38 / 74
覆せぬ差をどうせよと
彼女が立っていたその理由
しおりを挟む明り取りから差し込む光をやわらかく照り返すまだ短い髪。まるで獣か何かのような耳に、ぴんと立ちあがったふくらみを帯びた尾。いずれも金に輝き、大きく人間の枠から逸脱した姿が、男の目には映りこむ。
そのせいで、今まで彼が千穿に向けてくれていた一切の慈しみはその瞳から払拭され、ただ得体の知れないものに対する嫌悪や恐怖が、かわりにそこへ現れる。
「バケモノォッ」
彼が引き攣った裏声で叫んだ、その言葉に千穿のこころは音をたてて凍りつく。何の感情も抱くことが叶わずに千穿は棒のように突っ立って、強要でもされているみたいに喉を震わさない声でもってその言葉を繰り返し続けた。 バケモノ。
ぐいと乱暴な動作で、母は千穿を自分の背後へ追いやった。無理やりにそうされながら、千穿は彼女の顔を見上げる。血の気の失せた青白い顔で、母は隣人を睨んでいた。自分に触れている母の手はかたかたと小刻みに震えていた。形の良い唇から零れる荒い息。頬をいくつもいくつも珠玉が滑っていっている。
『母ちゃん』
怖くなって、千穿は母を呼ばわった。彼女は千穿を見て、薄く微笑み、大丈夫やからとやさしく告げた。
『記憶をすこうしいじるだけや。そんあとで、幻術をかけ直そ。なぁんにも心配せんでええ。私らの幸せを、私は何人なりとも邪魔はさせへん』『でも、』
大丈夫でないのは母ちゃんのほうではないのか。現れた尻尾を見て、千穿は泣き出しそうになった。彼女はもう随分と前から具合がよくなくて、伏せっていた目を盗んで千穿は家を抜け出してきたのだから。
死んでしまう、何の根拠もなく唐突に、千穿はそう思った。
このままでは、母は死んでしまう。
自分のせいで。
ゆっくりと隣人に向かって歩みやる母を、けれど千穿はどうやって止めればいいのかわからなかった。
「ひぃいっ」
か細い悲鳴をあげて、男は後じさる。そうしながらきょろきょろを忙しなくあたりを見回している。突如、その顔に歓喜が宿った。飛びつくように手にしたのは、総菜などを切るときに使う包丁だった。
「近寄るなバケモノォっ」
鈍色に輝くその刀身を目にして、母は一瞬ひるむように身を引いたが、すぐに気力を取りもどしてさらにひとつ歩を進めた。
恐れにぶれるその手元では、勢いのみで何もできはしないとふんだのだろう。
だが、その予想は大きく結果を違えた。
『 くっ、』
一閃、白刃が煌めいたその直後、母の色褪せた金の髪ひと束が切り離されて床に落ちる。
苦悶が浮かんだその顔には、ざっくりと深い傷ができていた。鮮血が滲み、ぬぐった手のひらにべっとりと痛みの痕を残す。
『母ちゃ、』『大丈夫や』
千穿の言葉を母は途中で切り捨てる。『大したことあらへんわ、あの人と、お前と、暮らせへんことと比べたらどれほどの痛みになるやろう。それに、こん男ももう、刃物やら扱えんやろう』
たしかに、隣人は顫動する両手で包丁を握りしめたまま、目を見開いて母の顔を彩る赤を凝視していた。だらしなく開いた口から恐慌した悲鳴が迸る。「あああああああああああああああああっ」『何ッ』
たかが外れたように繰り出される数回の斬撃を、母は避けきれずに己が身体を持って受け止める。けれど裂傷をその身に深く刻みながら、それなのに母は千穿をその背に庇って立っていた。ぼたりと大量の血が敷板に消えない紋を刻む。
比例するように、色さえ失う母の肌。本当は、今にも頽れそうなのだと千穿は分かっていた。それなのに、千穿は自分の責任であるはずなのに、その背から抜け出すことが怖くて叶わないのだ。
『ちぃっ、小賢しいっ』
一言、母は吐き捨て、なおも振り上げられる腕に足底を叩き込み、包丁を飛ばす。そのままの勢いで足を進め、腕もろとも隣人を土間に引き倒した。
『く、は、 ぁっ』
隣人を見下ろし、母は荒い息をつく。上下する肩の高さが、どれだけ母を消耗させてしまったか千穿は思い知らされた。
『母ちゃん、母ちゃん』
申しわけなくて、怖くて、千穿は繰り返し母の名を呼ばう。彼女はうっすらと笑い、膝をついて千穿をぎゅうと抱きしめた。
『大丈夫や、大丈夫。こんなん、すぐによくなる。母はお前と、あの人がいて、ずっと一緒におられるんやったら、それだけで、
それだけでもう幸せなんよ』
『母ちゃん、ごめん、母ちゃん』
その母ちゃんの幸せを、自分は壊そうとしたのだと、千穿は潰れる声で謝罪した。
母は顔をあげ、ええんよ、そう言いかけた口のまま、不意に固まって自分の入ってきた戸口を凝視した。
『母ちゃん』
言葉を傾けたとき、戸口の光が遮られた。
0
あなたにおすすめの小説
中身は80歳のおばあちゃんですが、異世界でイケオジ伯爵に溺愛されています
浅水シマ
ファンタジー
【完結しました】
ーー人生まさかの二週目。しかもお相手は年下イケオジ伯爵!?
激動の時代を生き、八十歳でその生涯を終えた早川百合子。
目を覚ますと、そこは異世界。しかも、彼女は公爵家令嬢“エマ”として新たな人生を歩むことに。
もう恋愛なんて……と思っていた矢先、彼女の前に現れたのは、渋くて穏やかなイケオジ伯爵・セイルだった。
セイルはエマに心から優しく、どこまでも真摯。
戸惑いながらも、エマは少しずつ彼に惹かれていく。
けれど、中身は人生80年分の知識と経験を持つ元おばあちゃん。
「乙女のときめき」にはとっくに卒業したはずなのに――どうしてこの人といると、胸がこんなに苦しいの?
これは、中身おばあちゃん×イケオジ伯爵の、
ちょっと不思議で切ない、恋と家族の物語。
※小説家になろうにも掲載中です。
あなたの片想いを聞いてしまった夜
柴田はつみ
恋愛
「『好きな人がいる』——その一言で、私の世界は音を失った。」
公爵令嬢リリアーヌの初恋は、隣家の若き公爵アレクシスだった。
政務や領地行事で顔を合わせるたび、言葉少なな彼の沈黙さえ、彼女には優しさに聞こえた。——毎日会える。それだけで十分幸せだと信じていた。
しかしある日、回廊の陰で聞いてしまう。
「好きな人がいる。……片想いなんだ」
名前は出ない。だから、リリアーヌの胸は残酷に結論を作る。自分ではないのだ、と。
あやかし帝都の婚姻譚 〜浄癒の花嫁が祓魔の軍人に溺愛されるまで〜
鳴猫ツミキ
キャラ文芸
【完結】【第一章までで一区切り】時は大正。天羽家に生まれた桜子は、特異な体質から、家族に虐げられた生活を送っていた。すると女学院から帰ったある日、見合いをするよう命じられる。相手は冷酷だと評判の帝国陸軍あやかし対策部隊の四峰礼人だった。※和風シンデレラ風のお話です。恋愛要素が多いですが、あやかし要素が主体です。第9回キャラ文芸大賞に応募しているので、応援して頂けましたら嬉しいです。【第一章で一区切りで単体で読めますので、そこまででもご覧頂けると嬉しいです】。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
本日、訳あり軍人の彼と結婚します~ド貧乏な軍人伯爵さまと結婚したら、何故か甘く愛されています~
扇 レンナ
キャラ文芸
政略結婚でド貧乏な伯爵家、桐ケ谷《きりがや》家の当主である律哉《りつや》の元に嫁ぐことになった真白《ましろ》は大きな事業を展開している商家の四女。片方はお金を得るため。もう片方は華族という地位を得るため。ありきたりな政略結婚。だから、真白は律哉の邪魔にならない程度に存在していようと思った。どうせ愛されないのだから――と思っていたのに。どうしてか、律哉が真白を見る目には、徐々に甘さがこもっていく。
(雇う余裕はないので)使用人はゼロ。(時間がないので)邸宅は埃まみれ。
そんな場所で始まる新婚生活。苦労人の伯爵さま(軍人)と不遇な娘の政略結婚から始まるとろける和風ラブ。
▼掲載先→エブリスタ、アルファポリス
※エブリスタさんにて先行公開しております。ある程度ストックはあります。
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
火輪の花嫁 ~男装姫は孤高の王の夢をみる~
秦朱音|はたあかね
キャラ文芸
王を中心に五家が支配する、綺羅ノ国。
五家に覡(かんなぎ)として仕える十六夜家の娘、久遠(くおん)は、幼い頃から男として育てられてきた。
都では陽を司る日紫喜家の王が崩御し、素行の悪さで有名な新王・燦(さん)が即位する。燦の后選びに戦々恐々とする五家だったが、燦は十六夜家の才である「夢見」を聞いて后を選ぶと言い始めた。そして、その夢見を行う覡に、燦は男装した久遠を指名する。
見習いの僕がこの国の后を選ぶなんて、荷が重すぎる――!
久遠の苦悩を知ってか知らずか、燦は強引に久遠を寝室に呼んで夢見を命じる。しかし、初めて出会ったはずの久遠と燦の夢には、とある共通点があって――?
謎に包まれた過去を持ち身分を隠す男装姫と、孤独な王の恋と因縁を描く、和風王宮ファンタジー。
※カクヨムにも先行で投稿しています
人間嫌いの狐王に、契約妻として嫁いだら溺愛が止まりません
由香
ファンタジー
人間嫌いで知られる狐族の王・玄耀に、“契約上の妻”として嫁いだ少女・紗夜。
「感情は不要。契約が終われば離縁だ」
そう告げられたはずなのに、共に暮らすうち、冷酷な王は彼女だけに甘さを隠さなくなっていく。
やがて結ばれる“番”の契約、そして王妃宣言――。
契約結婚から始まる、人外王の溺愛が止まらない和風あやかし恋愛譚。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる