秘密の花園 ~光の庭~

犬飼ハルノ

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真神憲二と真神勝巳

翼を広げて(憲二、勝巳 大学時代)

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「夜の美術館ってさ、なんか、いそうだと思わない?」


 かつんと、靴を鳴らして得意げに兄は振り向いた。


「・・・なぜここでそれを言う」

「ん?だってそんな雰囲気じゃん」

「頼むから、やめてくれ。言霊が呼びそうだ」

「はははーっ。勝巳は相変わらず弱虫でちゅねえ」


 わざと赤ちゃん言葉を使い、にやにやと目じりを下げて顔を寄せてくる男をどうしてくれようと、深いため息をつく。

 晩秋の七時ごろなんて、日が落ちるとあっという間に夜の闇の中だ。

 それはもちろん、このパリのど真ん中でも同じことで、ましてや・・・。


「こんな時間に、なぜミイラが見たいんだ?」

「んー?そんな気分?」


 ここは、ルーブル美術館の一階。


 日暮れを見届けてから入館し、古代オリエントから入って歩き続けているうちに、エジプト美術の部屋へたどり着いた。

 そしてのんびりと歩きながら棺桶やデスマスクを、兄は満面の笑みを浮かべて愛でている。

 そもそもルーブルをこの時間から制覇するのは不可能だ。

 たいていの観光客はミロのヴィーナスを見たら1階のほとんどを小走りに省略して上の階のモナリザやニケめがけて突進する。さらにそこからどこかで見たことあるような絵画を一瞬でも記憶にとどめるためにタイムリミットの迫る中体力のある限り奔走するだろう。

 実際、水曜日の夜のこのフロアは人影もまだらだった。

 かつ、かつんとステップを踏むような陽気な靴音が響き渡る。


 ・・・いや。

 そもそも彼は有名な絵を見たいわけではないのだと、今更気が付いた。

 ルーブルなんて、何度も訪れたに決まっている。


「・・・憲」

「うん?」

「もしかして、記憶の上塗り?」


 副葬品らしきものをのぞき込んでいた肩が不自然に揺れた。

 ゆっくり振り向いた顔には、悪戯が見つかった子供のようなばつの悪い色が浮かんでいる。


「・・・なるほど」


 腑に落ちて、すとんと肩の力を落とした。


「あ、春彦に会いたいなあっていうのは嘘じゃないからな」

「それは、わかってる」


 一昨年の初夏から、母は姉の清乃と幼い甥の春彦を連れてスイスへ移り住んだ。

 亡き祖母が嫁である母に遺した別荘はかつて自分が生まれ育った場所で、同行した姉兄にとってもなじみの深いところだが、長兄の俊一の不慮の死と清乃の政略結婚、そして夫からの暴力による妊娠と春彦の出産と気の休まらない日々の中に紛れているうちに、憲二は真神の家と距離を置くようになり、ついにはふらっと留学したきり、一時期は連絡も途絶えた。

 そんな彼が東京の大学へ通う勝巳のもとへひょっこり現れて、一緒に甥っ子を見に行かないかと誘う。

 何かあるなとは思っていたのだ。

 だが、そもそも憲二の誘いを自分が断れるはずがないのだ。


「なるほどね・・・」


 思わず天を仰ぎながら、考えを巡らせた。

 せっかくだから帰りにパリに寄ろうと率先して連れてこられたのはこのルーブルと、やたらゴージャスなホテルだ。


「もしかして、あのスウィートも?」

「う・・・」


 時々、憲二は嘘がつけない。


「・・・ええと、ごめんね?」


 おずおずと小さく頭を傾けながら、上目遣いに謝ってきた。

 他人の前なら息をするようにさらりとかわし、煙に巻くのに、姉と自分の前では時々小さな憲二が顔を出す。


「まあいいか・・・」

「ほ、ほんと?」


 可愛いからいいやとか、我儘を言われて嬉しいとか、心の内をさらさない自分の方がもっと嘘つきだ。

 弟が悪党とも知らず、憲二は全幅の信頼を寄せて甘えかかる。

 何も知らない、かわいそうな、憲。


「今度はどうした?揉めたってことだろう?」


 この様子だと、思い出したくない記憶になるほどの。


「えーっとね。面白そうな人だなーって近寄ってみたら・・・」

「うん」

「なんか、めっちゃくちゃつまらなかった・・・」

「は?」

「だいたい妻子持ちだし地位あるし結構年上だったから、雲行き怪しくなって来たらスマートに別れるよねーっていうか、それくらいの分別あるだろうと思っていたんだけど、ぜんっぜんききわけなくて・・・」


 妻子持ちに手を出すことなんて今更だから驚かない。

 そもそも突然の転校の理由自体、地元の後援者を男女問わずまとめて数人平らげて泥沼の争いになったからだった。


「それで?」

「なんかさあ、はりぼてだよねって言ったら逆上した」

「はあ?」

「例を挙げたら色々ありすぎてきりがないけどさ。あえて言うなら見栄っ張りなんだよ。ここだって学会のおともに連れてこられて、蓋を開けたら全部製薬会社払いだったりして。俺は別に割り勘で構わなかったのに」


 学生という身分ではあるが、憲二には祖父母たちからの遺産相続で結構な資産がある。


「・・・見栄を張りたかったんだろう。年上だけに」

「なに?お前、あいつの肩持つの?俺、殺されそうになったんだけど?」


 むくれて見せるが、目の前にいる本人には傷一つない。


「・・・またか?いやそれより、学会と製薬会社って、もしかして・・・」


 思い当たる人物の顔と名前がちらりとよぎる。


「うちの教授か?」


 担当教員で現在病気療養中の名目で休職者が一名いる。

 彼は、医学界の風雲児としてテレビの取材を受けるほどの有名人だ。


「ビンゴ」

「なんてことを・・・。俺、あの人の講習受けていたのに・・・」


 憲二と再会して何度目かわからないため息を、深々とつく。

 そういえば、国外の招きを受けて頻繁に海外渡航しているため多忙という噂を聞いていた。二人の出会いはその辺にあったのだろう。


「お前殺して俺も死ぬーってパターン、もう飽きたんだけどなあ」


 悪びれるところは一切なく、くすりと笑うその顔は相変わらず妖艶で、傾城という言葉が頭に浮かぶ。


「あ、でももう大丈夫。いろんなルートを使って万事解決済み」


 製薬会社払いの遊興費は、どう考えても裏金だ。

 そこをつくことによって、目を覚まさせたのか。

 実質的には冷却期間を含めた休職で、公にしたくない大学側からの制裁措置なのかもしれない。


「解決・・・か」


 真神家の力に頼らずとも解決できるほど、憲二には不思議な人脈がある。

 それがどういったつながりなのか聞いたところで、おそらく嫉妬に苦しむだけと思い、深入りしないと決めていた。



 憲二を抱いて。

 殺したいほど、狂う者もいる。

 そして、友として関わり続けたいと思う者もいる。

 ほんの一瞬でも憲二の体の奥深くに触れたことを想像すると暗い気持ちが沸き上がるのを止められない。

 けれど、彼らには心から感謝している。

 自由奔放に見えて、実は生きることに苦しむこの人を。

 幼いころに投げつけられた言葉に縛られて、凍ったままのこの人を。

 抱きしめてくれてありがとう。

 温めてくれて、ありがとう。

 憲二が笑ってくれれば、自分には十分だ。



 今を生きる芸術たちに敬意を表し、鑑賞することに二人は専念する。

 何を言っても今更だと解っているから、蓋をしてミイラの間に置いてきた。

 さんざんに貶したものの、憲二なりに、教授のことは好きだったのだろう。

 思い出を葬るために、わざわざここまで来たのだから。

 ミロのヴィーナスの豊満な体を取り囲む人々を横目に見ながら通り過ぎ、エルトリア美術をそれぞれ眺めていると、憲二が口を開いた。


「・・・なあ、腹減った」


 最初はあれほど熱心にのぞき込んでいたのに、膨大すぎる展示物に飽きたのか、だんだんと歩みと視線がおざなりになってくる。


「マルリにでも行こうか?」


 深夜まで営業しているカフェの名前を出すと、ぱっと顔を輝かせた。


「うん、行こう行こう。もう脳みそがぱんぱんだよ」


 古代文明にくるりと背を向け、地図を眺める。


「リシュリュー翼ってあっちだよな」

「憲、待って、二階から行けるとは思うけど・・・」


 子供のように駆けだしそうな兄の腕を慌ててつかんだ。

 確かな手ごたえと熱が、手のひらに広がる。


「あ、ニケ」


 見上げた階段の先には、大きな大理石の彫像が堂々たる姿を現す。

 サモトラケのニケ。

 顔と腕がないにも関わらず、優美さと躍動感において類を見ない至宝。


「相変わらず、勇ましくて、ほれぼれするね」


 満足げにため息をつく横顔に思わず見とれた。

 今日一番の、綺麗な微笑。


「・・・綺麗だな」

「うん、とても」



 翼を広げ、前へ踏み出す女神。

 羽ばたく、音を聞いた。


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