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容認する理由
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「特別な牛…」
魔導士庁が絡んだ特別な牛。
彼らからの善意が詰まった『特別』。
じわじわとその意味がマリアロッサたちの五臓六腑にしみこんでくる。
「今うちで飼育している家畜は、鶏、山羊、牛で、全て魔導士庁よりの贈り物です。その子たちから分けてもらった卵と乳を料理に使いました。それがいい塩梅になったのかもしれませんね。…ああ、あと私が思うに水もそうかと」
コーヒーカップを覗き込みながら、ヘレナは続けた。
「確か、この別邸は本邸とは取水が別ですよね。考えられるのはそれくらいでしょうか」
「水?」
「はい。この敷地内は建てられた当初から国が整備した水道の水を使用しているけれど、別邸は北の森の由来の地下水だとお聞きしたと思います」
「ああ、そういえば…。義妹がこちらで療養をすると決まったに改築をしたのだったわ。王都中を走ってきたものよりも、北の山岳からの水の方が身体に良いだろうと夫たちが言い出して…」
北の山々をたどるとやがて、この少女の母親の故郷であるカドゥーレにつながっている。
生活するには厳しい地形のため、住まう人は多くない。
これも、何かの縁なのではないだろうか。
マリアロッサはそう思わずにはいられなかった。
「ブライトンも屋敷に引いてあるのは王都の水道水でしたが、庭に曾祖父の掘らせた井戸が一つありまして、私にはそちらの方が美味しく感じました。もしかすると、その程度の違いかもしれませんが」
「そう…。確かにそうかもしれないけれど…」
会話を続けているうちに、マリアロッサは考えを改める。
このゴドリー伯爵家の様子を手近な者に探らせ上がってきた報告書を読むうち、カタリナ・ストラザーン伯爵夫人の強力な庇護あってこそ、ヘレナという少女の暮らしは成り立っているとばかり思い込んでいた。
カタリナは魔導士庁の功労者で王の信頼は厚く、ラッセル商会はストラザーン御用達と言って良いほど緊密な関係。
全て、お膳立てされた環境に咲くひ弱な野の花だと。
報告者の先入観に基づいたものであるし、マリアロッサ自身それを鵜吞みにしてしまった。
大切なことをいくつも見落としていたのだと今更気づく。
ヘレナ・リー・ストラザーンはカタリナの姪であり、王妃秘蔵のお針子の娘であり、ブライトン家が坂を転がるように没落していく中、腐ることなく平常心を保ち続けたのだ。
この子は蘆のように強い。
なら、打ち明けておかねばならない。
この事態を容認している理由を。
「突然だけど、話を変えても良いかしら」
マリアロッサの声色に、空気が変わった。
「はい」
ヘレナの短い応えに、マリアロッサは目を細め微笑む。
「ありがとう。ここの様子を見極めてから…。いいえ。十七歳の貴族令嬢には理解しがたい話だと思い、今日は言わないつもりだったのだけど」
今、この時もためらいはある。
だけど、この少女なら。
「聞いてちょうだい。なぜ、コンスタンスの存在を我々が容認することにしたかを」
秘書官たち、そしてホランドとクラークが背筋を伸ばし、深刻な面持ちになるのを見たヘレナは、マリアロッサに尋ねる。
「部屋を移し、私と侯爵夫人の二人だけの席を設けましょうか」
外部の人間が盗み聞きすることはないが、今この場はあまりにも人が多すぎた。
「いえ、大丈夫よ。今ここにいる者たちはみな知っているし、スミスの騎士の仕事ぶりは信頼に値するから」
マリアロッサは首を振り、コーヒーを一口飲んだ。
「結論を言うと、リチャードの妻となって支えられる令嬢がいないから、彼女の存在を許すことにしたの」
リチャードは曲がりなりにも侯爵家の嫡男だ。
幼い時から決められた婚約者は存在した。
しかし、少し年が離れた令嬢が成人するのを待つ最中、隣国との飛び地を巡っての戦争が起きた。
事を悪化させているのは大公の愛人の兄であるマカフィー分隊長。
その時、彼の頭をなんとか押さえられる身分を持つ騎士はリチャードしかおらず、任命され出征した。
