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第二航海
夢で出逢った幼き君は
しおりを挟む再起動した脳が下した命令のため、アリオンはひとまず風呂に入った。
船上生活なくせに、この船は船底に最新の魔術式を利用した海水の濾過装置を備えており、豊富に真水が使えるらしい。
広々とした浴槽、洗い場、それらをぐるりと見渡し、そのようなことをエンジェルが言っていたのをアリオンは思い出した。彼女から指示されたとおり掛け湯をして、長髪を高い位置で纏めてから浴槽に入る。つま先を入れた瞬間こそその熱さに驚いたものの、すぐにそれが心地よいのだと気付いた。
足を伸ばしてみると、いよいよこの風呂場の広さが身にしみてくる。なみなみと溢れる湯。一体どれだけの水を使用しているのだろう。濾過装置など、陸上でもよく聞かない。そんなことができる術式があることすらも、知らなかった。
さらにそれを熱するために組み上げた術式を考えるとどれほど高価な魔術機構を備えているのか、アリオンには到底及びもつかなかった。
どこまでも汚らしい、男。
技術の占有をするなんて。
貴族に連なる家だったけれど、アリオンは屋敷でこんなにふんだんに水を使えはしなかった。そもそも、こんなに水を使う風呂もなかった。
広い陸地に少ない真水。資源も枯渇し、残された海の制権を各国海軍と海賊が争っているのが現状だ。
こんな風に海の水を使えるなら、どれほど内地は豊かになるだろう?
アリオンの父も我が物顔で海を蹂躙する海賊たちの討伐に努め、そのためにディアギレフに殺されたのだ。
憤りに身体が奮え、けれど、いまその恩恵を受けているのは自分も同じだ。
潮風に曝され続けた身体を、真水で拭うことのできる心地よさはどれほどか。少し傷にしみるけれど、ちょっと耐えれば気にならなくなる。
アリオンの身は人ではないが、皮膚感覚はほとんどひとと変わらないと思う。さらさらと流れていく真水は気持ちいい。ほわほわと、顔に当たる蒸気も。
だれもいない、ひとりきり。邪魔もされない。
ここでこの船に乗って初めて、アリオンは平穏を手にしたのだといえる。
もちろんそんな感慨に浸っている暇などアリオンにはなかったはずだった。けれど身体の筋を解し、傷を癒してくれる湯の快適さに、つい少女はうっとりとしてしまったのだった。
目を閉じて、呼吸ひとつ。ふう、と身体の力が抜けていく。
ぴしゃん、ぴしゃんと天井から落ちてくる水滴の音だけがする。規則正しいような、さりとて狂っているような――――、音。
まどろみの中に引き摺り込まれる。
そこでアリオンは、誰かの声を聴いた。いままで聞いたことのない、舌ったらずな幼げな子どもの声だった。
声は誰かを呼んでいる。
すすり泣く声に交じっているうえ、共通語かどうかも定かではなかったが、それは確かに誰かを呼んでいた。
ママ、みんな、――――。
アリオンは胸が詰まり、大きく足で水を蹴った。
深い、海の中にいた。光も届かない。前も後ろも左右も分からない。それでもアリオンは、声のするほうへ、進んだ。
導かれるように向かった場所は、一層の闇の中だった。しゃくりあげる声はそこからしているけれど、アリオンには見えない。
でもここは海の中。
アリオンが支配する世界だ。
光よ、と願えば灯がともると知っていた。
ぱ、と明りの射した世界にちいさな子どもがひとり、ぽつんと座り込んでいる。鮮やかな銀の髪、時折涙をぬぐうときに横顔から覗く瞳は紛うかたなき紅だ。
――――人魚。
「君、」
何か声を掛けようと口を開き、
「ッげほっ!?」
アリオンは慌てて身体を起こす。鼻口耳、いたるところに水が入っていて、痛い。咳き込みながら揺らぐ視界で周囲を確認すると、何のことはない、オー・スクエアの大浴場だ。
幼い人魚の姿はすでに影も形もなく、アリオンは一匹湯の中で座り込んでいる。そうやらアリオンは溺れた、ようだった。
髪から顔から水を滴らせながら、少女は放心して呟いた。
「夢……?」
まさか、風呂の中で眠ってしまって、夢でもみたとでもいうのだろうか。
あまりにも気持ちがよかったから?
まさか、まさかまさか。
そうでなければ。
アリオンは視線をさ迷わせた。
「人魚の、能力……」
呟きは確信を抱かせた。
アリオンはどこかにいる人魚と、連絡を取ったのだ。
悲痛な声で泣くような目にあっている人魚が、どこかにいるのだ。
今考えるべきは同胞ではなく仇討ちのことなのに――、二つ目を抱え込んでしまった、とアリオンはぽつんと独語した。
あまりに悲しげな泣き声が、耳に張り付いて離れない。
髪から滴る水滴が水面に波紋を作り、アリオンは逃避するように、エンジェルの言いつけであったマナーを破り、湯船で髪を濡らしてしまったことを後悔した。
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