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桃源郷
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別荘地よりももっと人里離れた山奥にある平屋造りのログハウスは、本当に世界にふたりきり残されたのではないかと思えるような雰囲気だった。
階段を上って小さなポーチの先にある玄関の扉を開けると、長い間放置されていたことを示すように、埃っぽい匂いが鼻をついた。外にいるのと変わらないぐらいの冷たさが、布を通して肌の奥にまで染み込んでくる。
秀一が玄関脇にあるスイッチを押すと、白色灯に照らされた温かみのあるオレンジ味を帯びたログハウスが照らし出され、ようやく美姫はホッとした心持ちになった。
玄関を入ってすぐにリビングダイニングがあり、ダイニングテーブルの側には薪ストーブが備え付けてある。その奥にはオープンスペースのキッチンが小さな冷蔵庫と共にこじんまりとあった。
向かって右手側が洗面所と浴室。反対側には扉が2つあったが閉まっているため、何の部屋かは分からない。
テレビも、ラジオすらない。スマホの電波は圏外になっており、電話も引いていない。
世間から隔離された小さな箱庭。
だが、電気と水道、ガスは引かれており、生活に困ることはなかった。
今朝起きた時には秀一のマンションの自宅にいたのに......それが今は、この見慣れない景色に囲まれている。
「今日からここが、私たちの住処ですよ」
秀一に言われて頷いたものの、美姫はまだ現実感を伴うことが出来ずにいた。
秀一がセントラルヒーティングをつけ、また玄関へと引き返す。
「私は、車の荷物を取りに行ってきます」
「あ、私も手伝います」
手分けして全ての荷物を運び終え、小さな冷蔵庫に大量の食料品をなんとか押し込むようにして入れた。
秀一はこれまでの生活で、自炊をした経験がない。美姫は家政婦の佐和から基本的な料理については習っていたし、寮暮らしをするうちに洗濯や掃除などもこなすようになった。だが、秀一のマンションにいた時は食事の支度は全て家政婦がしてくれていたし、外食がメインだったので料理だけでなく、家事を秀一に対して施す機会はなかった。
これからは、私が秀一さんの食事を準備したり、家事をすることになるんだ。
そう思うと、美姫は少し心が浮き立つのを覚えた。
世間から逃亡するため、辿り着いたこの地で始まる新たな生活。ここに辿り着くまでは不安で仕方なかったものの、ログハウスに着き、食料品などを運んでいるうちに、不思議とその不安は小さくなっていった。それは、美姫がこの状況をまだ現実として受け入れられていない為ということはもちろんある。
だがそれにも勝る理由。
それは、愛する人---秀一が、これからずっと自分の傍にいてくれるのだという高揚感だった。
ずっと望んでいた、ふたりだけの世界。
それが今、こうして思わぬ形で手に入ったのだと思うと、複雑な思いではあるものの、ある種の幸福感も美姫の胸の中に芽生えていた。
続いてスーツケースを持ってくると、秀一が閉まっていた扉の1つを開けた。
「こちらに荷物を置いて下さい」
そこは、クイーンサイズのベッドが置いてあるだけのシンプルなベッドルームだった。ベッドだけで部屋の殆どの面積が埋め尽くされ、他にはクローゼットがあるだけだ。今までのベッドルームの8分の1程の広さであることが、この空間をより狭く感じさせてしまう。
「美姫に不自由な思いをさせてしまい、申し訳ありません」
その声に、暫く呆然としていた美姫はハッとした。
「いえ、とんでもないです。大学の寮の部屋から比べたら、キッチンもダイニングもあるし、贅沢なぐらいです」
そう言って、微笑んだ。
荷物の整理を終えた美姫は、気になっていたもう一方の扉を開けた。
「わぁっ! 秀一さん、ここでもピアノが弾けますね!」
埃をかぶっているものの、重厚で立派なグランドピアノが部屋の真ん中に置かれていた。両側の壁には書棚が並び、右手は楽譜やスコア、音楽書が並べられ、左手にはレコード盤を含むオーディオが埋め込まれ、その下にずらりとレコードやCDが並んでいた。
秀一はピアノの練習のためにこのログハウスを購入したのだから、ピアノがあるのは当然だったと、美姫は興奮して思わず声を上げた自分に恥ずかしくなった。
秀一はピアノに近づくと指で鍵盤蓋を上げ、ベルベットの赤い布を捲った。細く長い人差し指が鍵盤の一つを弾く。
ポーン、と音が鳴った。
だが、その響きはなんとなく異質な感じがした。
「このピアノは長い間調律されていないので、とてもじゃないけれど弾けませんね」
そうだ、だから違和感を感じたんだ。
秀一に言われて、美姫は気づいた。
ピアノは調律しないと年月が経つにつれて音がだんだんずれてくる。通常であれば年に1回ないし、2回。毎日何時間も弾く人の場合は3ヶ月に1回調律をするのがいいとされている。
秀一の場合、専属の調律士に毎月ピアノの調律を頼んでいた。
せっかくピアノがあるのに、弾けないなんて......
美姫が残念な気持ちでいると、秀一が美姫の肩を抱いた。
「いいんですよ。
私は......ピアニストを、やめるつもりですから」
階段を上って小さなポーチの先にある玄関の扉を開けると、長い間放置されていたことを示すように、埃っぽい匂いが鼻をついた。外にいるのと変わらないぐらいの冷たさが、布を通して肌の奥にまで染み込んでくる。
秀一が玄関脇にあるスイッチを押すと、白色灯に照らされた温かみのあるオレンジ味を帯びたログハウスが照らし出され、ようやく美姫はホッとした心持ちになった。
玄関を入ってすぐにリビングダイニングがあり、ダイニングテーブルの側には薪ストーブが備え付けてある。その奥にはオープンスペースのキッチンが小さな冷蔵庫と共にこじんまりとあった。
向かって右手側が洗面所と浴室。反対側には扉が2つあったが閉まっているため、何の部屋かは分からない。
テレビも、ラジオすらない。スマホの電波は圏外になっており、電話も引いていない。
世間から隔離された小さな箱庭。
だが、電気と水道、ガスは引かれており、生活に困ることはなかった。
今朝起きた時には秀一のマンションの自宅にいたのに......それが今は、この見慣れない景色に囲まれている。
「今日からここが、私たちの住処ですよ」
秀一に言われて頷いたものの、美姫はまだ現実感を伴うことが出来ずにいた。
秀一がセントラルヒーティングをつけ、また玄関へと引き返す。
「私は、車の荷物を取りに行ってきます」
「あ、私も手伝います」
手分けして全ての荷物を運び終え、小さな冷蔵庫に大量の食料品をなんとか押し込むようにして入れた。
秀一はこれまでの生活で、自炊をした経験がない。美姫は家政婦の佐和から基本的な料理については習っていたし、寮暮らしをするうちに洗濯や掃除などもこなすようになった。だが、秀一のマンションにいた時は食事の支度は全て家政婦がしてくれていたし、外食がメインだったので料理だけでなく、家事を秀一に対して施す機会はなかった。
これからは、私が秀一さんの食事を準備したり、家事をすることになるんだ。
そう思うと、美姫は少し心が浮き立つのを覚えた。
世間から逃亡するため、辿り着いたこの地で始まる新たな生活。ここに辿り着くまでは不安で仕方なかったものの、ログハウスに着き、食料品などを運んでいるうちに、不思議とその不安は小さくなっていった。それは、美姫がこの状況をまだ現実として受け入れられていない為ということはもちろんある。
だがそれにも勝る理由。
それは、愛する人---秀一が、これからずっと自分の傍にいてくれるのだという高揚感だった。
ずっと望んでいた、ふたりだけの世界。
それが今、こうして思わぬ形で手に入ったのだと思うと、複雑な思いではあるものの、ある種の幸福感も美姫の胸の中に芽生えていた。
続いてスーツケースを持ってくると、秀一が閉まっていた扉の1つを開けた。
「こちらに荷物を置いて下さい」
そこは、クイーンサイズのベッドが置いてあるだけのシンプルなベッドルームだった。ベッドだけで部屋の殆どの面積が埋め尽くされ、他にはクローゼットがあるだけだ。今までのベッドルームの8分の1程の広さであることが、この空間をより狭く感じさせてしまう。
「美姫に不自由な思いをさせてしまい、申し訳ありません」
その声に、暫く呆然としていた美姫はハッとした。
「いえ、とんでもないです。大学の寮の部屋から比べたら、キッチンもダイニングもあるし、贅沢なぐらいです」
そう言って、微笑んだ。
荷物の整理を終えた美姫は、気になっていたもう一方の扉を開けた。
「わぁっ! 秀一さん、ここでもピアノが弾けますね!」
埃をかぶっているものの、重厚で立派なグランドピアノが部屋の真ん中に置かれていた。両側の壁には書棚が並び、右手は楽譜やスコア、音楽書が並べられ、左手にはレコード盤を含むオーディオが埋め込まれ、その下にずらりとレコードやCDが並んでいた。
秀一はピアノの練習のためにこのログハウスを購入したのだから、ピアノがあるのは当然だったと、美姫は興奮して思わず声を上げた自分に恥ずかしくなった。
秀一はピアノに近づくと指で鍵盤蓋を上げ、ベルベットの赤い布を捲った。細く長い人差し指が鍵盤の一つを弾く。
ポーン、と音が鳴った。
だが、その響きはなんとなく異質な感じがした。
「このピアノは長い間調律されていないので、とてもじゃないけれど弾けませんね」
そうだ、だから違和感を感じたんだ。
秀一に言われて、美姫は気づいた。
ピアノは調律しないと年月が経つにつれて音がだんだんずれてくる。通常であれば年に1回ないし、2回。毎日何時間も弾く人の場合は3ヶ月に1回調律をするのがいいとされている。
秀一の場合、専属の調律士に毎月ピアノの調律を頼んでいた。
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