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第2話
坂道と鬼門 ⑤
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「おい、なにをやっているっ」
教員の怒声が響いた。
二次試験乗馬実技考査がはじまって、一時間ほど経っていた。
あいは、無事自分の番を終えて、気持ちが緩んでいただけに、飛び上がりそうになった。
「な、なに」
「あの馬鹿。だから言ったのに」
あいが当惑していると、隣から、実技考査が始まる前に鉤鼻の男子に忠告していた受験生の声が聞こえた。
その視線の先を追うと、棹立ちになった馬の姿があった。
鉤鼻の男子が手綱を掴んでいられず、手を離し、馬の背後に転げ落ちた。すぐさま立ち上がろうとする。
いけない。
直感が働いたが、咄嗟に声を上げられなかった。
「立つなっ」
やや離れた場所にいた、小早川の鋭い声に搏たれ、鉤鼻の男子が地面に這いつくばる。
馬の後ろ蹴りが、空を切った。もし立ち上がっていたら、頭部に馬の蹴りをまともに食らっていた。ヘルメットで頭部は守れても、首までは守れない。
「身を低くしたまま、馬から離れろ」
小早川がさらに言った。
別の教員が、昂って暴れている馬の手綱を取ろうとした。馬はそれを躱し、駈け出した。
ほとんどの受験生は言葉もなく、呆気に取られている。
そこへ、
「わぁ、大変なことになってるなぁ」
鈴音のような、無邪気な人の声がした。
振り返ると、一人の女子学生が、植え込みと砂土走路の間にある歩道から、手庇をしてこちらを眺めていた。
在校生なのは、着ているジャージでわかった。散歩でもさせている最中だったのか、芦毛の馬を曳いている。
あいは女子学生に駆け寄った。
「あの、その子に少し、力を貸してもらいたい、です」
「ん、どういうこと?」
女子学生の、黒目がちな瞳が見つめてくる。可憐な顔立ちで、あいは同性ながらどぎまぎとした。
首をふるふると振り、妙な気分を打ち払った。
「このままだと、あの子、どこかにぶつかって怪我しちゃうかも。落ち着かせてあげないと」
「そうね。それを、あなたが? できるの?」
「たぶん。やってみないと、わからないですけど」
「ふうん。なんだか、面白そう」
女子学生がにこりと笑った。桜色の唇の隙間から、白い歯が覗いた。
「いいわ、貸したげる。でも、どうするの。この馬、散歩に連れてきただけだから、鞍はしてないわ。実技考査に使っていた二頭の、どちらかの方がいいんじゃない?」
「あっちの二頭は、不安がってるので、そっとしておきたい、です。それに、鞍は、なくても平気なので」
あいは植え込みを掻き分けて芦毛の馬に近づいた。
綾より、ひと回り大きい。肉のつき方も違った。乗馬実技で乗った馬もそうだったが、これが競走馬なのだ、とあいは思った。
「あの、協力してもらって、いいですか」
芦毛の馬に、上目がちに話しかけると、鼻息を吹きかけられた。
綾ほどはっきりと気持ちは読み取れないが、了解ととってよさそうだった。
馬の背によじ登った。女子学生から手綱を受け取り、緩く構えた。
「いけます」
手綱ではなく、掌で馬の首に触れ、伝えた。
芦毛の馬が距離を取り、助走をつけて植え込みを跳び越えた。
興奮している馬は、柵で仕切られた角馬場の、入り組んだ狭路を駈け回っていた。どこに激突してもおかしくはない。
馬の行く手を先回りし、追い込もうとしている教員を追い越した。
芦毛の馬の視界で、腕を振り、曲がる方向を伝えた。
右、左、左。そう振ると、左、右、右、と馬は進路をとる。錯乱している馬の前に出た。
「下手な乗られ方をして、驚いたんだよね。もう大丈夫だから、止まって」
あいが呼びかけると、馬の勢いが緩んだ。だが、馬首を巡らせ、なおも逃げようとする。
腕を回した。駈けだそうとする馬の横をすり抜け、再び前に出て、馬体で道を塞いだ。
そこまですれば、馬という生き物は強引に押し通ろうとはしない。
駈ける余地がなくなり、脚を止めさせさえすれば、やがて落ち着きを取り戻す。
同じことを二度繰り返し、馬の気を鎮めた。
離れた場所から、歓声が飛んできた。
馬上から見ると、先ほどの女子学生が、大きく手を振っている。
手を振り返すのは照れくさく、躊躇っていると、あいのゼッケン番号が呼ばれた。
ついさっき追い抜いた教員、小早川が、すぐ傍に立っていた。
「裸馬を乗りこなして度を失った馬を鎮めた手腕は、大したものだ。だが、見方を変えれば、受験生である君が、当校には無断でその芦毛の馬を危険に晒したともとれる」
「あ、あの。勝手なことして、ごめんなさい」
小早川は、眉間に深い皴を寄せたまま、地面を指さした。
「とりあえず、降りなさい」
「はい」
あいはしおしおと馬の背から這い降り、鉤鼻気味の受験生と別室へ連れて行かれた。
事情聴取がなされ、考査を意識して故意に乗馬歴を偽ったことが明らかになると、鉤鼻の受験生はまだ一日残っているはずの二次試験の終了を言い渡され、家へ返された。
あいは小早川から、以後勝手な真似はしないようにと厳重注意を受けたが、それだけで釈放された。
宿舎への帰り道、気分はまさしく、看守に目をつけられた囚人だった。
教員の怒声が響いた。
二次試験乗馬実技考査がはじまって、一時間ほど経っていた。
あいは、無事自分の番を終えて、気持ちが緩んでいただけに、飛び上がりそうになった。
「な、なに」
「あの馬鹿。だから言ったのに」
あいが当惑していると、隣から、実技考査が始まる前に鉤鼻の男子に忠告していた受験生の声が聞こえた。
その視線の先を追うと、棹立ちになった馬の姿があった。
鉤鼻の男子が手綱を掴んでいられず、手を離し、馬の背後に転げ落ちた。すぐさま立ち上がろうとする。
いけない。
直感が働いたが、咄嗟に声を上げられなかった。
「立つなっ」
やや離れた場所にいた、小早川の鋭い声に搏たれ、鉤鼻の男子が地面に這いつくばる。
馬の後ろ蹴りが、空を切った。もし立ち上がっていたら、頭部に馬の蹴りをまともに食らっていた。ヘルメットで頭部は守れても、首までは守れない。
「身を低くしたまま、馬から離れろ」
小早川がさらに言った。
別の教員が、昂って暴れている馬の手綱を取ろうとした。馬はそれを躱し、駈け出した。
ほとんどの受験生は言葉もなく、呆気に取られている。
そこへ、
「わぁ、大変なことになってるなぁ」
鈴音のような、無邪気な人の声がした。
振り返ると、一人の女子学生が、植え込みと砂土走路の間にある歩道から、手庇をしてこちらを眺めていた。
在校生なのは、着ているジャージでわかった。散歩でもさせている最中だったのか、芦毛の馬を曳いている。
あいは女子学生に駆け寄った。
「あの、その子に少し、力を貸してもらいたい、です」
「ん、どういうこと?」
女子学生の、黒目がちな瞳が見つめてくる。可憐な顔立ちで、あいは同性ながらどぎまぎとした。
首をふるふると振り、妙な気分を打ち払った。
「このままだと、あの子、どこかにぶつかって怪我しちゃうかも。落ち着かせてあげないと」
「そうね。それを、あなたが? できるの?」
「たぶん。やってみないと、わからないですけど」
「ふうん。なんだか、面白そう」
女子学生がにこりと笑った。桜色の唇の隙間から、白い歯が覗いた。
「いいわ、貸したげる。でも、どうするの。この馬、散歩に連れてきただけだから、鞍はしてないわ。実技考査に使っていた二頭の、どちらかの方がいいんじゃない?」
「あっちの二頭は、不安がってるので、そっとしておきたい、です。それに、鞍は、なくても平気なので」
あいは植え込みを掻き分けて芦毛の馬に近づいた。
綾より、ひと回り大きい。肉のつき方も違った。乗馬実技で乗った馬もそうだったが、これが競走馬なのだ、とあいは思った。
「あの、協力してもらって、いいですか」
芦毛の馬に、上目がちに話しかけると、鼻息を吹きかけられた。
綾ほどはっきりと気持ちは読み取れないが、了解ととってよさそうだった。
馬の背によじ登った。女子学生から手綱を受け取り、緩く構えた。
「いけます」
手綱ではなく、掌で馬の首に触れ、伝えた。
芦毛の馬が距離を取り、助走をつけて植え込みを跳び越えた。
興奮している馬は、柵で仕切られた角馬場の、入り組んだ狭路を駈け回っていた。どこに激突してもおかしくはない。
馬の行く手を先回りし、追い込もうとしている教員を追い越した。
芦毛の馬の視界で、腕を振り、曲がる方向を伝えた。
右、左、左。そう振ると、左、右、右、と馬は進路をとる。錯乱している馬の前に出た。
「下手な乗られ方をして、驚いたんだよね。もう大丈夫だから、止まって」
あいが呼びかけると、馬の勢いが緩んだ。だが、馬首を巡らせ、なおも逃げようとする。
腕を回した。駈けだそうとする馬の横をすり抜け、再び前に出て、馬体で道を塞いだ。
そこまですれば、馬という生き物は強引に押し通ろうとはしない。
駈ける余地がなくなり、脚を止めさせさえすれば、やがて落ち着きを取り戻す。
同じことを二度繰り返し、馬の気を鎮めた。
離れた場所から、歓声が飛んできた。
馬上から見ると、先ほどの女子学生が、大きく手を振っている。
手を振り返すのは照れくさく、躊躇っていると、あいのゼッケン番号が呼ばれた。
ついさっき追い抜いた教員、小早川が、すぐ傍に立っていた。
「裸馬を乗りこなして度を失った馬を鎮めた手腕は、大したものだ。だが、見方を変えれば、受験生である君が、当校には無断でその芦毛の馬を危険に晒したともとれる」
「あ、あの。勝手なことして、ごめんなさい」
小早川は、眉間に深い皴を寄せたまま、地面を指さした。
「とりあえず、降りなさい」
「はい」
あいはしおしおと馬の背から這い降り、鉤鼻気味の受験生と別室へ連れて行かれた。
事情聴取がなされ、考査を意識して故意に乗馬歴を偽ったことが明らかになると、鉤鼻の受験生はまだ一日残っているはずの二次試験の終了を言い渡され、家へ返された。
あいは小早川から、以後勝手な真似はしないようにと厳重注意を受けたが、それだけで釈放された。
宿舎への帰り道、気分はまさしく、看守に目をつけられた囚人だった。
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