7 / 28
第二航海
人魚と違和感
しおりを挟む
腹が満たされると、またすこしこころに余裕が生まれる。誰かが近づいてきてもアリオンは露骨に警戒心を剥き出しにはしなかった。男は、アリオンに腕を固められ、先ほどイサクと共にディアギレフの部屋にも顔を出していた髭面だった。
「……髭」
「コックスだっつの」
ほれ、と差し出されたのは、飲み物の入った容器だった。
「さすがに酒は呑めねえだろ」
「飲んだことはないな。……ありが、とう」
冷たい。喉を流れていったのは、真水だった。陸地でも貴重な水だ。目を見張る。
「それと、これだ」
渡されたのは濃赤の表紙に金字が印刷された、いかにも高そうな書籍だった。古ぼけたところがまた更に値段をつり上げそうだとアリオンは思った。
水を飲み干し、本を受け取る。
「字は読めるか?」「馬鹿にするな。僕は貴族の娘だぞ」
「大陸語でよかったか? 倭国語の方が得意なら、お頭――、か、イサクに見繕ってもらうが」
「は? 倭国語? いくら人魚だからって、そんな遠くの言葉わかるわけないだろ。僕はアルミリア生まれだぞ」
「――そうか。なら、これでいいな。読んでみな。イサクが言ってただろう。読みたけりゃ本を貸してやるってな。人魚について書いてある。お頭もこれくらいじゃ怒んねぇだろ」
「……ありがとう」
もう一度礼を言って、アリオンは本を受け取った。潮風に曝されないところに保管されていたのだろうが、所詮は船の上、ところどころが劣化している。ひっついたページを引き剥がしながら、アリオンは目を通した。
アリオンが本に集中しだしたのを確認して、コックスは傍を離れる。
――人魚。
それは海を支配する種族の名である。
永遠に等しい長命、人を惑わす麗しき美貌と声を持ち、何よりその歌声は人々を酔わせるほどの魔力があった。
その姿には、大別して二種類しかいない。雌体は銀の髪に赤の瞳、雄体は黒の髪に赤の瞳を持つ。銀髪に、黒髪、瞳の赤は他の種族には見られない稀少な色であり、人魚の価値を高めている。
その人外の麗しさもさることながら、人々を別の意味で引きつけてやまないのは彼らの肉体そのものであった。血肉は毒とも薬ともなると言われ、一説には不老不死の効能を持つと囁かれている。
決してたどり着くことのできぬ東の最果て、幻の国に住まう希少種で、真贋構わず市場では高値で取引されていた。
けれど古くから海を拠点とする船乗りたちには別の意味で、人魚は憧れと畏怖の象徴だった。 それを船乗りは「人魚に選ばれる」という言い方をし、人魚は「王を選ぶ」と形容するのだが――、それは一種の契約である。
人魚は誓いを交わした人間に、海での祝福を授けることができるのだ。海の上での絶対的な安全と、生命をともにするがゆえの永遠の命。
人魚は船で主人のためだけに歌を歌い、その守護を強める。人魚を乗せた船は嵐に沈むことはないし、凪に止まることもない。
正式に交わされた船長と人魚の契約はそれだけの効果があった。代わりに人魚の言葉は契約者の生殺与奪を握ることになるが、それは諸刃の剣である。
つまり海においては絶対的な力を持つ人魚と契約を交わすということは一重に海神に認められているという証左に等しく、船乗りならば誰もが一度は夢見る称号であり譽だ。
しかし人魚においては人間と契約しなればならぬ道理はなく、すべては人魚の自由意思にかかっている。ゆえに、彼らは「王を選ぶ」と言う。海を自由にする権利を人間に与えることになるからだ。
とはいえ、人魚の側にまったくの利益がないというわけでもない。
人魚は海での実質的な支配者であるために、陸地に上がることに枷がある。陸地に上がる代わりに声を失い、人の脚は歩くたびに痛みを訴えることになるのだ。成長に合わせて人魚は二脚を得るが、それは陸地で生きる重さには耐えられない。
けれど人と契約をすればその枷からは解消される。もちろんそのためだけに契約をする軽挙な人魚はいないが、海しか知らぬ人魚にとって、陸地は確かにあこがれであるのだ。
「――あれ?」
アリオンはページをめくる手を止めた。自分の喉を撫で、力強く地面を踏みしめる自分の足を見た。確かに歌を歌うのは好きではなかったけれど喋れないわけではなかったし、足だってたまに痛むことはあるがそれは鍛錬に疲れただけで、それ以上の意味はないように思えた。
「まあ、いっか」
アリオンはほんの少し疑問に思ったが、それだけだった。
もしかしたら、読み間違えてしまったのかもしれない。
薄い本だったが読み慣れていないのと、いやに堅苦しい文面に悩まされた。父に与えられていた本は、ずいぶんと読みやすい部類だったらしい。
それがアリオンの十四歳という年齢にはそぐわない、絵本と呼ぶべき類のものであったことまでは気づかなかったが。
気を取り直して、頭を悩ませながら先を読み進んでいく。
そこには人魚の血の毒がもたらす症状の頁であったり、異種交配、伝説といった様々なことが記されていた。特に水を媒介とした人魚の通信方法には興味をそそられる。これは自分にもできるんだろうか?
