Ms.ジョッキー 〜落ちこぼれ少女、騎手になる〜

井ノ上

文字の大きさ
1 / 43
エピローグ

夢の舞台

しおりを挟む
 中山競馬場のターフに立った。
 レースコースに敷き詰められた芝は、芝というより、精緻に編まれた緑の絨毯のようである。
 快晴続きで週末を迎え、馬場ばばは良好だった。
 あいは、馬上で空を仰いだ。抜けるような青に、思わず息が漏れた。
 自衛隊音楽隊によるファンファーレが、高らかに響き渡る。不思議と、観客の歓声は気にならなかった。
 出走馬が列を組み、ターフを小走りで進んでいく。ゲートが近くなると、先頭が緩く弧を描いて折り返した。
 ジリッ、と肌が灼けるような視線を感じた。
 列の先頭にいた、黒鹿毛くろかげのサラブレッドに跨った零《れい》と、目が合った。
 零は、黒地に黄のラインが袈裟懸けに入った勝負服を着ている。
 馬の列がばらけ、それぞれが割り当てられた枠番へと導かれていく中、零の目が、ゴーグル越しにあいに語りかけてきた。
『やっと、この日が来たね、あい』
『うん。あの模擬レースから、三年。まだ三年、なのかな。でも、長かった気がする』
 あいも、目で、零に応じた。
『わかるよ。あたしも、あいとまたこの場所で駈けるのを、待ちわびてたから』
『またあの日みたいな勝負をしよう』
『ええ。そして、あたしとこの子は、有馬記念を獲る』
『私たちだって、負けない。今日、勝つために、できることは全部やってきたんだ』
 ここにいる十六組の騎手と競走馬は、例外なく全員が最大限の準備をしてきたはずだ。それは当然、あいもわかっている。
 わかったうえで、ターフに立ったら自分が積み重ねてきたものと、騎乗する馬の力を信じるしかない。
 勝って、力を示すことでしか、この世界では生きていけない。
 そういう場所で生きていくことを、一人一人が選んで、騎手となっていまここにいる。
 あいは手綱を握る手が強張っていることに気づいた。指を開いたり閉じたりしても、血の気の引いた指先の感覚がなかなか戻ってこない。
 内枠の零はすでにゲートに進んでいる。外枠偶数であるあいのゲート入りの順番はまだ来ない。
 零はあいより三年早く実戦に出ていて、新人最多勝利記録を更新していた。斤量のハンデが解けた後の重賞でも結果を出していた。零の騎乗は、すでに堂にった感がある。
 零の若くも揺るぎのない風格に気圧されかかっていると、あいの乗る栗毛のサラブレッドが、焦れるように前足で地面を搔いた。馬首を大きく揺らし、くつわを取っている厩務員が左右に振られる。
「ごめん、私のせいで落ち着かないよね。大丈夫、零を意識しないことは、難しいけど、いまは忘れる。レースに集中するから」
 鼻梁に白い墨を垂らしたような模様のあるサラブレッドが、唇をべろりとひと舐めした。ちゃんとせぇよ、と言われたのが、あいにはわかった。
 ゲートの先に伸びる、二千四百のコースに目を向けた。
 次に瞼を閉じ、予想される展開を一度だけ反芻してから、それも忘れた。
 レースが予想通りに運ばないことはざらだった。立てた作戦に頼りすぎると、予想外のことが起きた時に判断が遅れるのだ。
 ゲートインの順番が回って来た。
 栗毛のサラブレッドは暴れることなく、すんなりと入った。レース開始に備え、力を蓄えているのは、馬体から立ち昇る熱気で感じられる。レース前の馬は、出走前から燃えているように熱いのだ。
 早く駈け出したい、という気持ちがありありと伝わってくる。ただ、はやってはいない。意識はしっかりと騎手であるあいに向けられている。
 競走馬としては、理想的な状態だった。
「天道さんに調教を受けたんだもんね。当然か」
 栗毛のサラブレッドは、頷く代わりに片耳を小さく振った。
 あいも高揚しているが、心は落ち着きを取り戻し、精神は研ぎ澄まされていた。
「行くよ、スターハンドレット」
 栗毛のサラブレッドの名を呼んだ。
 馬をゲートに導く整馬員が離れた。
 息を呑む。
 張り詰めた糸がぷつりと切れるように、ゲートが開いた。
 瞬間、人馬一体となり、あいは前へと躍り出た。
 中団前列に位置取った零の後方に、ぴたりとつけた。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

中1でEカップって巨乳だから熱く甘く生きたいと思う真理(マリー)と小説家を目指す男子、光(みつ)のラブな日常物語

jun( ̄▽ ̄)ノ
大衆娯楽
 中1でバスト92cmのブラはEカップというマリーと小説家を目指す男子、光の日常ラブ  ★作品はマリーの語り、一人称で進行します。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

地味男はイケメン元総長

緋村燐
青春
高校一年になったばかりの灯里は、メイクオタクである事を秘密にしながら地味子として過ごしていた。 GW前に、校外学習の班の親交を深めようという事で遊園地に行くことになった灯里達。 お化け屋敷に地味男の陸斗と入るとハプニングが! 「なぁ、オレの秘密知っちゃった?」 「誰にも言わないからっ! だから代わりに……」 ヒミツの関係はじめよう? *野いちごに掲載しているものを改稿した作品です。 野いちご様 ベリーズカフェ様 エブリスタ様 カクヨム様 にも掲載しています。

N -Revolution

フロイライン
ライト文芸
プロレスラーを目指す桐生珀は、何度も入門試験をクリアできず、ひょんな事からニューハーフプロレスの団体への参加を持ちかけられるが…

大人への門

相良武有
現代文学
 思春期から大人へと向かう青春の一時期、それは驟雨の如くに激しく、強く、そして、短い。 が、男であれ女であれ、人はその時期に大人への確たる何かを、成熟した人生を送るのに無くてはならないものを掴む為に、喪失をも含めて、獲ち得るのである。人は人生の新しい局面を切り拓いて行くチャレンジャブルな大人への階段を、時には激しく、時には沈静して、昇降する。それは、驟雨の如く、強烈で、然も短く、将に人生の時の瞬なのである。  

ヤンデレ美少女転校生と共に体育倉庫に閉じ込められ、大問題になりましたが『結婚しています!』で乗り切った嘘のような本当の話

桜井正宗
青春
 ――結婚しています!  それは二人だけの秘密。  高校二年の遙と遥は結婚した。  近年法律が変わり、高校生(十六歳)からでも結婚できるようになっていた。だから、問題はなかった。  キッカケは、体育倉庫に閉じ込められた事件から始まった。校長先生に問い詰められ、とっさに誤魔化した。二人は退学の危機を乗り越える為に本当に結婚することにした。  ワケありヤンデレ美少女転校生の『小桜 遥』と”新婚生活”を開始する――。 *結婚要素あり *ヤンデレ要素あり

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

処理中です...