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さあ、目を覚まして
ひとりでないなら
しおりを挟む『人間、人間、己の声が聞こえるか』
最奥に沈めた意識のなかに割り込む、風鈴の涼やかさをまとった美しい声。聞こえている、彼の声が自分に届かぬはずがないのだ。
けれど聞きたくはないと仔どもは耳をふさいだ。今の刹《さつ》貴《き》は、仔どもにとって不本意なことしか言わないに違いない。
『人間、人間、聞こえているだろう』
怒るでもなく、彼は辛抱強く訊ねた。
「聞こえない。なにも、聞こえない、聞かない」
仔どもは身をこわばらせ、褪せた声で繰り返す。苦笑が降ってきた。
刹貴は膝を折り、仔どもを畳に座らせる。暖かい手が頬を滑る。促すように。仔どもは耳を塞ぐ手をそのままに、恐るおそる淡雪に縁取られた目を開けた。
『いつまで、お前は逃げ続ける』
咄嗟に、顔を背けようとした。なのに頬に添えられた両の手がそれを阻む。悔しい、この手はなにもちからを込めて仔どもの動きを制限しているわけではないのに。
「はなして」
声が上ずらないように細心を払って平坦に呟く。対して刹貴は薄く口角を上げ、静かに、突き放すように仔どもに言った。
『振り払えばよい』
それができれば何も苦労はしないと言うに。
仔どもをなぶるように指を滑らせた男を少なからず憎く思いながらも、仔どもの手は彼の腕を掴むばかりで引き離そうと動いてはくれない。彼の指先が、そうであるのにまだ仔どもに優しいから。
無理だと先ほどよりか細い声で仔どもは答えた。
『何故』
ぐっと仔どもは息を呑み、震えようとする声を押さえつけて刹貴を糾弾する。
「いじわるだ、刹貴は、ひどい」『それもまた、何故』
大した痛手は受けていないと言いたげにあっさりと刹貴は切り返す。
サトリのくせに、こんなに近くで触れあえばなんだって労せずに仔どもの内情を手に入れてしまうくせに、どうしていやなことばかり訊く。
分かっているんだろう、それなのに。
『何故だ、人間』
逃げることは赦されない。刹貴の確固たる意思が仔どもの内から返答を引きずり出そうとする。
仔どもは抵抗を諦め、最後まで刹貴から逸らそうとしていた瞳を刹貴に据えた。外から射し入る燐光を受けて、それは蒼く光をこぼす。刹貴の腕を握り締め、言葉を喉元に押し上げる。
「刹貴を、傷つけたくは、ないよ」
拒絶、拒絶。酷いにもほどがある。ぽっかりと胸に穴が開く、それは白く暗い静寂だ。腕が払われる、そのときの空虚な感覚を自分がその穴を持っているだけに見過ごせる仔どもではない。
刹貴はすこし首を傾けた。彼の長い髪が肩口から零れていくのを視界の端におさめて、続いた言葉に仔どもは肩を慄かせた。
『そこまで分かっているくせに何故、その先は見ようとしない。お前を失うことのほうが、こんな些細な拒絶よりも己を抉ると何故考えつかぬ』
痛みを含んだ重い、声音。
また間違った、こみ上げる何かに必死で対抗しながら、仔どもは思う。
『仮にお前が己を想うなら、お前は家に帰るべきだ』
常に曝け出されればいい、仔どもがとるべき正しい道が。そうすれば二度と間違うことはないのに。けれど同時に仔どもは今回ばかりはそのようにいかないことも分かっている。
そうすることが何よりも正しいのだとしても、父親のいる屋敷へはどうしたって帰りたくはないのだ。
『お前は自分の生家から逃げて。我らからも逃げて、 逃げて。
そうしてようやく捕まえることができたと思った。逃げるのをやめたと思った。お前はまだ怯えていた。そうだ、一生お前は怯え続けるだろうけれど。それでも何もかも忘れて笑う瞬間だってあったろう。自分を取り巻くものが不幸ばかりではないと知ったはずだ。
なれどお前はまだ逃げることを止めぬのか』
『逃げてる、わけじゃない。