人魚がどれだけ貴重かは知っていたけれど、人魚に何ができるかなんてあまり考えたことはなかった。
苦労の末に最後の頁をめくり、奥付を流し読んでアリオンは本を閉じた。
「つか、れた」
わずかに痛むこめかみを押さえ、深く息をつく。このまま目をつむって休んでしまいたかったけれど、こんな場所では気は休まらない。きっと、この船に乗っているあいだはずっとそうなのだ。
マストに隠れながらも、アリオンは高い場所から働く男たちの姿を眺める。
想像していたような事態にはならなかったとはいえ、敵しかいない空間にいるのだ。
彼らはディアギレフとは違い、アリオンにやさしかった。
アリオンに自分の価値を認めさせて、そうして彼らはどうしようというのだろう。優しくされたところで、絆されたりなどするつもりはない。
紙面の上だけの知識では、薄っぺらいことしかわからない。
船に乗る人魚ができること。
知ったからといって、アリオンがなにかができるわけでもない。
生まれ落ちたその瞬間から持っていたものは、本人の意思で削ぎ落とせるものではないのだから。
そのうえ今得た知識が正しいとも限らない。所詮海賊に渡された本に書いてあったことだ。
けれどひとつだけ確かなことは、彼らがこの船の人魚として、アリオンを扱おうとしているということだ。ディアギレフのものになれということだ。
絶対に、そんなものにはならない。
今後彼らがどんな風に豹変し、アリオンにディアギレフとの契約を迫ったとしても、決して屈しはしない。彼を自分の王と呼ぶ気はない。
「父さま……」
大切に守ってくれた人はもういない。この身体は自分で守らなければならない。ディアギレフなんかに渡してはやらない。
けれどもやっぱり心細くて、銀糸を両腕で抱きしめた。心許ない軽さでもって、髪はさらさらと風に煽られていくだけだった。
まだ、泣いたりはしないつもりなのに。
父の死を悼んで涙を流すのは、その首級を父の墓前に捧げたあとだ。
頬を叩いて立ち上がる。
さあ行こう。
立ち止まっている暇はない。
早く本を返して、それからディアギレフを殺さなくては。
「……髭」
「コックスだっつの」
ほれ、と差し出されたのは、飲み物の入った容器だった。
「さすがに酒は呑めねえだろ」
「飲んだことはないな。……ありが、とう」
冷たい。喉を流れていったのは、真水だった。陸地でも貴重な水だ。目を見張る。
「それと、これだ」
渡されたのは濃赤の表紙に金字が印刷された、いかにも高そうな書籍だった。古ぼけたところがまた更に値段をつり上げそうだとアリオンは思った。
水を飲み干し、本を受け取る。
「字は読めるか?」「馬鹿にするな。僕は貴族の娘だぞ」
「大陸語でよかったか? 倭国語の方が得意なら、お頭――、か、イサクに見繕ってもらうが」
「は? 倭国語? いくら人魚だからって、そんな遠くの言葉わかるわけないだろ。僕はアルミリア生まれだぞ」
「――そうか。なら、これでいいな。読んでみな。イサクが言ってただろう。読みたけりゃ本を貸してやるってな。人魚について書いてある。お頭もこれくらいじゃ怒んねぇだろ」
「……ありがとう」
もう一度礼を言って、アリオンは本を受け取った。潮風に曝されないところに保管されていたのだろうが、所詮は船の上、ところどころが劣化している。ひっついたページを引き剥がしながら、アリオンは目を通した。
アリオンが本に集中しだしたのを確認して、コックスは傍を離れる。
