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291.母への違和感
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年季の入った畳の上にぺたんと膝を折り曲げ、美羽は座り込んだ。
この気持ちは、なんだろう……
安堵していいはずなのに、未だ不安がべっとりと血糊のように付き纏っている。
先ほど両親の部屋を訪ねた美羽と隼斗は、母、そして義父に不気味なほど満面の笑みで迎えられた。
幹部に昇進した両親は夏に訪れた時とは違い、個室を与えられていた。6畳一間に二人暮らしは、8畳の部屋をそれぞれ使っていた昔の家より窮屈に思えたが、それでも以前の2夫婦との共同部屋よりずっと快適だろう。
高級家具を置き、絵や美術品、ブランド品を並べて華美に部屋を飾るのが華江の常だったが、この部屋はがらんとしていて何も置かれていなかった。
剥き出しになった畳は毛羽立っていて、腰を下ろすと作務衣から伸びている膝下から足にかけてチクチクする。
壁は薄汚れ、部屋全体が湿っぽい空気に満ちていた。TVもソファもベッドもなければ、タンスすらない。天井からぶら下がっている笠をつけた電球の光は部屋全体まで届いておらず、薄暗い。そう、この部屋には窓もないのだ。
だが、窓がないお陰で冷たい空気が入って来ず、寒くはあるけれど、なんとかヒーターなしでも過ごすことが出来た。
唯一あるのは、壁に掛けられた時計のみだった。
まるで、刑務所の雑居房みたい。
それが、部屋に入った美羽の印象だった。
シンプルというよりは空虚で無機質な空間が、より『修行の場』であることを感じさせ、美羽を不安な気持ちに掻き立てる。
だが、それはこの部屋の雰囲気のせいというより、寧ろ彼らの態度に不安の根源があった。こんなに機嫌が良い姿を見るなど思いもしていなかった美羽は、面食らうと同時に、恐ろしくなる。
もしかしたら、もうお母さんに類のことを知られているんじゃ……
悪い予感が瞬く間に頭を過ぎり、挨拶の言葉すら喉が蛇となって舌に絡みつき、出てこない。
いつ類の話をされるのかと内心ビクビクしていた美羽だったが、華江は美羽といる間、最後まで類の名を口に出すことなく、心配は杞憂に終わった。
思えば、今年の夏も去年の正月に訪れた時にも、類について尋ねられることはなかった。美羽が義昭と結婚して何事もなく数年が経ち、すっかり安心しているのだろう。
実は類が日本にいて、一緒に暮らしているなど夢にも思わずに。
もう華江の中では、類は存在すらしていない人物として記憶から葬り去られたのかもしれない。
「ねぇ、義昭さんがいないけどどうして?」
華江に聞かれ、美羽のみぞおちがキュウッと痛くなった。
「実、は……お義母さんの体調が急に悪くなって、付き添うことになったの」
琴子には夫もいるし、娘夫婦に頼ることも出来る。そう言われれば、答えに窮してしまう。
「あら、そう。あの人、弱そうだものね。もしかしたら、何かあるのかもしれないわね。
そうだ! 先生に相談してみたらいいんじゃないかしら? 先生なら、琴子さんがどうして体調が悪くなるのか、突き止めてくださるわ」
義昭の不在など気にすることなく、すぐに高槻の話題へとすり替わった。今までの華江であれば、こんな大事な行事に義理とはいえ自分の家族が欠席するなどありえないと、烈火のごとく怒り出していただろう。
華江は夢見るようなうっとりとした目つきで、高槻について語り出した。
「先生はやはり凄い方だわ。私、ここに来て改めて先生がどれだけ偉大な方か感じているの。
特に最近の先生は、ますます神秘な力が満ちていて、それを私たちにも感じさせてくださるのよ、ふふふ」
興奮を隠そうともせず鼻息を荒くする華江は、相当高槻に心酔していることが窺えた。
「あなた達もここに住めば分かるわ。美羽、義昭さんの会社はこっちにはないの? 出家できなくても、同じ県内なら週末毎に通うこともできるのよ」
華江がじりじりとにじり寄り、美羽の背筋が真っ直ぐに張り詰める。
「よ、義昭さんは本社採用だから……支社で働くことは、ないと思う。それに、義昭さんのご両親のこともあるし」
「あら、だったらあなただけでもこっちに住んで、週末毎に義昭さんのところに通うことだってできるんじゃない? ほら、週末婚って言葉もあるし、その方がうまくいくって話も聞くわよ。子供ができれば、またその時に考えればいいんだし」
結婚して義昭と暮らし、美羽を出家信者にさせることは諦めたかと思っていた華江だったが、またその思いが再燃したようだ。
どうしよう……こうなったら、お母さんは私がどんな言い訳しようとも聞いてくれないから。なんて言ったら穏便に断れるだろう。
「出来るわけないだろう」
空気がピリッと震える。こんな時、隼斗の存在は心強い。
「ふたりは夫婦なんだ。どうして離れて暮らす必要がある?
それに、美羽は俺のカフェにとっても大事な従業員であるし、辞められたら困る。勝手に決めないでくれ」
隼斗に一喝され、華江は不満げな表情を浮かべた。
「そ、そういう方法もあるって提案しただけでしょ! 何も、今すぐだなんて言ってないわよ」
「今すぐじゃなくても、未来永劫そんなことはありえない。
俺たちがここに来るだけでも、大変なことなんだ。美羽は本来なら義昭さんの家に嫁に行った立場で、盆や三が日に呼び出すことの方がそもそもおかしいんだ」
「なっ……!!」
正論をぶつけられ、華江は悔しいながら反論できず、隼斗を睨みつけた。
「ま、まぁふたりとも元気そうでなによりだ」
気まずくなった空気を取り成すように拓斗がおろおろと声をあげ、美羽もそれに同調した。
「お母さんとお義父さんも、元気そうで良かった。それじゃ、私たちはこれで……」
この機会を逃すことがないよう、美羽は立ち上がった。
そそくさとその場を離れた美羽だったが、胃に異物を詰め込まれたような違和感がズシリと重く残った。
この気持ちは、なんだろう……
安堵していいはずなのに、未だ不安がべっとりと血糊のように付き纏っている。
先ほど両親の部屋を訪ねた美羽と隼斗は、母、そして義父に不気味なほど満面の笑みで迎えられた。
幹部に昇進した両親は夏に訪れた時とは違い、個室を与えられていた。6畳一間に二人暮らしは、8畳の部屋をそれぞれ使っていた昔の家より窮屈に思えたが、それでも以前の2夫婦との共同部屋よりずっと快適だろう。
高級家具を置き、絵や美術品、ブランド品を並べて華美に部屋を飾るのが華江の常だったが、この部屋はがらんとしていて何も置かれていなかった。
剥き出しになった畳は毛羽立っていて、腰を下ろすと作務衣から伸びている膝下から足にかけてチクチクする。
壁は薄汚れ、部屋全体が湿っぽい空気に満ちていた。TVもソファもベッドもなければ、タンスすらない。天井からぶら下がっている笠をつけた電球の光は部屋全体まで届いておらず、薄暗い。そう、この部屋には窓もないのだ。
だが、窓がないお陰で冷たい空気が入って来ず、寒くはあるけれど、なんとかヒーターなしでも過ごすことが出来た。
唯一あるのは、壁に掛けられた時計のみだった。
まるで、刑務所の雑居房みたい。
それが、部屋に入った美羽の印象だった。
シンプルというよりは空虚で無機質な空間が、より『修行の場』であることを感じさせ、美羽を不安な気持ちに掻き立てる。
だが、それはこの部屋の雰囲気のせいというより、寧ろ彼らの態度に不安の根源があった。こんなに機嫌が良い姿を見るなど思いもしていなかった美羽は、面食らうと同時に、恐ろしくなる。
もしかしたら、もうお母さんに類のことを知られているんじゃ……
悪い予感が瞬く間に頭を過ぎり、挨拶の言葉すら喉が蛇となって舌に絡みつき、出てこない。
いつ類の話をされるのかと内心ビクビクしていた美羽だったが、華江は美羽といる間、最後まで類の名を口に出すことなく、心配は杞憂に終わった。
思えば、今年の夏も去年の正月に訪れた時にも、類について尋ねられることはなかった。美羽が義昭と結婚して何事もなく数年が経ち、すっかり安心しているのだろう。
実は類が日本にいて、一緒に暮らしているなど夢にも思わずに。
もう華江の中では、類は存在すらしていない人物として記憶から葬り去られたのかもしれない。
「ねぇ、義昭さんがいないけどどうして?」
華江に聞かれ、美羽のみぞおちがキュウッと痛くなった。
「実、は……お義母さんの体調が急に悪くなって、付き添うことになったの」
琴子には夫もいるし、娘夫婦に頼ることも出来る。そう言われれば、答えに窮してしまう。
「あら、そう。あの人、弱そうだものね。もしかしたら、何かあるのかもしれないわね。
そうだ! 先生に相談してみたらいいんじゃないかしら? 先生なら、琴子さんがどうして体調が悪くなるのか、突き止めてくださるわ」
義昭の不在など気にすることなく、すぐに高槻の話題へとすり替わった。今までの華江であれば、こんな大事な行事に義理とはいえ自分の家族が欠席するなどありえないと、烈火のごとく怒り出していただろう。
華江は夢見るようなうっとりとした目つきで、高槻について語り出した。
「先生はやはり凄い方だわ。私、ここに来て改めて先生がどれだけ偉大な方か感じているの。
特に最近の先生は、ますます神秘な力が満ちていて、それを私たちにも感じさせてくださるのよ、ふふふ」
興奮を隠そうともせず鼻息を荒くする華江は、相当高槻に心酔していることが窺えた。
「あなた達もここに住めば分かるわ。美羽、義昭さんの会社はこっちにはないの? 出家できなくても、同じ県内なら週末毎に通うこともできるのよ」
華江がじりじりとにじり寄り、美羽の背筋が真っ直ぐに張り詰める。
「よ、義昭さんは本社採用だから……支社で働くことは、ないと思う。それに、義昭さんのご両親のこともあるし」
「あら、だったらあなただけでもこっちに住んで、週末毎に義昭さんのところに通うことだってできるんじゃない? ほら、週末婚って言葉もあるし、その方がうまくいくって話も聞くわよ。子供ができれば、またその時に考えればいいんだし」
結婚して義昭と暮らし、美羽を出家信者にさせることは諦めたかと思っていた華江だったが、またその思いが再燃したようだ。
どうしよう……こうなったら、お母さんは私がどんな言い訳しようとも聞いてくれないから。なんて言ったら穏便に断れるだろう。
「出来るわけないだろう」
空気がピリッと震える。こんな時、隼斗の存在は心強い。
「ふたりは夫婦なんだ。どうして離れて暮らす必要がある?
それに、美羽は俺のカフェにとっても大事な従業員であるし、辞められたら困る。勝手に決めないでくれ」
隼斗に一喝され、華江は不満げな表情を浮かべた。
「そ、そういう方法もあるって提案しただけでしょ! 何も、今すぐだなんて言ってないわよ」
「今すぐじゃなくても、未来永劫そんなことはありえない。
俺たちがここに来るだけでも、大変なことなんだ。美羽は本来なら義昭さんの家に嫁に行った立場で、盆や三が日に呼び出すことの方がそもそもおかしいんだ」
「なっ……!!」
正論をぶつけられ、華江は悔しいながら反論できず、隼斗を睨みつけた。
「ま、まぁふたりとも元気そうでなによりだ」
気まずくなった空気を取り成すように拓斗がおろおろと声をあげ、美羽もそれに同調した。
「お母さんとお義父さんも、元気そうで良かった。それじゃ、私たちはこれで……」
この機会を逃すことがないよう、美羽は立ち上がった。
そそくさとその場を離れた美羽だったが、胃に異物を詰め込まれたような違和感がズシリと重く残った。
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