でも、刹貴、みたいに。大切にされてた、わけじゃ、ない』
好かれてるなら、さいしょから。死んだりなんてしないよ。
目を伏せてそう呟くと、刹貴はいきなり立ち上がった。
『では確かめに行くか』
腕を引かれ、もののように肩に担がれる。
「 っ、」
意味を悟った。抵抗したが役に立たない。父さま、と、そう思い浮かべるだけであふれる記憶が五感を犯す。
「い、いや、だぁっ」
背中を叩き、腹を蹴飛ばして暴れる仔どもを押さえつけ、刹貴は有無を言わさぬ口調で言い放った。
『拒否は、聞かないといったぞ』
「いやあぁっ」
『聞かぬといったッ』
泣き叫ぶ仔どもに、怒号が飛んだ。頭が真っ白になってしまって、仔どもは悲鳴を上げることを忘れ固まる。
初めて、刹貴が声を荒げた。どんなときであれ、静を体現していたような男が。
遅れて、じわじわと身体におそれが浸みていった。
「さつき、さつ、き」
先ほどとは違った理由であふれ出した涙が、手の甲のうえに歪んだ跡をつくる。
刹貴は仔どもを畳の上に降ろした。腰が砕けて、へたりとその場に尻餅をつく。瘧のように震えながら腰を引く仔どもの両腕を掴み、膝をついて男は仔どもと相対する。
『頼む、共に来てくれ。お前を喪いたくはない』
ひうと仔どもは喉を引き攣らせた。
こんなに大きな立派な大人が広い背を丸めて、やろうと思えばいかようにもできる小さな仔どもの手を縋るように握っている。仔どもはくしゃりとその相貌をゆがめた。「刹貴は、ずるい」
そんな痛ましいまでの声で乞われると、どうしたって願いを叶えてあげたくなるではないか。
でも、でも。
「こわいぃ っ」
へたんと座り込み、ぼろぼろと仔どもは泣きじゃくった。
ひどいことをしないで、痛いことをしないで。あたしはただこの身体で生まれただけなのに。(どうして嫌わなければならないの)
『ああ、そうだな。すまない、 すまん 』
刹貴は仔どものしずくであふれるほおを拭う。遮二無二伸ばされるいとけない手を取って、強くつよく抱きすくめる。
死にたくない、嗚咽の中で仔どもは言った。それが一度刹貴が喪った心ノ臓をやわく引き絞る。『 ひどいことを強いているな、己は』
自嘲はすれど、彼は止まる気はないのだ。他の誰でもなく傷つくのは仔どもだと知っていても、怯めば途方もない後悔をすることも了解していたから。『なあ、子ども。今まで、己が嘘をついたことはあったか』
「ない、よ」
仔どもにとって、それは考えるまでもないことだった。
『だろう』
優しい手が仔どもの白髪を撫でる。
『だったら、これもすべて本当だ。
お前に苦しみしかもたらさないことを、したりはしない。己はお前を裏切らない』
いつもの、波のない口調だったからこそ、仔どもはそれを確かだと感じることができた。
走り続けていた心ノ臓が、ゆっくりと、速度を落としていく。ちからが入りすぎていた身体も、徐々に解れていった。
『己もともに行くのだ。ひとりではない。怖くなったらいくらでも泣けばいいし縋ればいい。お前を無理に帰したりはせぬ。納得できるまで己はお前の傍にあろう』
それは駄目押しに等しかった。
落ち着いたのを読んだのか、刹貴は仔どもを腕の中におさめなおす。
もう暴れないよと仔どもは言ったが、刹貴はお前のためだと取り合わなかった。暴れすぎたせいなのか前よりもずっと疲れていたから、素直に抱かれておくことにする。
優しいひと。
「はなれないでね」
無論、と請け負う声の太さに耳を澄ませて、仔どもは脳裏に響く父親の罵倒を振り切ろうとした。
心ノ臓が、身体中が、ずきずきと痛んでいる。今ある傷も、過去のまぼろしも。
けれどこの刹貴の声と風鈴の音を聞いていれば、きっと大丈夫だ。罵声も痛みも、追いやってくれる。警鐘にだって耳を貸す必要はない。
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