――人魚。
それは海を支配する種族の名である。
永遠に等しい長命、人を惑わす麗しき美貌と声を持ち、何よりその歌声は人々を酔わせるほどの魔力があった。
その姿には、大別して二種類しかいない。雌体は銀の髪に赤の瞳、雄体は黒の髪に赤の瞳を持つ。銀髪に、黒髪、瞳の赤は他の種族には見られない稀少な色であり、人魚の価値を高めている。
その人外の麗しさもさることながら、人々を別の意味で引きつけてやまないのは彼らの肉体そのものであった。血肉は毒とも薬ともなると言われ、一説には不老不死の効能を持つと囁かれている。
決してたどり着くことのできぬ東の最果て、幻の国に住まう希少種で、真贋構わず市場では高値で取引されていた。
けれど古くから海を拠点とする船乗りたちには別の意味で、人魚は憧れと畏怖の象徴だった。 それを船乗りは「人魚に選ばれる」という言い方をし、人魚は「王を選ぶ」と形容するのだが――、それは一種の契約である。
人魚は誓いを交わした人間に、海での祝福を授けることができるのだ。海の上での絶対的な安全と、生命をともにするがゆえの永遠の命。
人魚は船で主人のためだけに歌を歌い、その守護を強める。人魚を乗せた船は嵐に沈むことはないし、凪に止まることもない。
正式に交わされた船長と人魚の契約はそれだけの効果があった。代わりに人魚の言葉は契約者の生殺与奪を握ることになるが、それは諸刃の剣である。
つまり海においては絶対的な力を持つ人魚と契約を交わすということは一重に海神に認められているという証左に等しく、船乗りならば誰もが一度は夢見る称号であり譽だ。
しかし人魚においては人間と契約しなればならぬ道理はなく、すべては人魚の自由意思にかかっている。ゆえに、彼らは「王を選ぶ」と言う。海を自由にする権利を人間に与えることになるからだ。
とはいえ、人魚の側にまったくの利益がないというわけでもない。
人魚は海での実質的な支配者であるために、陸地に上がることに枷がある。陸地に上がる代わりに声を失い、人の脚は歩くたびに痛みを訴えることになるのだ。成長に合わせて人魚は二脚を得るが、それは陸地で生きる重さには耐えられない。
けれど人と契約をすればその枷からは解消される。もちろんそのためだけに契約をする軽挙な人魚はいないが、海しか知らぬ人魚にとって、陸地は確かにあこがれであるのだ。
「――あれ?」
アリオンはページをめくる手を止めた。自分の喉を撫で、力強く地面を踏みしめる自分の足を見た。確かに歌を歌うのは好きではなかったけれど喋れないわけではなかったし、足だってたまに痛むことはあるがそれは鍛錬に疲れただけで、それ以上の意味はないように思えた。
「まあ、いっか」
アリオンはほんの少し疑問に思ったが、それだけだった。
もしかしたら、読み間違えてしまったのかもしれない。
薄い本だったが読み慣れていないのと、いやに堅苦しい文面に悩まされた。父に与えられていた本は、ずいぶんと読みやすい部類だったらしい。
それがアリオンの十四歳という年齢にはそぐわない、絵本と呼ぶべき類のものであったことまでは気づかなかったが。
気を取り直して、頭を悩ませながら先を読み進んでいく。
そこには人魚の血の毒がもたらす症状の頁であったり、異種交配、伝説といった様々なことが記されていた。特に水を媒介とした人魚の通信方法には興味をそそられる。これは自分にもできるんだろうか?
人魚がどれだけ貴重かは知っていたけれど、人魚に何ができるかなんてあまり考えたことはなかった。
苦労の末に最後の頁をめくり、奥付を流し読んでアリオンは本を閉じた。
「つか、れた」
わずかに痛むこめかみを押さえ、深く息をつく。このまま目をつむって休んでしまいたかったけれど、こんな場所では気は休まらない。きっと、この船に乗っているあいだはずっとそうなのだ。
マストに隠れながらも、アリオンは高い場所から働く男たちの姿を眺める。
想像していたような事態にはならなかったとはいえ、敵しかいない空間にいるのだ。
彼らはディアギレフとは違い、アリオンにやさしかった。
アリオンに自分の価値を認めさせて、そうして彼らはどうしようというのだろう。優しくされたところで、絆されたりなどするつもりはない。
紙面の上だけの知識では、薄っぺらいことしかわからない。
船に乗る人魚ができること。
知ったからといって、アリオンがなにかができるわけでもない。
生まれ落ちたその瞬間から持っていたものは、本人の意思で削ぎ落とせるものではないのだから。
そのうえ今得た知識が正しいとも限らない。所詮海賊に渡された本に書いてあったことだ。
けれどひとつだけ確かなことは、彼らがこの船の人魚として、アリオンを扱おうとしているということだ。ディアギレフのものになれということだ。
絶対に、そんなものにはならない。
今後彼らがどんな風に豹変し、アリオンにディアギレフとの契約を迫ったとしても、決して屈しはしない。彼を自分の王と呼ぶ気はない。
「父さま……」
大切に守ってくれた人はもういない。この身体は自分で守らなければならない。ディアギレフなんかに渡してはやらない。
けれどもやっぱり心細くて、銀糸を両腕で抱きしめた。心許ない軽さでもって、髪はさらさらと風に煽られていくだけだった。
まだ、泣いたりはしないつもりなのに。
父の死を悼んで涙を流すのは、その首級を父の墓前に捧げたあとだ。
頬を叩いて立ち上がる。
さあ行こう。
立ち止まっている暇はない。
早く本を返して、それからディアギレフを殺さなくては。
0
あなたにおすすめの小説
私たちの離婚幸福論
桔梗
恋愛
ヴェルディア帝国の皇后として、順風満帆な人生を歩んでいたルシェル。
しかし、彼女の平穏な日々は、ノアの突然の記憶喪失によって崩れ去る。
彼はルシェルとの記憶だけを失い、代わりに”愛する女性”としてイザベルを迎え入れたのだった。
信じていた愛が消え、冷たく突き放されるルシェル。
だがそこに、隣国アンダルシア王国の皇太子ゼノンが現れ、驚くべき提案を持ちかける。
それは救済か、あるいは——
真実を覆う闇の中、ルシェルの新たな運命が幕を開ける。
記憶を失くして転生しました…転生先は悪役令嬢?
ねこママ
恋愛
「いいかげんにしないかっ!」
バシッ!!
わたくしは咄嗟に、フリード様の腕に抱き付くメリンダ様を引き離さなければと手を伸ばしてしまい…頬を叩かれてバランスを崩し倒れこみ、壁に頭を強く打ち付け意識を失いました。
目が覚めると知らない部屋、豪華な寝台に…近付いてくるのはメイド? 何故髪が緑なの?
最後の記憶は私に向かって来る車のライト…交通事故?
ここは何処? 家族? 友人? 誰も思い出せない……
前世を思い出したセレンディアだが、事故の衝撃で記憶を失くしていた……
前世の自分を含む人物の記憶だけが消えているようです。
転生した先の記憶すら全く無く、頭に浮かぶものと違い過ぎる世界観に戸惑っていると……?
完結 そんなにその方が大切ならば身を引きます、さようなら。
音爽(ネソウ)
恋愛
相思相愛で結ばれたクリステルとジョルジュ。
だが、新婚初夜は泥酔してお預けに、その後も余所余所しい態度で一向に寝室に現れない。不審に思った彼女は眠れない日々を送る。
そして、ある晩に玄関ドアが開く音に気が付いた。使われていない離れに彼は通っていたのだ。
そこには匿われていた美少年が棲んでいて……
幼馴染みの婚約者が「学生時代は愛する恋人と過ごさせてくれ」と言ってきたので、秒で婚約解消を宣言した令嬢の前世が、社畜のおっさんだった件。
灯乃
ファンタジー
子爵家の総領娘である令嬢の前に、巨乳美少女と腕を組んだ婚約者がやってきた。
曰く、「学生時代くらいは、心から愛する恋人と自由に過ごしたい。それくらい、黙って許容しろ」と。
婚約者を甘やかし過ぎていたことに気付いた彼女は、その場で婚約解消を宣言する。
前半はたぶん普通の令嬢もの、後半はおっさんコメディーです。
冷遇王妃はときめかない
あんど もあ
ファンタジー
幼いころから婚約していた彼と結婚して王妃になった私。
だが、陛下は側妃だけを溺愛し、私は白い結婚のまま離宮へ追いやられる…って何てラッキー! 国の事は陛下と側妃様に任せて、私はこのまま離宮で何の責任も無い楽な生活を!…と思っていたのに…。
記憶喪失の私はギルマス(強面)に拾われました【バレンタインSS投下】
かのこkanoko
恋愛
記憶喪失の私が強面のギルドマスターに拾われました。
名前も年齢も住んでた町も覚えてません。
ただ、ギルマスは何だか私のストライクゾーンな気がするんですが。
プロット無しで始める異世界ゆるゆるラブコメになる予定の話です。
小説家になろう様にも公開してます。
【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる