26 / 28
第三航海
お前のものではないよ
しおりを挟む――ああ、生きている。
まだ本調子じゃないくせに。ふらふらと頼りない足取りのくせに。僕のたった一言で、あんたはきっともう死ぬのに。
こちらを見て、ひどく嬉しげに男は笑う。
会いたくなかった、会いたかった。会ってしまえば、もろいものだ。
どんな顔をすればいいのかわからなかったのに、眦に浮かぶものがきっと気持ちの正体だ。
もう、怒ってないのかな。だったら、今日くらい優しくしてあげてもいいかなあ。
「あ、ええと。噂をすれば、だ」
滲もうとする涙を瞬きで誤魔化し、喉を締め付けるものを無理に開放する。ちらりとエミリーナを見上げれば、すでに彼女も男に気づいていて、輝かんばかりの笑顔をそのおもてに浮かべている。太陽の愛を一身に浴びているようなそのきらめきはどうか。眩しくてまぶしくて、とても見ていられない。
「ディアギレフ!」
エミリーナの声に、す、と何故だか急に胃が冷えて、何かの予感が脳裏をよぎった。それはすごく、いやな気分だった。その漠然とした感覚が確かな形をとるより先に、引きずられるように視線がディアギレフへと戻り、そして、アリオンはすとんと納得した。
それと同じくして、アリオンは違和感の正体に思い至った。
エミリーナ。
ディアギレフの船室で、見かけた手紙の差出人が、そんな名前だった。
ディアギレフが港町で待たせている恋人。
(――嗚呼、そうか)
(あれは、僕を見て笑ったんじゃなくて、)
(僕に会えてうれしかったのではなくて、)
羞恥と怒りで、顔から火が出そうだ。
乙女のように駆け寄るエミリーナを危なげなくディアギレフは抱きとめて、その流れるような動作にアリオンはまたしても理解させられずにはいられない。これで分からなければ本当にただの阿呆だ。
当然のごとく自分のものだと思っていたものを、違うのだと横面を張られて知らしめられたような。
こんな身勝手な感情が、自分の中にあることを、知りたくなどなかった。
けれど、覚えている、本当は知っている。これは昔むかし、とっくに学ばされた感情だ。じわりと脳の片隅から漏れ出してくる情景を、今はまだ、抑え込む。
イサクの上着を握った手に、ひどく力がこもっている。心配げにイサクとコックスがこちらを伺ってくるのを感じるが、彼らは何も言わなかった。賢明だ。表だって案じられでもしたら、我を忘れて怒鳴り散らしたに違いない。
そんな失態を、絶対にディアギレフの前でおかすせるものか。
意識して肩の力を抜き、イサクから手を離し、頬のこわばりをほぐした。動揺を忘れようと悟られない程度に深呼吸し、にこりとイサクとコックスに笑みを向けると、彼らも安心したように少し笑う。二人はふたりで、緊張していたのだろう。
「それじゃ、まあ、僕たちも行こうか?」
改めて二人の手を引っ張って、アリオンはそう提案する。にやりと口唇を吊り上げて、少女は寄り添う男女を目線で示す。
「ほら、僕がいちゃあおちおち寝てもいられないだろう? いつなんどき殺されるかわからないし? ――なあ、ディアギレフ!」
最後だけしっかり声を張って呼びかけると、二人は合わせていた額を離し、アリオンを向く。今にもキスでも始めそうな距離だった。
それにまた呼吸を忘れそうになるが、そうして傷つきそうになる自分に少女は耐えられなかった。癇癪を起したくなるような衝動をやり過ごし、アリオンは繋いだ手を掲げて見せる。
ディアギレフは少しだけ、目を眇めた。カラーグラスをかけていないので、眩しかったのかもしれない。
「ちょっとイサクとコックスと出かけてくる! あんたはしっかりエミリーに看病してもらえよ!」
「そういえばあなたこの前、アルミリアに襲われたんだったわね。大丈夫なの?」
「まあね、あの子さえ馬鹿しなけりゃ、全然平気」
「あんた失礼だな!」
からからと声を立てて笑うと、一様に驚いた視線を浴びる。まあ、アリオンには予想の範疇だ。こんな風に邪気なく、ディアギレフに相対したことなんて一度もない。
両脇から額に手を添えられた。失礼な。
この眼差しは彼を刺すためのもの。この口は彼に毒を盛るためだけのもの。でもこの執念を、わざわざ彼を愛する女性に見せる必要などない。
あなたになど興味はないよ、ディアギレフ。ただの人魚と、その船長。それだけ。どんな関係があろうと、彼がだれかと愛し合うのは自由だ。
平坦なアリオンの眼差しに、反してディアギレフは気分を害したようだった。
「お前さんは? 看病してくれないの」
「はあ?」
こいつ、こちらが親切にしてやったらつけあがりやがった。引き攣る口元を無理やり笑みの形に維持するのが大変だ。
「僕は看病が下手だから。間違って悪化しちゃったら悪いからね。エミリーだけで十分だろう? なにせとっときの美女だ。積もる話もあるだろうし」
「あら、ありがとうアリオン。気を使ってもらってごめんなさい。でも私、あなたのお話も聞きたいわ」
「それはもちろん、喜んで。でも、僕、港に降りるのは初めてなんだ。正直ちょっといろいろ見て回りたいし」
「そうなの? それなら引き止めちゃ悪いわね。いってらっしゃい、……気をつけて」
「ありがとう。じゃあ、そういうことだから」
話はすんだとディアギレフを見やれば、不機嫌そうな顔のまま、ちょっと待ってな、と唸るように言う。こちらが客人の手前、愛想よく振る舞ってやっているのに一体どういう了見だろう。しかも是非を聞く前に男は踵を返してしまった。
その瞬間、アリオンはぎくりとして、目を見開く。
アリオンは、ディアギレフが背を向けるのが、――――嫌いだ。
拒絶。
頭の中が真っ白になって、息を止める。
男はアリオンを、拒んだのだ、あのとき。
さよならの前に確固とした絆を望んだ、自分を。
そして、それは、――それは、
0
あなたにおすすめの小説
私たちの離婚幸福論
桔梗
恋愛
ヴェルディア帝国の皇后として、順風満帆な人生を歩んでいたルシェル。
しかし、彼女の平穏な日々は、ノアの突然の記憶喪失によって崩れ去る。
彼はルシェルとの記憶だけを失い、代わりに”愛する女性”としてイザベルを迎え入れたのだった。
信じていた愛が消え、冷たく突き放されるルシェル。
だがそこに、隣国アンダルシア王国の皇太子ゼノンが現れ、驚くべき提案を持ちかける。
それは救済か、あるいは——
真実を覆う闇の中、ルシェルの新たな運命が幕を開ける。
記憶を失くして転生しました…転生先は悪役令嬢?
ねこママ
恋愛
「いいかげんにしないかっ!」
バシッ!!
わたくしは咄嗟に、フリード様の腕に抱き付くメリンダ様を引き離さなければと手を伸ばしてしまい…頬を叩かれてバランスを崩し倒れこみ、壁に頭を強く打ち付け意識を失いました。
目が覚めると知らない部屋、豪華な寝台に…近付いてくるのはメイド? 何故髪が緑なの?
最後の記憶は私に向かって来る車のライト…交通事故?
ここは何処? 家族? 友人? 誰も思い出せない……
前世を思い出したセレンディアだが、事故の衝撃で記憶を失くしていた……
前世の自分を含む人物の記憶だけが消えているようです。
転生した先の記憶すら全く無く、頭に浮かぶものと違い過ぎる世界観に戸惑っていると……?
完結 そんなにその方が大切ならば身を引きます、さようなら。
音爽(ネソウ)
恋愛
相思相愛で結ばれたクリステルとジョルジュ。
だが、新婚初夜は泥酔してお預けに、その後も余所余所しい態度で一向に寝室に現れない。不審に思った彼女は眠れない日々を送る。
そして、ある晩に玄関ドアが開く音に気が付いた。使われていない離れに彼は通っていたのだ。
そこには匿われていた美少年が棲んでいて……
幼馴染みの婚約者が「学生時代は愛する恋人と過ごさせてくれ」と言ってきたので、秒で婚約解消を宣言した令嬢の前世が、社畜のおっさんだった件。
灯乃
ファンタジー
子爵家の総領娘である令嬢の前に、巨乳美少女と腕を組んだ婚約者がやってきた。
曰く、「学生時代くらいは、心から愛する恋人と自由に過ごしたい。それくらい、黙って許容しろ」と。
婚約者を甘やかし過ぎていたことに気付いた彼女は、その場で婚約解消を宣言する。
前半はたぶん普通の令嬢もの、後半はおっさんコメディーです。
冷遇王妃はときめかない
あんど もあ
ファンタジー
幼いころから婚約していた彼と結婚して王妃になった私。
だが、陛下は側妃だけを溺愛し、私は白い結婚のまま離宮へ追いやられる…って何てラッキー! 国の事は陛下と側妃様に任せて、私はこのまま離宮で何の責任も無い楽な生活を!…と思っていたのに…。
記憶喪失の私はギルマス(強面)に拾われました【バレンタインSS投下】
かのこkanoko
恋愛
記憶喪失の私が強面のギルドマスターに拾われました。
名前も年齢も住んでた町も覚えてません。
ただ、ギルマスは何だか私のストライクゾーンな気がするんですが。
プロット無しで始める異世界ゆるゆるラブコメになる予定の話です。
小説家になろう様にも公開してます。
「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある
柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった
王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。
リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。
「わかりました。あなたには、がっかりです」
微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる