーノに処方されている数々の薬品がしまわれている。
開けば、
「………………」
今は使用していないはずの薬たちがあった。媚薬の中和剤に、精力減退剤、睡眠薬。
精力減退剤は毒にもなる。下手に使えば精子がつくられなくなる危険な薬だ。幸いまだ使われていないようだが、これがあるということは、現在のジャロリーノは性欲異常状態で、原因は強い媚薬。中毒になっているのだろう。
どうしてこうなったかは報告書を読まなくてはわからないが、今はジャロリーノをどうにかしてあげなければ。
あの方は今、正気だ。
正気でアレは辛いだろう。
中和剤と睡眠薬を手にバスルームに向かった。
ジャロリーノはまだシャワー室で踞り、泣きながら自慰に勤しんでいる。ぺニスは腫れたかのように赤くふくれ、指を抜き差ししている肛門は縁が捲れて痛々しかった。
もはや気持ちよさなど無いだろうに。
しかし生まれ続ける性欲を発散させるためにはするしかないのだ。
「ジャロリーノ様、……」
そして顔を覗き込んで、息を飲んだ。
「どうしたんですか、その顔!」
顔の左が赤黒く腫れ上がっていた。
まるで殴られた痕だった。幻覚痕でもこうなることはあるが、それとは違うと分かるくらい腫れている。
「誰に、……、もしかしてユーサリーですか!?」
ジャロリーノは自慰をやめ、きゅうっと身体を丸めて顔を横に振った。
「見るな、……見るなよぉ……」
「手当てしますよ。……それと性欲が止まらないんですね。中和剤と睡眠薬です。これを飲めばすこし良くなります」
有無を言わせず薬を飲ませ、ジャロリーノの肩を抱いて第二寝室へ連れていった。
ゲストルームに使われるその部屋は、たまにアフタ・グロウが使うのでいつでも使えるようにしている。またおかしくなってるジャロリーノがいつもの寝室のベッドを乱れ荒らした際に、きれいに整え直すまで過ごさせる部屋でもある。
「一旦私が処理します」
身体を拭いてベッドに仰向けにさせて、オペラはジャロリーノの腫れ上がったぺニスを口で慰めた。
「な、なんで、」
と、ジャロリーノがなにかを言おうとしたが、口の中であっという間に弾けた。
「今、中和剤をもう一回飲んでください。オーバードーズになりますが、落ち着いてるときに飲めばこれがマックスの状態だと身体が勘違いしてくれます。気休めですが」
すぐに中和剤を渡し、質問させる隙を与えなかった。
それからオペラは持ち歩いている携帯ピルケースから、ピンク色の錠剤を一つ渡した。
「媚薬効果を相殺する肝臓炎の薬です。性奴隷御用達です。……性奴隷以外は絶対にこんな使い方しないですし、本来の使い方じゃないんですが、今回だけ。秘密ですよ。さ、早く飲んでください」
「……性奴隷…」
「知りませんでした? 私は、本職は性奴隷なんですよ。だからさっきの行為は正しい私の使い方です。あなたは奴隷を正しく使った。それだけのことです。また、ジャロリーノ様の肛門を慰めることも、私の肛門を使って性欲処理することも、やましいことは一切ない正しい用法です。さ、薬飲んだら、肛門に軟骨塗りますから、うつ伏せになって。早く」
早口で指示し、アナルの治療をする。
性器のメンテナンスにおいて性奴隷に勝るものはいない。
ジャロリーノは恥辱に震えてはいたが、それもすぐに解れたようだ。
「楽になりましたでしょう? カライキを繰り返すと中が意味なく緊張して苦しいんです。腸周りの筋肉をほぐしましたから、性的興奮なく身体が楽になるはずです」
指を抜き、さっぱり感のあるハーブウォーターで下半身を清拭し、さらっと感にかわる乳液で整えた。
「お腹がほかほかする……」
ふとジャロリーノが呟いた。
