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空白の名前

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 2階の保健センターにつくと、1階よりは混沌としていないものの、人が大勢いることに変わりはなかった。受付には若い女性の事務員が座っており、笑顔で対応しているのが見え、薫子の胸に安堵が広がる。先ほどの男の視線を思い出し、薫子は身を震わせた。

 1時間程待たされ、ようやく自分の番号が呼ばれた。

「あの......母子手帳を受け取りに来たんですが......」

 明らさまな好奇心は見せないものの、やはり目は一瞬だがお腹と薫子の顔を見つめた後、笑顔で対応する。

「妊娠届出書はお持ちですか」
「あ......持ってないです」

 事務員がデスクにある棚から書類を1枚出すと、薫子に手渡した。

「では、こちらの紙にご記入ください」

 薫子は、氏名、生年月日、住所と書き進め、次の段へと移った途端、手が止まってしまった。そこには、夫の氏名とあったからだ。

 婚約を破棄し、櫻井の家を出ても未だ、私は悠に会えずにいる。悠は......私が妊娠していることを、知らない。
 私はここに......悠の名前を書くことは、出来ないんだ。

 薫子は唇を噛み締めると、そこを見ないようにして他の欄を記入した。

 事務員は受け取った記載事項に間違いがないか確認するため書面に視線を落とした後、ふと何かに気づいて薫子を見上げた。

「夫の氏名欄が空白になっていますが......」

 事務員に言われ、薫子は蒼白になりつつも、なんとか震える声で説明した。

「未婚、なので......」

 もう、何も聞かないで......

 そう祈る薫子だったが、事務員は質問を続けた。

「籍を入れていなくても、事実婚であれば氏名を記載することは出来ますが......」

 事実、婚。婚姻届を出していなくても、事実上婚姻状態にある男女の関係、いわゆる「内縁関係」にあることを指す言葉。
 けれど、私は......

「いえ......それも、ない......です」

 それですら、ない。

 事務員は薫子の答えを確認すると、何事もなかったかのように「分かりました」と書面に顔を戻した。だが、薫子はここにいることが居た堪れなかった。

「では、こちらが母子手帳ですね。それと、こちらの『妊婦健康診査受診票』を健診の際に出すと、費用の一部が補助されます。チケットは全部で14枚あります。再交付はしませんので、失くさないように気をつけてくださいね」
「ありがとう、ございます......」

 可愛い赤ちゃんのイラストが載った母子手帳と共にチケットを受け取り、薫子は健康センターを後にした。
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