普通ならば将軍職のリチャードは一番安全な場所で指令を出すだけで良いはずだが、そうはいかず、血と泥にまみれる地獄の真っただ中に放り込まれた。
たくさんの命が散るのを見つめ続けねばならない上に、命の危険にさらされた。
なんとか任務を終え帰国した息子を出迎えたマリアロッサはすぐに変化に気付く。
疲れていると言い訳をしたが、どこか虚ろで、顔色も悪い。
「息子が戦争で受けた心の傷は、戦争を知らない貴族の娘たちの手に負えない。そう痛感する事件が帰国してすぐに起きたわ」
それは王宮での夜会だった。
華々しい功績を上げたゴドリー侯爵令息の妻、もしくは愛人の座をもくろんだ男爵令嬢とその家族が王宮の騎士や侍従を買収し、リチャードに媚薬を盛ってあらかじめ用意していた部屋へ連れ込んだ。
しかし、彼らが用いた薬が不運を招く。
不眠症に悩まされていたリチャードは密かに睡眠薬を常用し、薬漬けの状態だった。
そこへ安物の媚薬を飲まされ、幻覚症状を引き起こした。
つまりは、幻覚により『敵襲を受けている』と錯覚したリチャードは、ベッドの上で覆いかぶさってきた男爵令嬢の両腕を脱臼させ、悲鳴を聞いて駆け付けた父親の男爵の首を折り、さらに買収されて見張りをしていた騎士の剣を奪い、その者の太ももに突き刺した。
ここで強力な魔法を操る騎士が駆け付け、リチャードを捕縛し昏倒させたが、魔獣の捕縛ほどの困難を極めたという。
男爵は即死だったが、生き残った関係者の話を聞き出した王家は戦争のそもそもの発端が大公と取り巻きの専横を許したせいでもあるため、全てを秘密裏に処すことに決めた。
しかし、身体の傷は医術や魔術で治せても心の傷はどうにもならない。
悪夢で一晩に何度も飛び起きるリチャードは、時として錯乱を起こす。
媚薬を盛られた時のように暴れたりはしないが、健康とは程遠い状態だ。
彼は、精神的にぎりぎりのところに立っていた。
まだ成人したてで王都育ちの貴族令嬢にはとても背負えるものではないと判断した王と両家は、話し合いの末婚約を白紙に戻した。
その後元婚約者は王の差配で別の貴族と結婚し、幸せに暮らしている。
魔導士庁が絡んだ特別な牛。
彼らからの善意が詰まった『特別』。
じわじわとその意味がマリアロッサたちの五臓六腑にしみこんでくる。
「今うちで飼育している家畜は、鶏、山羊、牛で、全て魔導士庁よりの贈り物です。その子たちから分けてもらった卵と乳を料理に使いました。それがいい塩梅になったのかもしれませんね。…ああ、あと私が思うに水もそうかと」
コーヒーカップを覗き込みながら、ヘレナは続けた。
「確か、この別邸は本邸とは取水が別ですよね。考えられるのはそれくらいでしょうか」
「水?」
「はい。この敷地内は建てられた当初から国が整備した水道の水を使用しているけれど、別邸は北の森の由来の地下水だとお聞きしたと思います」
「ああ、そういえば…。義妹がこちらで療養をすると決まったに改築をしたのだったわ。王都中を走ってきたものよりも、北の山岳からの水の方が身体に良いだろうと夫たちが言い出して…」
北の山々をたどるとやがて、この少女の母親の故郷であるカドゥーレにつながっている。
生活するには厳しい地形のため、住まう人は多くない。
これも、何かの縁なのではないだろうか。
マリアロッサはそう思わずにはいられなかった。
「ブライトンも屋敷に引いてあるのは王都の水道水でしたが、庭に曾祖父の掘らせた井戸が一つありまして、私にはそちらの方が美味しく感じました。もしかすると、その程度の違いかもしれませんが」
「そう…。確かにそうかもしれないけれど…」
会話を続けているうちに、マリアロッサは考えを改める。
このゴドリー伯爵家の様子を手近な者に探らせ上がってきた報告書を読むうち、カタリナ・ストラザーン伯爵夫人の強力な庇護あってこそ、ヘレナという少女の暮らしは成り立っているとばかり思い込んでいた。
カタリナは魔導士庁の功労者で王の信頼は厚く、ラッセル商会はストラザーン御用達と言って良いほど緊密な関係。
全て、お膳立てされた環境に咲くひ弱な野の花だと。
報告者の先入観に基づいたものであるし、マリアロッサ自身それを鵜吞みにしてしまった。
大切なことをいくつも見落としていたのだと今更気づく。
ヘレナ・リー・ストラザーンはカタリナの姪であり、王妃秘蔵のお針子の娘であり、ブライトン家が坂を転がるように没落していく中、腐ることなく平常心を保ち続けたのだ。
この子は蘆のように強い。
なら、打ち明けておかねばならない。
この事態を容認している理由を。
「突然だけど、話を変えても良いかしら」
マリアロッサの声色に、空気が変わった。
「はい」
ヘレナの短い応えに、マリアロッサは目を細め微笑む。
「ありがとう。ここの様子を見極めてから…。いいえ。十七歳の貴族令嬢には理解しがたい話だと思い、今日は言わないつもりだったのだけど」
今、この時もためらいはある。
だけど、この少女なら。
「聞いてちょうだい。なぜ、コンスタンスの存在を我々が容認することにしたかを」
秘書官たち、そしてホランドとクラークが背筋を伸ばし、深刻な面持ちになるのを見たヘレナは、マリアロッサに尋ねる。
「部屋を移し、私と侯爵夫人の二人だけの席を設けましょうか」
外部の人間が盗み聞きすることはないが、今この場はあまりにも人が多すぎた。
「いえ、大丈夫よ。今ここにいる者たちはみな知っているし、スミスの騎士の仕事ぶりは信頼に値するから」
マリアロッサは首を振り、コーヒーを一口飲んだ。
「結論を言うと、リチャードの妻となって支えられる令嬢がいないから、彼女の存在を許すことにしたの」
リチャードは曲がりなりにも侯爵家の嫡男だ。
幼い時から決められた婚約者は存在した。
しかし、少し年が離れた令嬢が成人するのを待つ最中、隣国との飛び地を巡っての戦争が起きた。
事を悪化させているのは大公の愛人の兄であるマカフィー分隊長。
その時、彼の頭をなんとか押さえられる身分を持つ騎士はリチャードしかおらず、任命され出征した。
普通ならば将軍職のリチャードは一番安全な場所で指令を出すだけで良いはずだが、そうはいかず、血と泥にまみれる地獄の真っただ中に放り込まれた。
たくさんの命が散るのを見つめ続けねばならない上に、命の危険にさらされた。
なんとか任務を終え帰国した息子を出迎えたマリアロッサはすぐに変化に気付く。
疲れていると言い訳をしたが、どこか虚ろで、顔色も悪い。
「息子が戦争で受けた心の傷は、戦争を知らない貴族の娘たちの手に負えない。そう痛感する事件が帰国してすぐに起きたわ」
それは王宮での夜会だった。
華々しい功績を上げたゴドリー侯爵令息の妻、もしくは愛人の座をもくろんだ男爵令嬢とその家族が王宮の騎士や侍従を買収し、リチャードに媚薬を盛ってあらかじめ用意していた部屋へ連れ込んだ。
しかし、彼らが用いた薬が不運を招く。
不眠症に悩まされていたリチャードは密かに睡眠薬を常用し、薬漬けの状態だった。
そこへ安物の媚薬を飲まされ、幻覚症状を引き起こした。
つまりは、幻覚により『敵襲を受けている』と錯覚したリチャードは、ベッドの上で覆いかぶさってきた男爵令嬢の両腕を脱臼させ、悲鳴を聞いて駆け付けた父親の男爵の首を折り、さらに買収されて見張りをしていた騎士の剣を奪い、その者の太ももに突き刺した。
ここで強力な魔法を操る騎士が駆け付け、リチャードを捕縛し昏倒させたが、魔獣の捕縛ほどの困難を極めたという。
男爵は即死だったが、生き残った関係者の話を聞き出した王家は戦争のそもそもの発端が大公と取り巻きの専横を許したせいでもあるため、全てを秘密裏に処すことに決めた。
しかし、身体の傷は医術や魔術で治せても心の傷はどうにもならない。
悪夢で一晩に何度も飛び起きるリチャードは、時として錯乱を起こす。
媚薬を盛られた時のように暴れたりはしないが、健康とは程遠い状態だ。
彼は、精神的にぎりぎりのところに立っていた。
まだ成人したてで王都育ちの貴族令嬢にはとても背負えるものではないと判断した王と両家は、話し合いの末婚約を白紙に戻した。
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