「さ、次はお顔の治療しますよ。……内出血用の薬を塗ってから、痛みを抑える湿布を張ります。氷嚢で冷やして、暫くしたら腫れは引きます。……グロウ家秘伝のお薬ですから、1日もすれば跡形もなく消えます」
ジャロリーノに服を着せながら説明をする。
どれだけ泣いたのだろう。目も真っ赤だ。
ジャロリーノはベッドに入り、大人しくしていた。
睡眠薬も効いてきたのか、うつらうつらしている。肝臓炎の薬も効いたみたいだ。こんな使い方をしているのは性奴隷だけで、本来は絶対にしてはならない使い方である。ご主人様のお相手をするために、ちゃんと感じるように、けして嫌がったりしないように、わざと媚薬を飲む。それを中和するための裏技だ。
そして性奴隷のお守りの一つだ。
ジャロリーノ様にも持たせるべきだろうか、などという考えが過った。
無理やり行為を強いられた時に飲む、性病を予防する薬。混乱を落ち着ける薬。酷く傷つけられたアナルに塗る薬。肛門から精液を流し出す薬。飲み込まされた精液を吐き出す薬。
いや、付き奴隷に持たせればいいだけの話だ。
余計な心配からジャロリーノ様の自尊心を傷つける必要はない。
ジャロリーノがコトリと眠りに落ちた。
オペラはその横顔に、ずれ落ちた氷嚢をそっと当てる。
唇も腫れている。口の中も切れているに違いない。
誰が殴ったのだろう。自分がいない間になにが起こったのだろう。
あの三人を問い詰めれば詳しくは分かるだろうが、聞かなければ深いところまで知らされることはないだろう。
まだ疎外されている立場だ。
単なる性奴隷ではなく、父王の性奴隷。
しかも年下。
今さら息子王に譲られるとなっても、あの輪には入れないだろう。
任された王子は、四番目のみ。
顧みられない王子のみ。
しかもその子もあまり懐いてくれなかった。
「……」
オペラは懐いてくれない四番目の額を撫でた。
今では王に相手にされないから王子に媚びを売っているなどと、下の奴隷達から言われている始末だ。
「……。いい加減レドベリィにまかせて、ネイプルス領で娼館でもやろうかなあ……」
そしたら、ジャロリーノ様用のペントハウスを最上階に作ろう。正気な時もおかしな時も、お好きなときに来て貰える娼館にしよう。
妄想はそれくらいにして、オペラは現れた気配の方向に目をやった。
「おはようございます、アフタ様」
「……ジャロリーノは……」
「今眠られたところです。……よろしければ、お願いがあるのですが」
「……俺に頼み事をするというのか?」
「はい。アフタ・グロウ王子殿下」
「……奴隷ごときが」
これでも格も位も王子に匹敵する立場ではある。
「これ、変わって貰えませんか」
「これ?」
「氷が溶けるまで、氷嚢で冷やしてあげてくださいませんか」
そう言うと、アフタは少しムッとしてから、
「分かった」
と小さく返事をしてベッドの横に椅子を持ってくると、ジャロリーノの枕元に座った。氷嚢を渡して、オペラはベッドから離れる。
するとすぐにアフタはジャロリーノの湿布の上に優しく氷嚢をのせた。
心配そうに、そして幸せそうに。
オペラはお辞儀をしてから部屋を出た。
下級奴隷達が寝室とバスルームを片付けている最中だった。彼らは少しだけ手を止めて、オペラに向かって最敬礼をする。
オペラ・ア・ネイプルス・オ・ネイプルスは目配せだけして、その場から離れた。
続く
チャコールは上司でもあるコフィ、クリーム、そして家令代行のレドベリィの前で片膝を付いていた。家令であるオペラは本日の昼から復帰する予定であるが、チャコールはその方には告げるつもりはなかった。
「ジャロリーノ様を思いっきりひっぱたきました」
「……」
「……」
「……」
無表情で告白すれば、雲の上の奴隷である三名は、やはり無表情で沈黙した。
最初に口を開いたのはクリームで、
「うーん、……主従関係に外部から口を挟むのは基本的にしないんだが、……何があった?」
と少しだけ気安く言ったのだが、コフィは
「場合によっては処罰は免れないぞ?」
と冷たく言い捨てた。
普段からは考え付かない冷え冷えとした声に、少しだけ恐怖を感じる。
「処罰は甘んじて受けます」
「謹慎程度では済まないことを念頭に置いているか?」
「はい」
降格、もしくはジャロリーノ第四王子付きから外され、ネイプルスからも追放されるかもしれないが、もう一度同じ場面になってもやはりひっぱたくだろう。むしろ殴らなかったことが奇跡であるし、二発目を堪えた己に驚いている。
「叩いてしまった理由は、単純に私が感情に振り回された未熟さのためです」
すると今度はレドベリィが言った。
「その懺悔のために、私たちを呼び出したのか?」
家令代行とは、身分として最上位に近い。本来であれば、チャコール程度では話しかけることも憚られる身分だ。
「ご報告する必要がある情報を得ました。出来るだけ周りに知られてはならない内容だと判断いたしましたので、無礼を承知でお集まりいただいた次第でございます」
「主従関係外に報告をする程の重要案件なんだな? 本来、主従間でのやり取りはどんなことでも口外しない。その禁忌を破るが、それでも良いのだな?」
主と付き奴隷の関係はそれ程までに密である。
犯罪はもとより、人殺しや反逆であっても口外厳禁であり、チャコールは十二分に承知していた。
「……、ジャロリーノ王子殿下とオーカー王太子殿下の関係性についてです」
「……それこそ口外してはならない内容なのでは?」
レドベリィが腕組みをする。
そうかもしれない、とチャコールは決意が揺れた。
だが、このままジャロリーノとオルカの関係が続くのはどうにかして阻止しなければならなかった。
「彼らの関係性には、とある契約が結ばれております。口約束だと思われます。……正式な契約では決してありえない契約だからです」
今度はコフィが言う。
「ジャロリーノ殿下が精霊を産む苗床になった話しかい? ならばすでに知り得ている内容だが?」
現に処理をすべく、仮の儀式をグロウ王と行った。
「……どのようにして、苗床となる事態になったかまで、ご存知でいらっしゃいますのでしょうか……?」
それを知っていてなにも問題にしていないとしたら、チャコールの腸は何万回煮えくりかえっても治まらない。
「……それは知り得ていない。あの時は人払いが徹底されていた。それこそ精霊でもなければ入り込めやしないだろうな」
「ジャロリーノ様は、決して……、……、……全うな手順で処女を失ったわけではありません」
男に対して処女という単語を用いるのはおかしいが、ことにジャロリーノにとっては重要な事柄だった。
男性との受け入れる側としての性交は、ジャロリーノの人生を構成する要素として、なくてはならない通過儀礼だった。
あの悲惨な事件を無かったことにし、やり直すための、重要な儀式だった。
処女なんてものはとうに破壊されている。
おかしな精神状態の時には、自分を含め何人もの男に抱かれているし、時には無理やり押し込まれてさえいるだろう。
けれど、正常な精神状態では経験は無かった。
まともでいられる時間が増え、同時に知らぬ間に作り上げられている性指向に怯えはじめ、気づいていなかった同性への恋心をも自覚した。
もはや異性愛者として生きることが難しい。
だからこそ、出来るだけ後悔のない初体験をさせてあげたかったし、そうあるべきだった。
やり直しをさせたかった。
相談してくれればきちんとセッティングした。
望む相手を連れてきたし、でなければ、より良い相手を探し出したし、手順を踏んでから相応しい場所を用意したのに。
ちゃんとした、誰からも羨まれる初体験を準備してやったのに!
「……、引き換えに差し出したのです」
なんとか絞り出した声は、掠れていた。
しかしそこからなかなか言葉が出てこなかった。
息もままならない。ただただ押し黙っていると、ため息と共にクリームが先を促した。
「何と何を?」
ケツと、奴隷を。
「処女と……」
「……」
「……オーカー付きの、奴隷です」
「……」
「……」
「……奴隷?」
と呟いたのはコフィだった。
「はい」
返事をすれば涙が込み上げてきた。
「あいつ、……、抱かせてくれたら奴隷を譲るって唆されて、カーテンの中で、……尻だけだして、ヤッたって……」
訪れた沈黙。
時が止まったかのような静寂。
コフィ、クリーム、レドベリィは目だけを動かし、それぞれの反応を見ていた。
沈痛としか言い様のない顔をそれぞれが浮かべていた。
「……いや、待て。待て待て待て、その奴隷ってまさかシンフォニー・ブラックスワンのことか?」
クリームが戸惑いながら言った。
チャコールは声がだせず、ただ頷いた。
「あいつなら、もうジャロリーノの物になるのは決まってるぞ!」
「……っ」
チャコールは唇を噛んだ。
「じゃあ、……ほんとにあいつは、ただのヤられ損だったんですか……?」
「……、」
「っ、」
「……」
「あいつ、王子のくせに、奴隷欲しさに奴隷の変わりになったんです」
「……代わりに……」
そう呟いたのはクリームだったが、続けたのはレドベリィだった。
「奴隷の役割を引き受けた、とかではないよな?」
「……あいつらの関係は、対等な王子同士ではないんです。主と奴隷の関係なんです……」
三人の奴隷達はまた押し黙った。
「あいつ……それを臆面なく言うし、……少し考えれば、いや考えなくたって、おかしいって分かるはずなのに、……、どうして……、」
どうして。
チャコールの頭にはそれしか浮かんで来なかった。
きっと恋人同士でもなく、指輪の関係でもない。
ご主人様と奴隷の関係性の中の、よりによって奴隷の場所にするり収まって、なんの疑問も抱いていないのだ。
つまり、とコフィが言った。
「つまり、ジャロリーノ様は、本来自分の物であるシンフォニー・ブラックスワンという奴隷を貰うために、オーカー王太子の言うがままに、求められるがままに性的な行為を受け入れた。それは……自らの意思なのか?」
重要であるとばかりに、コフィが聞き直す。
「唆されたとお前は言ったが、本当に唆されたと言って間違いないのか?」
「意思……かもしれませんが、しかし、でも! …………、自分が男に抱かれたい変態だとオルカは知ってた、……そう言ってました。……、抱かれたら……奴隷にも抱いて貰えるからと……そう言われたみたいです」
その事をチャコールにも言えと、自分にも伝えて抱いて貰えと言われたとは、さすがに口には出来なかった。
コフィが額を押さえている。
「……、性指向という弱味につけこんで強要したとも捉えることがで気はする、……。しかも、物で釣って。その物が、あたかも自分のものであるかのように偽って、か……」
「……、その奴隷の変わりに、精霊を産むと……。……多分産み続けることも了承してます。…………、か、代わりになるから、奴隷を貰うことを条件にしたのに、本来の所有者のスマルト王には、ちゃんと産めたかどうか分かるまでは会わせられないと……、……、」
「……色々まずいことやってるな、あのクソガキ」
「あいつ、……、ヤれる相手が増えてしかも本命の奴隷が貰えてラッキーくらいにしか考えてなかったんでしょうか……、」
「だとしたら、あんなに落ち込んではいないと思うよ?」
とクリームが言ったが、
「……あいつの価値観が、……もう、……、……思ってた以上に……、ダメで……、……、どうしたらいいのか……、まともでも、……、なんで、自分のことを平然と奴隷だなんて言えるんだ……、正気なのに。正気なのに!」
チャコールは耐えられなかった。
おかしくなってる時ならまだ耐えられる。けれど、正気でさえも、なにかが壊れたままだった。
うずくまるチャコールにコフィが声を投げつける。
「で、お前はどうするんだ? 私たちにそれを報告して、それで終わりか?」
「……」
「ただ泣きべそかくために呼び出したわけじゃないよなあ?」
「……、いえ。…………、どうか、…………報復を」
チャコールは顔を上げてコフィの目を見た。コフィがヒクッと唇の端を歪めたのが見えた。
「私の位と格では、ビスマス王家へ報復も糾弾も抗議すらまだできません。どうか、皆様のお力でジャロリーノ様への仕打ちに対する報復をしてはいただけませんでしょうか。それが無理ならば、……私が、……」
チャコールはふっと表情を消した
「オーカーを殺しに行ってもよろしいですか?」
殺す。
オーカー・ビスマス。
殺す。
三名の奴隷は息を飲んだ。
これは本当に殺しに行く。三人とも直感した。
そしてそれが可能な程に、この奴隷にはその実力と技術があることに震えた。
「……正式にビスマス王家に抗議をしよう。ユーサリー・グロウから話しを通してもらうよう要請するので、無断で実行をしないように」
家令代行のレドベリィが言った。
「なぜユーサリー・グロウ王陛下が? ジャロリーノを正式に公妾になさるのですか?」
「……、ジョーヌ・ブリアン・ネイプルス王が不在の場合、ユーサリー・グロウ王がネイプルス王家の指揮をとることになっている」
「わかりました。……抗議による進捗は、私にきちんと知らせてくださいますか? でなければ、抗議なされなかったと判断し、私自身で決着をつけに参ります」
「進捗はお前にも伝えよう。また、結果はジャロリーノ殿下にもお伝えすることも約束しよう。そもそも、私たちもジャロリーノ様が苗床になることには承服しかねるのでね、抗議するつもりで動いていたんだ」
「承知いたしました。……なるべく早く、教えて下るよう、お願いいたします」
「……、情報の提供を感謝しよう。材料が足りなかったから助かったよ」
「……勿体無いお言葉です、閣下」
そしてチャコールは背筋を伸ばしてから、再度頭を下げた。
「……つきましては、私に罰をお与えください」
「罰? ……ああ、主人を叩いたことへの罰のことか」
「はい」
「……そうだな。……、どうしようか」
三人の奴隷は顔を見合わせる。
三名は、この若い奴隷が王家への抗議と契約の撤回と正式な謝罪を求めると意見してくるかと踏んでいた。が、そんな考えを軽く飛び越えて報復を望んでいたので、若干の恐怖を禁じ得なかった。
下手に手綱を緩めたら衝動のままに王太子暗殺を決行するかも知れなかった。
降格、謹慎、ましてや左遷といった、時間と隙を与えてはならない。
禁固刑にでもしてやろうかとさえ思った。
もしくは飼い主の側から離れないようにしてしまうか。
そして、思い付いたようにクリームが言った。
「今回は喧嘩両成敗方式でいこう。なんかスッキリしない案件だしね。どう?」
聞かれてレドベリィが答えた。
「確かに、どんな罰を与えれば適当か悩むところだからな」
そしてコフィが少しだけ砕けた調子に戻って続ける。
「つまり、同じ場所を殴らせるということか?」
「そうだとも」
「名案だ」
少なくとも自分たちの監視下に置けるし、傷つけられたかわいそうなご主人様の側からしばらくは離れないだろうから、勝手に王宮に忍び込んだりはしないはずである。
そうだと信じたい。
しかしながら、コフィは肩をすくめた。
「あー、けどそれだと甘過ぎじゃないか? ジャロリーノ様は殴れと言ってもきっと自分の後ろめたさや落ち度とか考えて、殴りたくないとか言いそうだ。例え殴ったとしても手加減するだろうね。……第一あの細腕じゃ、本気で殴ってもたかが知れてる」
クリームが呆れたようにニヤリと笑う。
「なに言ってるんだ? ジャロリーノ様に殴っていただこうだなんて言うはずがないだろう? 不公平だろ。ジャロリーノ様に対して、チャコールの体格差と筋力差がどれだけあるか分からないわけじゃない。……だから、似たような差のある奴に殴らせるんだよ」
「似たような」
「差……」
数分後、刑は執行された。
チャコールはメイズに全力で殴られた。
さて、朝の6時になる少し前、ネイプルス城に一台の車がやってきた。車から降りたのはネイプルス城家令のオペラである。黒いロングコートの裾をはばたかせ、出迎えのない玄関からするりと中に入った。
城内は暗く、冷えていた。
しかし少し歩けば明かりが灯る通路や部屋があり、普段は表に出てこない下級使用人たちが忙しそうにしている。
下級使用人は主の前に出ることは不敬とされ、仕事は深夜や早朝に行うことが多かった。
オペラは気配を消して奴隷専用の天井裏部屋を移動し、彼らの様子を伺った。
掃除係達のようだ。
「ね、さっきというかちょっと前に珍しいもの見ちゃった」
ひそひそ、そして可笑しそうに囁く女の声。なになに? と聞き返す複数の声。
「ジャロリーノ王子がパジャマで徘徊してたの」
その言葉にオペラは一瞬凍りついた。
「へー、どう? やっぱりおかしい感じ?」
「裸じゃなかったんだ?」
「兵士を誘ったりしてたんじゃないの? そっちの趣味なんでしょ?」
「おかしい感じだった。おかしい、おかしい」
きゃははは、と甲高い笑い声がする。
「裸じゃなかったんだけどね、パジャマの……あそこ、……膨らんでた」
「あそこ?」
「膨らんで? なになに、それ」
「だからー、……立たせてたの。あはは、やだー」
「うそでしょー? やだー」
「それで徘徊してたの? 最悪じゃない?」
「やっぱり兵士にやらしいことさせにいったんだ、いやー!」
クスクス、きゃははは、
「そんな王子様に仕えるなんて嫌だよね」
「早く地下のお部屋に幽閉しちゃえばいいのに」
「気色悪いし、こう言ってはなんだけどさ、恥だよね」
「ほんとほんと。……でもさ、……貴族って、そーゆーのが好きなんでしょ?」
「気持ち悪いー。そう考えると、貴族に生まれなくて良かった」
「あんなのがお好きなのかしら」
「ねー、だって……あそこ……立たせながら徘徊するんでしょ?」
クスクス、クスクス、
「最悪ー」
「他のお城でもこんなことあるのかな」
ひそひそ、クスクス、
遠ざかってゆく下級使用人たち。
オペラは苦い思いで今の情報を反芻していた。下級使用人たちを処罰するのは後だ。仕事に戻る前に仮眠をとろうと思っていたが、そんなことよりもジャロリーノ様の様子を確認するのが先だ。
チャコールは夜の従事から外しているとは聞いていたので、今のジャロリーノ様は無防備に違いない。
本当に兵士と性的行為に及んでいたら大変だ。
しかし、幸いなことにジャロリーノは自身の部屋にいた。
部屋の中、寝室には幾つかランプが灯り、暗くはあるが歩くことはできる。その先のバスルームにつながる扉の隙間からより強い明かりが漏れていた。
シャワーの音はしないが、水音はする。
洗面台でお顔でも洗っているのだろうか。
「ジャロリーノ様? オペラです。おはようございます」
返事はない。
「失礼しますね」
扉を開けると、広い洗面室と脱衣室の床にビショビショの大量のリネンがくしゃりと置かれ、その中に立ち、ジャロリーノが裸の状態で洗面台で布を洗っていた。
「……ジャロリーノ様……?」
この異様さは、初めてだ。
なにが起こってるんだ。
「な、なにをされてるんです……?」
ジャロリーノはうつむいたまま、パシャパシャと音を立てながら洗い物を続けている。
「……汚れたから……」
「……そのようなことは私どもがしますから……」
やめさせようと手を伸ばすと、
「触るな!」
と、思いがけず鋭い声で命令された。
「汚いから……触るな……」
床にくしゃくしゃビショビショに置かれているのはシーツ、タオル、枕カバー、クッションカバー。
そしてパジャマと、下着。
今洗っているのは、タオル地の風呂上がりよく着ているガウンだ。
ジャロリーノの髪が濡れている。
シャワーを浴び、そして着るはずのガウンを洗っている。
「ジャロリーノ様、やめましょう」
ジャロリーノから返事はなく、ガウンを洗い続けようとする。
「やめてください」
強めに言うと、やっと手を止めた。
「なんでこんなことしてるんです?」
「……汚れたから」
沈んだ声が返ってきた。
「汚れたって……。なにか溢したんですか? しかも裸で……。暖房が効いてますが、裸だと流石に寒いですよ。新しくガウンをお持ちしますから、……もう一度シャワーを浴び直してきてください」
「……、……、……、服、着たら……また汚す……。また洗わなきゃ」
これは、以前にも何度かあった、自分の汚さを感じて潔癖になる状態だろうか。
「汚くなんてありませんよ」
と慰めようとすると、
「汚したんだ……、」
といきなり踞った。
「止まらないんだよ、……、何回、出しても、止まらなくて、ベッドでも、……シャワーでも、……スッキリしたはずなのに、ガウン着たらまた、……、」
なにを言ってるのか分からないが、分かってしまった。
さっきの下級使用人達の会話が脳裏を掠めていく。
そしてジャロリーノは逃げるようにシャワーに走ってゆく。
そして頭からシャワーをかぶり、床にしゃがみこんでなにかをし始める。
チャコールは一瞬だけ目をぎゅっと瞑ってから、ゆっくりを目を開けた。
鳴き声とも泣き声ともつかない微かな声がシャワー音の隙間から耳に届いた。
一旦寝室に戻り、明かりをつけてからぐるりと見渡す。荒らされたベッドは一旦スルーし、別部屋に続く扉を見る。そこは際側近が使う寝室で、第一付き奴隷が主に使う。
これまで主不在だったが、今はチャコールという主がいるはずだ。だが、チャコールは滅多にこの部屋は使わず、上にある奴隷の空間に用意された自室を使っている。
「……」
この部屋にいれば、主たるジャロリーノの異変に気づいたであろう。こうやって主を放置しているということは、自室で休んでいるに違いない。
オペラはその部屋をノックもせずに開けた。案の定無人だった。
だが以前と比べて生活感がある。クローゼットにはネイプルス城の下級付き奴隷の制服が十着入っており、装飾品もきれいに並べられていた。
付き奴隷としてのやる気はちゃんとあるようではある。
デスクにはジャロリーノのスケジュールや、勉強の進み具合、体調の変化や観察メモがびっしりと書かれた表が置いてあるし、アロマやハーブティの調合研究ノートが開かれたまま放置してあった。ジャロリーノの精神状態にあわせて香り成分を変えているらしかった。
服用する薬との禁忌の香りの研究もしているらしい。
良かった、真剣に主のことを考えている。
安堵はしたものの、責任放棄気味であるのは許せることではない。
しかし今重要なのはそこではない。
薬品棚を開けた。
そこにはジャロリーノに処方されている数々の薬品がしまわれている。
開けば、
「………………」
今は使用していないはずの薬たちがあった。媚薬の中和剤に、精力減退剤、睡眠薬。
精力減退剤は毒にもなる。下手に使えば精子がつくられなくなる危険な薬だ。幸いまだ使われていないようだが、これがあるということは、現在のジャロリーノは性欲異常状態で、原因は強い媚薬。中毒になっているのだろう。
どうしてこうなったかは報告書を読まなくてはわからないが、今はジャロリーノをどうにかしてあげなければ。
あの方は今、正気だ。
正気でアレは辛いだろう。
中和剤と睡眠薬を手にバスルームに向かった。
ジャロリーノはまだシャワー室で踞り、泣きながら自慰に勤しんでいる。ぺニスは腫れたかのように赤くふくれ、指を抜き差ししている肛門は縁が捲れて痛々しかった。
もはや気持ちよさなど無いだろうに。
しかし生まれ続ける性欲を発散させるためにはするしかないのだ。
「ジャロリーノ様、……」
そして顔を覗き込んで、息を飲んだ。
「どうしたんですか、その顔!」
顔の左が赤黒く腫れ上がっていた。
まるで殴られた痕だった。幻覚痕でもこうなることはあるが、それとは違うと分かるくらい腫れている。
「誰に、……、もしかしてユーサリーですか!?」
ジャロリーノは自慰をやめ、きゅうっと身体を丸めて顔を横に振った。
「見るな、……見るなよぉ……」
「手当てしますよ。……それと性欲が止まらないんですね。中和剤と睡眠薬です。これを飲めばすこし良くなります」
有無を言わせず薬を飲ませ、ジャロリーノの肩を抱いて第二寝室へ連れていった。
ゲストルームに使われるその部屋は、たまにアフタ・グロウが使うのでいつでも使えるようにしている。またおかしくなってるジャロリーノがいつもの寝室のベッドを乱れ荒らした際に、きれいに整え直すまで過ごさせる部屋でもある。
「一旦私が処理します」
身体を拭いてベッドに仰向けにさせて、オペラはジャロリーノの腫れ上がったぺニスを口で慰めた。
「な、なんで、」
と、ジャロリーノがなにかを言おうとしたが、口の中であっという間に弾けた。
「今、中和剤をもう一回飲んでください。オーバードーズになりますが、落ち着いてるときに飲めばこれがマックスの状態だと身体が勘違いしてくれます。気休めですが」
すぐに中和剤を渡し、質問させる隙を与えなかった。
それからオペラは持ち歩いている携帯ピルケースから、ピンク色の錠剤を一つ渡した。
「媚薬効果を相殺する肝臓炎の薬です。性奴隷御用達です。……性奴隷以外は絶対にこんな使い方しないですし、本来の使い方じゃないんですが、今回だけ。秘密ですよ。さ、早く飲んでください」
「……性奴隷…」
「知りませんでした? 私は、本職は性奴隷なんですよ。だからさっきの行為は正しい私の使い方です。あなたは奴隷を正しく使った。それだけのことです。また、ジャロリーノ様の肛門を慰めることも、私の肛門を使って性欲処理することも、やましいことは一切ない正しい用法です。さ、薬飲んだら、肛門に軟骨塗りますから、うつ伏せになって。早く」
早口で指示し、アナルの治療をする。
性器のメンテナンスにおいて性奴隷に勝るものはいない。
ジャロリーノは恥辱に震えてはいたが、それもすぐに解れたようだ。
「楽になりましたでしょう? カライキを繰り返すと中が意味なく緊張して苦しいんです。腸周りの筋肉をほぐしましたから、性的興奮なく身体が楽になるはずです」
指を抜き、さっぱり感のあるハーブウォーターで下半身を清拭し、さらっと感にかわる乳液で整えた。
「お腹がほかほかする……」
ふとジャロリーノが呟いた。
「さ、次はお顔の治療しますよ。……内出血用の薬を塗ってから、痛みを抑える湿布を張ります。氷嚢で冷やして、暫くしたら腫れは引きます。……グロウ家秘伝のお薬ですから、1日もすれば跡形もなく消えます」
ジャロリーノに服を着せながら説明をする。
どれだけ泣いたのだろう。目も真っ赤だ。
ジャロリーノはベッドに入り、大人しくしていた。
睡眠薬も効いてきたのか、うつらうつらしている。肝臓炎の薬も効いたみたいだ。こんな使い方をしているのは性奴隷だけで、本来は絶対にしてはならない使い方である。ご主人様のお相手をするために、ちゃんと感じるように、けして嫌がったりしないように、わざと媚薬を飲む。それを中和するための裏技だ。
そして性奴隷のお守りの一つだ。
ジャロリーノ様にも持たせるべきだろうか、などという考えが過った。
無理やり行為を強いられた時に飲む、性病を予防する薬。混乱を落ち着ける薬。酷く傷つけられたアナルに塗る薬。肛門から精液を流し出す薬。飲み込まされた精液を吐き出す薬。
いや、付き奴隷に持たせればいいだけの話だ。
余計な心配からジャロリーノ様の自尊心を傷つける必要はない。
ジャロリーノがコトリと眠りに落ちた。
オペラはその横顔に、ずれ落ちた氷嚢をそっと当てる。
唇も腫れている。口の中も切れているに違いない。
誰が殴ったのだろう。自分がいない間になにが起こったのだろう。
あの三人を問い詰めれば詳しくは分かるだろうが、聞かなければ深いところまで知らされることはないだろう。
まだ疎外されている立場だ。
単なる性奴隷ではなく、父王の性奴隷。
しかも年下。
今さら息子王に譲られるとなっても、あの輪には入れないだろう。
任された王子は、四番目のみ。
顧みられない王子のみ。
しかもその子もあまり懐いてくれなかった。
「……」
オペラは懐いてくれない四番目の額を撫でた。
今では王に相手にされないから王子に媚びを売っているなどと、下の奴隷達から言われている始末だ。
「……。いい加減レドベリィにまかせて、ネイプルス領で娼館でもやろうかなあ……」
そしたら、ジャロリーノ様用のペントハウスを最上階に作ろう。正気な時もおかしな時も、お好きなときに来て貰える娼館にしよう。
妄想はそれくらいにして、オペラは現れた気配の方向に目をやった。
「おはようございます、アフタ様」
「……ジャロリーノは……」
「今眠られたところです。……よろしければ、お願いがあるのですが」
「……俺に頼み事をするというのか?」
「はい。アフタ・グロウ王子殿下」
「……奴隷ごときが」
これでも格も位も王子に匹敵する立場ではある。
「これ、変わって貰えませんか」
「これ?」
「氷が溶けるまで、氷嚢で冷やしてあげてくださいませんか」
そう言うと、アフタは少しムッとしてから、
「分かった」
と小さく返事をしてベッドの横に椅子を持ってくると、ジャロリーノの枕元に座った。氷嚢を渡して、オペラはベッドから離れる。
するとすぐにアフタはジャロリーノの湿布の上に優しく氷嚢をのせた。
心配そうに、そして幸せそうに。
オペラはお辞儀をしてから部屋を出た。
下級奴隷達が寝室とバスルームを片付けている最中だった。彼らは少しだけ手を止めて、オペラに向かって最敬礼をする。
オペラ・ア・ネイプルス・オ・ネイプルスは目配せだけして、その場から離れた。
続く
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